星が輝く濃紺の空。その端が徐々に朱くなってきた時分に、ひとりの青年が山の中にある大きな洞穴に入っていった。その洞穴の中は、人為的に大きな穴が掘られ、いくつかの部屋があった。部屋のうちのひとつ、天井の近くに小さな穴が開けられ、外まで続いているのか新鮮な空気が入り込んでいるところ。そこには窯や鍋、簡単な食器などが置かれていて見るからに台所というのがわかる。
先程この洞穴に入ってきた青年。彼は編み込んでいた萌葱色の前髪をほどきながら、台所にいた勿忘草色の髪の青年に声を掛ける。
「ただいま」
「おう、おかえり。ちゃんとごはんは食べてこられた?」
「うん、なんとか」
おかえりと返す勿忘草色の青年は、窯にかけた鍋の蓋をぱかりとあける。蒸気が立ち上って、小麦の甘い香りが漂った。
鍋の中から出て来たのは、白く艶やかな花巻。柔らかく熱い花巻を大皿に何個も乗せ、食台に着いている萌葱色の青年に見せる。
「丁度出来たところだよ」
「わぁ、美味しそう」
ふたりで椅子に座り、花巻に手を伸ばす。
ふと、萌葱色の青年が呟いた。
「僕も、人間のごはんでお腹いっぱいになれればいいのに」
しょんぼりした様子でそう言う彼に、勿忘草色の青年が慣れた様子で返す。
「しょうがないだろ。俺ら夢魔として産まれちゃったんだから。
大人しく女の子の精気食べようぜ」
勿忘草色の彼が言う通り、このふたりはこの地に古くから住んでいる夢魔だ。夢魔というのは人間の精気を主な栄養源としていて、今食べているような人間向けの料理を食べても、栄養は得られない。お腹が膨れるかどうかも疑問なのだ。
「で、兄ちゃん。今回は正攻法で女の子から精気食べたの?」
勿忘草色の青年が、萌葱色の彼に訊ねる。訊ねられた彼の名はシュエイインと言って、この兄弟の兄だ。
「えっと、また上手く行かなくて、事情を説明して分けて貰った……」
「またかよ」
「だって、どうしてもコンみたいに上手くできなくて」
花巻を囓りながら泣きそうな声で、シュエイインが弟のコンに言い訳をする。これはもういつものことで、シュエイインが物心ついて自力で精気を食べる様になってから、ずっと獲物からの同情で精気を分けて貰っているのだ。
弟のコンはと言うと、その辺り上手くやっていて、シュエイインはその事に若干の焦りとうらやましさを感じていた。コンも呆れはする物の、それでも兄が自力で生きて行けているなら、それはそれで良いのではないかと毎回シュエイインに言い聞かせている。
お皿に盛られた花巻に手を伸ばしながら、兄弟は取り留めの無い話をする。
シュエイインは、コンが作った料理を食べながらいつもこう話す。こんな美味しい料理でお腹が膨れる人間が羨ましい。自分も人間と同じ物を食べて生きられるようになりたい。そんな事だ。
実際に、人間と同じ食糧で生きていくとなったら、それは大変な事だというのをコンは勿論、シュエイインもわかっている。今食べている花巻のような簡単な物でさえ、ふたりには毎日作るだけの材料を揃えるのは難しい。人間と同じ料理を食べられるのは数日に一回、下手をすれば月に数回なのだ。
その料理の材料を買うお金は、シュエイインやコンが、獲物にした娘から時折貢がれる物だ。金持ちの家の娘から相当な金額分受け取ることもあるけれど、獲物にし易い相手は、あまり裕福では無い、場合によっては貧しい家の娘だ。なので、ふたりは人間と同じ生活をするだけの収入を得るのは難しい。
「兄ちゃん」
花巻をひとくち分飲み込んだコンが言う。
「花巻美味しい?」
その質問に、シュエイインは花巻をひとくち囓り、よく噛みしめ、飲み込んでからにっこりと笑う。
「すごく美味しいよ。いつもありがとう」
「ん」
嬉しそうに花巻を囓るシュエイインを見ながら、コンは思う。兄が人間の生活に憧れるのは、精気を貰うのが下手だからと言うだけでなく、自分が作る人間向けの料理のせいもあるのではないかと。実際、コンが料理を作り始める前までは、人間の食事で生きていきたいなどとは一言も言っていなかったのだ。
コンが人間の料理を作り始めたきっかけは、なんだったのだろうと考える。ただなんとなく、夜の街を歩いている時に窓から見えた、食卓を囲む家族が幸せそうに見えたからだっただろうか。それとも、風に乗って漂ってくる、焦げた醤の香りが頭に残ったからだろうか。今では思い出せそうに無い。
けれども、なにはともあれ、良いか悪いかもわからないけれど、目の前で嬉しそうに手製の料理を食べるシュエイインを見ていると、料理を作ることをやめられそうに無い。
一方のシュエイインも、コンが料理を作ってくれなくなったら、困りはしないけれども寂しいと思っている。それ故に、自分がしっかり獲物を捕らえられるようになって、心配をかけないようにならないと、コンが料理を作るのをやめてしまうのではないかと不安なのだ。
人間の生活は憧れだけれども、夢魔としての生活をしっかり持たないと憧れに手は届かない。シュエイインはそう思っていた。
皿の上の花巻が無くなり、微かに鳥の鳴き声が聞こえるようになってきた頃。ふたりは食台から立ち上がり、それぞれの寝床へと向かった。家にしている洞穴の外では、日が昇っているのだろう。まるで陽の光を避けるように、ふたりは眠りについた。
先程この洞穴に入ってきた青年。彼は編み込んでいた萌葱色の前髪をほどきながら、台所にいた勿忘草色の髪の青年に声を掛ける。
「ただいま」
「おう、おかえり。ちゃんとごはんは食べてこられた?」
「うん、なんとか」
おかえりと返す勿忘草色の青年は、窯にかけた鍋の蓋をぱかりとあける。蒸気が立ち上って、小麦の甘い香りが漂った。
鍋の中から出て来たのは、白く艶やかな花巻。柔らかく熱い花巻を大皿に何個も乗せ、食台に着いている萌葱色の青年に見せる。
「丁度出来たところだよ」
「わぁ、美味しそう」
ふたりで椅子に座り、花巻に手を伸ばす。
ふと、萌葱色の青年が呟いた。
「僕も、人間のごはんでお腹いっぱいになれればいいのに」
しょんぼりした様子でそう言う彼に、勿忘草色の青年が慣れた様子で返す。
「しょうがないだろ。俺ら夢魔として産まれちゃったんだから。
大人しく女の子の精気食べようぜ」
勿忘草色の彼が言う通り、このふたりはこの地に古くから住んでいる夢魔だ。夢魔というのは人間の精気を主な栄養源としていて、今食べているような人間向けの料理を食べても、栄養は得られない。お腹が膨れるかどうかも疑問なのだ。
「で、兄ちゃん。今回は正攻法で女の子から精気食べたの?」
勿忘草色の青年が、萌葱色の彼に訊ねる。訊ねられた彼の名はシュエイインと言って、この兄弟の兄だ。
「えっと、また上手く行かなくて、事情を説明して分けて貰った……」
「またかよ」
「だって、どうしてもコンみたいに上手くできなくて」
花巻を囓りながら泣きそうな声で、シュエイインが弟のコンに言い訳をする。これはもういつものことで、シュエイインが物心ついて自力で精気を食べる様になってから、ずっと獲物からの同情で精気を分けて貰っているのだ。
弟のコンはと言うと、その辺り上手くやっていて、シュエイインはその事に若干の焦りとうらやましさを感じていた。コンも呆れはする物の、それでも兄が自力で生きて行けているなら、それはそれで良いのではないかと毎回シュエイインに言い聞かせている。
お皿に盛られた花巻に手を伸ばしながら、兄弟は取り留めの無い話をする。
シュエイインは、コンが作った料理を食べながらいつもこう話す。こんな美味しい料理でお腹が膨れる人間が羨ましい。自分も人間と同じ物を食べて生きられるようになりたい。そんな事だ。
実際に、人間と同じ食糧で生きていくとなったら、それは大変な事だというのをコンは勿論、シュエイインもわかっている。今食べている花巻のような簡単な物でさえ、ふたりには毎日作るだけの材料を揃えるのは難しい。人間と同じ料理を食べられるのは数日に一回、下手をすれば月に数回なのだ。
その料理の材料を買うお金は、シュエイインやコンが、獲物にした娘から時折貢がれる物だ。金持ちの家の娘から相当な金額分受け取ることもあるけれど、獲物にし易い相手は、あまり裕福では無い、場合によっては貧しい家の娘だ。なので、ふたりは人間と同じ生活をするだけの収入を得るのは難しい。
「兄ちゃん」
花巻をひとくち分飲み込んだコンが言う。
「花巻美味しい?」
その質問に、シュエイインは花巻をひとくち囓り、よく噛みしめ、飲み込んでからにっこりと笑う。
「すごく美味しいよ。いつもありがとう」
「ん」
嬉しそうに花巻を囓るシュエイインを見ながら、コンは思う。兄が人間の生活に憧れるのは、精気を貰うのが下手だからと言うだけでなく、自分が作る人間向けの料理のせいもあるのではないかと。実際、コンが料理を作り始める前までは、人間の食事で生きていきたいなどとは一言も言っていなかったのだ。
コンが人間の料理を作り始めたきっかけは、なんだったのだろうと考える。ただなんとなく、夜の街を歩いている時に窓から見えた、食卓を囲む家族が幸せそうに見えたからだっただろうか。それとも、風に乗って漂ってくる、焦げた醤の香りが頭に残ったからだろうか。今では思い出せそうに無い。
けれども、なにはともあれ、良いか悪いかもわからないけれど、目の前で嬉しそうに手製の料理を食べるシュエイインを見ていると、料理を作ることをやめられそうに無い。
一方のシュエイインも、コンが料理を作ってくれなくなったら、困りはしないけれども寂しいと思っている。それ故に、自分がしっかり獲物を捕らえられるようになって、心配をかけないようにならないと、コンが料理を作るのをやめてしまうのではないかと不安なのだ。
人間の生活は憧れだけれども、夢魔としての生活をしっかり持たないと憧れに手は届かない。シュエイインはそう思っていた。
皿の上の花巻が無くなり、微かに鳥の鳴き声が聞こえるようになってきた頃。ふたりは食台から立ち上がり、それぞれの寝床へと向かった。家にしている洞穴の外では、日が昇っているのだろう。まるで陽の光を避けるように、ふたりは眠りについた。