(祈るって、約束したのに)

 血の気が引く。
 私は震える指先で、そっとハンカチを取り出した。

(私が、ロザリーとの約束を忘れていたなんて)

 信じられない。けれどもこれは、紛れもない事実。

(私らしくない)

 私らしくない?
 そうだわ。思えばずっと、私らしくない。
 思慮の浅い言動も、大切な約束を破ってしまうのも。
 相手の全てを肯定して、受け入れてしまうのも。

(もしも。もしも隣にいたのが、ルキウスだったなら?)

 彼ならきっと事前に演目を教えてくれて、「恋人同士で観る人が多いらしいよ」って、悪戯っぽく笑って。
 お付きの人はいなくとも、開演まで私の緊張を解そうとあれこれ世話を焼こうとして。
 けれども小さな声でこそっと、マナーも教えてくれるのだわ。

 ロザリーのハンカチに祈りを込めようとしたのなら、一緒に祈ってくれて。
 舞台が始まれば、私はきっと没頭できる。
 ルキウスが私に触れるのだとしたら、きっと、私が泣いてしまった時だけだろうから。

 そうして舞台が終わったなら、私は興奮に包まれながら、ひたすら感動に打ち震える胸の内を話し続けるのだろう。
 彼はそれを、楽し気な微笑みで許してくれるのだと知っているから。
 仮面はいらない。だって、それが"私"だもの。

「――っ!」

 ほとんど衝動だった。
 勢いよく立ち上がり席を離れると、すかさず「いかがいたしましたでしょうか」とお付きの方が声をかけてきた。
 それとほぼ同時に、

「何事だ」

「! アベル様」

 その姿を目にすると、やっぱり恋しい気持ちが湧き上がってくるけども。

(大事なことすら忘れてしまう盲目的な恋なんて、私には、必要ない)

「申し訳ありません、アベル様」

 私は覚悟を持って、恭しく低頭する。

「夢のようなひと時をありがとうございました。ですが、どうしても。どうしても、行かねばなりません。……私は、私らしくありたいのです」

「なに……?」

「身勝手に去る無礼を、どうかお許しください」

 口早に告げた私は、急いで扉から駆け出した。
 公演開始の音楽が鳴る。そのおかげもあって駆け下りたロビーには、誰もいない。

(とにかく馬車をつかまえなきゃ……!)

 劇場から飛び出すも、当然、並んでいるのは"お抱え"の馬車ばかり。