とはいえこんな所で倒れたら大変と、私は密かに深呼吸を繰り返す。
 その行動が奇妙に映ったのか、アベル様は「……すまない。欲張りすぎたな」と眉尻を下げ、

「それでも、キミの初めて観る"聖女ルザミナ"の相手が、俺で良かったと思わずにはいられない。キミの婚約者……ルキウスには、悪いことをした」

「っ! そ、れは」

「だが」

 アベル様が少し強い口調で、私の言葉を遮る。
 そろりと向けた視線を柔い眼差しで受け止め、

「申し訳なさはあれど、後悔はない。今日のキミは、俺のパートナーだ」

「アベル様……!」

 馬車が止まる。劇場についたらしい。
 アベル様が先に降り立ち、「さあ」と右手を差し出してくれる。刹那。

『マリエッタ』

 重なる、ルキウスの姿。

「っ!」

「どうかしたか?」

「! い、いえ。アベル様のお手を借りれるなんて、恐縮ですわ」

(どうして私、ルキウスの姿なんて思い出しているのかしら)

 アベル様は、気づかれなかったよう。
 私がおずおずと乗せた手を、指先でくっと握り込め、

「エスコートを申し出たのは俺だ。当然のことだろう」

 薄い笑みに、心臓が高鳴る。
 そう、高鳴るのだもの。間違いなく、これは、恋。

(なのにどうして、こんなにも心臓の奥が苦しいの)

 アベル様が私の手を取ってくれているように、ルキウスもきっと、今頃私ではない誰かの手を取っているのだろう。

 望んだのは私。なのに。
 なのに、どうして……。
 その時、周囲のざわめきに気が付いた。

「あれは、アベル様?」

「ご令嬢をエスコートされているのか?」

「そんな……っ! いったいどこの……!」

(……集中しなきゃ)

 私はアベル様の手を取ったのだもの。恥をかかせるわけにはいかない。
 そして、"私"だと、バレるわけにも。

「行こう」

「……はい」

 仮面はきちんと顔を覆ってくれている。
 私は背を伸ばして、アベル様に導かれるまま馬車から降り立った。