ドクリドクリと、嫌な心臓の音。
 指先に力がこもる。どうしてだろう。
 だって私は確かにルキウスと婚約を破棄しようとしているのだし、この婚約だって、お父様が了承してしまったからで……。

 そこに、私の意志はなかった。
 私はただ、貴族の娘として立派に"婚約者"を全うしようとしていただけ。

 ルキウスに恋心はない。
 何一つ、間違ってはいないはずなのに。

「……戸惑うのも無理はない。俺はともかく、キミの名誉を守る必要がある。聖女祭では、顔の分からぬよう仮面を用意しよう」

 だから、と。
 アベル様が立ち上がる。彼はぷつりと白薔薇を摘み取ると、堂々たる足取りで私に近づいてきた。

「ア、アベル様……っ!」

 慌てて立ち上がった私の隣で歩を止め、自身の胸に手を添えて、軽く腰を折る。

「どうか俺に、キミをエスコートする権利を」

 白薔薇が差し出される。受け取りが、了承の合図ということ。

(駄目よ、マリエッタ。だって、だって……!)

 分かっている、はずなのに。

(ああ、アベル様の深い青の瞳が私を見つめている。私だけを、写している)

 私を求める、熱のこもった真剣な眼差し。
 ずっと、この目に見つめてほしかったような気がする。
 心の芯から歓喜がせり上がってきて、思考が、理性が、うっとりと溶かされていくような。

 ――ああ、これはきっと、彼が私の"運命の人"だからなのね。

(ごめんなさい、二人とも)

「アベル様」

 魔法にかけられているかのように、自然と手が伸びる。

「謹んで、お受けさせていただきますわ」

 恭しく白薔薇を受け取った私の声は、まるで他の誰かが発しているかのように、知らない甘さを含んでいた。