「そもそも、ぬしが花贄にならねばならぬ理由などどこにある? 進んで妖のものになり、青い果実のような身体を差し出し、血液をすすり取られた後は下級妖の慰み者になって捨てられるかもしれない。話など通じぬ相手だ。家のためか? 父と交わした約束のためか? それとも、国のためか? ぬしが今被っている全ての不利益は、その国のせいかもしれないというのに?」
「それ……は……」
「逃げようとは思わぬのか、最後まで逃げおおせるのは難しいだろうが、数年の猶予は確保できるかもしれんぞ?」
「そうすれば、屋敷の人間は……お母様も含めてみな殺されてしまいます」
「自分を愛してくれない母のことなどどうだっていいのではないか? ぬしは、ぬしのことだけ考えていればいいのだ。父に会いたいだろう、愛されたいだろう、暖かなあの日に、戻りたいだろう」
「……っ、やめて!」

 声を荒げた香夜を見て、口無しは心底嬉しそうに口から上を歪めた。
 何もかもが口無しの思惑通りにいっている気がして、苛立たしさすら感じる。
 それに、先程から心と脳がかい離してしまったかのように思い通りにいかないのである。

 口にしたいと思っていないことでも、自分の意志とは関係なくこぼれてしまうのだ。
 行燈から漏れ出した淡い光が口無しの白髪を照らす。光沢のある髪がなまめかしく光っていた。

「お父様は……なぜ、死んだのですか」

 自然と落とされた香夜の言葉に、口無しは何も答えない。
 しかし、しばらく間をおいて口無しの目が再び弧を描く。

「――そなたの父を殺したのは、十八代目常夜頭、鵺だ」
「……え?」
「たしか、識といったか。あの男が殺したのだ」

 識が、常夜頭が、父を殺した。あの男が、全てを奪ったというのか。
 言葉をかみ砕く前に、頭の中が真っ白になった。
 胸の奥が焼けるように熱くなり、鼻が傷む。
 認めたくない、聞きたくない、知りたい、聞きたい――。
 相反した感情が香夜の脳内をぐちゃぐちゃにかき混ぜていく。

「桜の娘よ、わらわは全て知っておるぞ。そなたはこれから、最愛の父を殺した相手に捧げられるのだ」
「違う、違う、嫌、嫌、いや、いやだ…………」

 目の前に居るはずの口無しの表情が見えない。
 部屋全体の景色がゆっくりとぼやけていき、周りの輪郭を失っていく。まるで悪い幻覚を見ているかのようだ。
 先程から不快な耳鳴りが止まらない。香夜の本能が警鐘を鳴らしているのか、それは段々と大きくなってきていた。

 口無しの声が香夜の耳元で甘く響き、思考を麻痺させていく。

「知らないことは孤独。知ることも恐ろしい。じゃあ、どうする。ふふふふ、ふふ、ふふ、わらわなら、完全にぬしを救ってやることもできるぞよ」
「うう、あぁ……」
「ならば教えてやろう、本当のことを」
「本当の、こと?」
「桜の娘、類まれなる血を持つ者よ。ぬしは……」

「――俺の花贄に何をしている、口無し」

 何もかもが影に飲み込まれてしまいそうだったその時、聞こえたのは、いつか聞いた声色。
 ふわりと、華の香りが鼻腔をくすぐり、煌びやかな蝶が頭上を舞う。

 いつの間にか、香夜の頬には涙が伝っていた。
 蝶を目で追いつつ濡れた顔を上げると、前に立っていたのは、面を付け紫紺の羽織に身を包んだ妖――織だった。

「……っ!」

 香夜が目を見開くと、ふ、と識の目線が下に落とされる。
 力の抜けた腕を上げて立ち上がろうとするが、身体が動かない。すると識は面の下の顔を一瞬こわばらせて、低く宙をさまよう香夜の手のひらをつかんだ。

「……っ、離して!」

 悲鳴のような声が香夜の喉から出る。
 
「これはこれは……ふふ、ふふふ、もっと時間がかかると思っていたぞよ。息を切らして自身の贄を追ってくるなど、常夜頭らしくもない」

 識がここへ来ることをあらかじめ予期していたのか、口無しが余裕気に笑う。
 独特の笑い声が香夜の脳内をくらくらと揺らす。識の手を振り払う力も、もはや残されていない。

「……口無し、随分とご機嫌のようだな。お前こそ、扉としての役目を果たさずに何をしようとしていた」
「ふふ、そこにいる可哀そうな花贄の姫に本当のことを教えてあげようとしただけだ」

 向き合った識と口無し。
 両者ともにこやかに笑っているようだったが、瞳の奥が笑っていなかった。識に関しては、香夜の肩をしっかりと掴みながらもひやりとした殺気を漏らしている。

「……どう、して……ここに?」

 言葉を発するたび、頭の奥がきしんで痛かった。
 香夜の問いを受けた識は、軽くため息をついて口を開く。

「お前が来るのがあまりにも遅いから、様子を見に来た。今この場にいる俺は、本体(・・)ではない。魔力を使った分身のようなものだ」

 静かな識の口調を聞き、先ほどまで乱れていた感情がすっと凪いでいくのがわかる。
 父を殺した相手かもしれないのに、帯の中の刀を突き立てなければいけない相手かもしれないのに、と、香夜は唇をかみしめる。

「……桜の娘、本当に何も知らずに行ってしまっていいのかえ?」
「……口無し、戯れはよせ。貴様と話している時間はないのだ」
「ふふ、ふふふ、わらわは今そこの娘と話しておるのだ。のう? ″古の器を持つ”ものよ」

 口無しがそう言った瞬間、場の空気がゆらりと揺らいだ。識だ。
 面をしていても、揺らぐ‟魔力の香り”で怒っているのが分かる。
 黒々とした識の怒りが空気に交じり、肌がひりつくような感情の波を感じた。

 識の殺気がこもった視線を受けても、口無しは変わらず涼しい顔で微笑むばかり。

 口無しは今、古の器、と言った。
 何のことを指しているのか分からず、香夜はただ目の前で繰り広げられる光景に困惑することしかできない。

「戯れはよせと言ったはずだろう。消えゆく虚ろそのものであるお前が、軽々しく口を開くな」
「ははははははは!! 愉快、愉快だなぁ、常夜頭よ! 主の存在、いや本性もまた虚ろそのものではないか!」
「……なんだと?」

 射るように口無しを睨みつけた識は、少しの感情の機微で飛び掛かってしまいそうなほどの殺気を放っていた。
 黒々しい瘴気が、座敷に満ちていく。
 しかし、識はその瘴気を抑え込むようにして深く息を吐き出し香夜の方へ向き直った。

「……少しだけ手荒な移動になるが、許せ。最後までついていくことはできん」
「えっ、あ……!」

 識がそう言った瞬間、香夜の身体はふわりと宙に浮いていた。
 識に抱えられたのだと気づいたときにはもう、識は香夜を小脇に抱えたまま、口無しの胸ぐらを荒くつかみ上げていた。
 もう少しマシな抱え方があるだろうと抗議の目を向けるが、口を挟むことが許されない気迫を感じぐっとこらえる。

「ほう……? こじ開けて進むか、強情な男よのぅ」
「これ以上は時間の無駄だ」
「ふふ、ふふふ、はははははは。善い。それも善い。……孤独な常夜頭よ、面白いものを見せてもらった」
「……っ!」

 識がつかみ上げた口無しの着物から、真っ白な光が溢れ出していく。
 それは段々と黒い渦へと変わり、香夜の身体を包んだ。高らかに笑い続ける口無しの声が少しずつ、少しずつ小さくなる。

「ふふ、ふふふふふ、これから往く旅路は長く辛いものぞ。それでも逃げずに往くというならば止めまい。しかし、わらわはいつでも待っておるぞよ。いずれ来る‟再会”の時を」

 ――その時が来るのを、永い時の中で待っている。

 口無しは、少女の澄んだ声で最後にそう言った。
 口無しの姿が、先ほどまで座っていた部屋が、全てが黒い渦に飲み込まれていく。

 ――常夜への扉が開く。
 頭の中で、口無しの笑い声がいつまでも続いているかのようだった。