他の誰でもなく、私がアベル様の婚約者になりたいから、ルキウスと婚約破棄をしたくてたまらない……はず。
 なのになぜ、アベル様が他のご令嬢と並ぶのを祝福できるのかしら。

(だって、さっきは)

 ルキウスが、他のご令嬢をエスコートしているのだと考えた時は。
 あんなにも重く、苦しい気持ちになっていたというのに。

「お紅茶です」

「! ありがとうございます」

 差し出されたカップを受け取り、コクリ流し込む。
 刹那、鼻腔に広がる柑橘系の芳醇な香り。

「これは……!」

「茶葉にベルガモットの香り移した紅茶だ。気が休まるからと、俺が好んで飲んでいるのだが……口に合わなかったか?」

「いえ、初めての体験でしたので、驚いただけにございます。本当、なんていい香り」

(アベル様が愛飲している紅茶までいただけるなんて……!)

 なんて贅沢な、至福のひと時なのかしら!
 嬉々としながらもう一口を含めば、たしかに緊張が解れたような気がする。

 ほ、と息をついた私の表情も柔らかかったのだろう。
 アベル様は「気に入ってもらえたようで、良かった」と目を細めてから、視線を前方へ投げる。

「そろそろ幕が上がる。柵が下がると、会場中の視線を受けなければならない。……平気か」

 ごくり、と喉が鳴る。
 緊張、恐怖。ドレスに隠れた足が震えてしまうけれど、私はもう、逃れられない。

「……はい」

 カップを返して、背を正す。
 仮面はきっと、私を"謎のご令嬢"にしてくれている。だから、大丈夫。
 アベル様はそんな私の横顔をじっと眺めてから、左手をぎゅっと強く握ってくれた。

「キミは、俺のパートナーだ」

 下ろしてくれ。
 その言葉を合図に、木製の柵が下がった。
 途端、静まりかえった会場から、数多の視線が飛んでくる。

(大丈夫、大丈夫)

 アベル様の握ってくれている手は、どの席からも見えていないだろう。
 震えてしまわないよう、口元に淑女の微笑みを貼り付けていると、音楽が響いた。
 視線が剝がれる。

(よかった……始まるのね)

 アベル様の体温が、どんなに心強かったことか。
 客席が暗くなり、照らされるのは舞台だけ。
 これならもう平気だとこっそり伝えようと、アベル様にちらりと視線を向ける。
 そこには真剣な面持ちで舞台を見つめる、精悍な横顔。