僕の存在など気づかない彼女は、ゆらりと立ち上がり、涙にぬれた頬を上げ美しく微笑んだ。

「たとえその愛が他所にあろうとも。心より、愛しておりますわ。アベル様」

 その言葉を合図に、マリエッタを覆う紫の霧から二体の紫焔獣が飛び出した。
 轟いた咆哮に悲鳴を上げ、逃げ惑う人々。
 その中でアベル様と護衛の騎士たちが、剣を手に紫焔獣と応戦する。

 マリエッタは、静かにその様子を見つめていた。
 彼女の意志なのか、そうではないのか。たとえ騎士らが一体を斬り捨てようと、新たな紫焔獣が生まれ彼らを襲う。

「っ! 己が何をしているのか、わかっているのかマリエッタ!」

 牙をむき出しにした紫焔獣と応戦しながら、アベル様が叫ぶ。

「心を静め、魔力の暴走をおさえつけろ! お前には出来るはずだ!! これ以上は罪を重ねるだけで――」

「嫌ですわ」

「マリエッタ!!」

 叱咤するように叫ぶアベル様に、マリエッタは笑みを浮かべたまま悠然と両手を広げる。

「貴方様を愛する心が罪だとおっしゃるのなら、どうか、その手で裁きを与えてくださいませ」

「ダメだ、マリエッタ!!」

 叫んだのは僕。けれどもやはり、声は誰にも届かない。
 マリエッタは再び紫焔獣を生み出しながら、驚愕の瞳で見遣るアベル様に語りかける。

「さあ、アベル様。このままでは、私の魔力が尽きるまで彼らが増えていくだけですわ」

「……っ! 聖女の浄化を受け魔力を封じれば、侯爵令嬢には戻れなくとも平民よりは良い暮らしがおくれる。俺が手を貸す。生きてさえいれば、別の者を愛することだって――」

「ありえませんわ」

「意地を張っている場合ではない! このまま俺に斬られては、"悪女"としてその名を遺すことになるのだぞ!」

「悪女。けっこうではありませんか」

「マリエッタ!」

 ガチリと鈍い音を響かせて、紫焔獣の牙とアベル様の剣が交差する。
 方々の戦闘でこだまする怒号と悲鳴。
 そして紫焔獣の亡骸である黒い液体と騎士たちの血が飛び交う中を、マリエッタはただひとりだけを見つめて歩を進めていく。

「聖女の……アベル様を奪った女の魔力を注がれるなど、御免ですもの。アベル様。私が愛するのは、貴方様ただひとり。それ以外を愛する心臓など、私には不要です」