どくんと、心臓が大きく脈打った。
飛び起きるようにして立ち上がり、目の前に広がっていた景色を見て香夜は愕然とする。
「ここは……」
一面に広がるは、煌々ときらめく紫の海。
大きく肥え太った赤い月が、燃えるような明るさで夜空を占領していた。
今までに見たどれよりも大きく、おぞましい月明りにぞくりと背筋が粟立つ。
強く吹き付けた風が冷たい。高い塔の上に広がった回廊を、赤い龍が走る六本の龍柱が支えている。数百メートル下は見渡す限り海しかなく、ここが鵺屋敷から遠く離れている場所であるということを認識させた。
回廊の内側にある広い座敷はシンと静まり返り、かかったままの几帳や脇息から先ほどまで過ごしていた誰かの息吹を感じる。しかしそのどれもが古びて彩度を失い、中には埃が溜まっているものすらあった。
「……ここは常夜の果て、有栖の屋敷だ。こんな場所に連れてくるとはな」
横に立った識がそう言って冷ややかに口角を上げた。
すると、識の黒髪を巻き上げるようにして強い風が吹く。
「……ハハ、みんな仲良く有栖の術にハマったっちゅうわけかい。城下町で仕留められんかった狐の首をこんな見晴らしのいい場所で捕れるなんてなぁ。なあ識、呪いに侵された病人は寝とった方がええんとちゃうか? なんか僕、さっきから出番持ってかれてばっかりやし」
「な、凪さま!! ここどこだ!? お、オイラ高いとこ苦手なんだよ!!」
手に持った刀を軽快に振りかざし、風を集める凪と凪の足元にしがみつくセンリ。
その後ろでは、鬱々とした気を放ちながら何かをブツブツとつぶやく伊織の姿があった。
「……はぁ、ほんと無理なんだけど。有栖の屋敷なんて、不吉以外の何物でもない。はぁ、凶日だ……。ねえ、俺だけ降りるから誰か試しにこっから落ちてみてくんない?」
「お前蜘蛛糸で簡単に降りれるやろ。何どさくさに紛れて誰かを落とそうとしとんねん」
「はぁ? 降りれるわけないだろ、どっかの馬鹿天狗みたいに飛べるなら別だけど、ここはすでに九尾の術中にある。糸なんか簡単に断ち切られるよ。考えたらわかるだろ、馬鹿か」
「……ハハ、なぁ、誰か伊織を下に突き落とすの手伝ってくれん?」
目の奥が笑っていない凪と、目が死んでいる伊織。
両極端な魔力をまとった沈丁花と水仙の香りがこちらまで漂ってくる。二人の間に流れるピリピリとした空気をセンリが慌てた様子で仲裁している姿を見て、香夜はふっと軽い息をつく。全員無傷で飛ばされた。それなのに――。
「気配は感じるのに有栖の姿がどこにもない……」
色濃く感じる禍々しい魔力の気配。それに、鼻を刺す腐敗臭も強くなっている。
香夜たちをここに飛ばした有栖がすぐ近くにいるはずだ。
荘厳な回廊から座敷へとつながる短い階段に足をかけ、小さな波音を立てて凪ぐ紫色の海へと振り返った。
瞬間、場に満ちた空気が変わるのが分かった。隣の識もそれを感じたようで、まとう魔力がピンと張り詰める。
腐敗臭が座敷に、回廊に、空間全体に広がっていく。同時に黒い瘴気を孕んだ水のような影が畳の中央から湧き出し、みるみるうちに人影へと変化していく。
リンと鳴った鈴の音。揺れたロザリオが放つ鈍い金属の光が、月明りに反射する。
「……俺から離れるな」
そう言った識が羽織をはためかせると、煌めく蝶と共に、黒く長い刀が出現した。
凪や伊織もまた、武器を片手に姿勢を低くさせている。鼻を刺す死臭に包まれた混沌とした影が‟九尾”の姿を現す。
「……これはこれは。またもや皆さまお揃いで。フフフ、これだから弱者は嫌いなのですよぉ。弱きものは、ぞろぞろと群れを作るのがお好きなようですからねぇ」
長い深紫の髪を揺らし、拳銃を手にした有栖が、喜悦に満ちた声でそう言った。
おぼろに白い死人のような顔がゆらりと歪む。
黒いフロックコートを身にまとった有栖の後ろには、黒狐の面を付けた妖たちが列をなしていた。その見覚えのある光景に香夜の背を冷たい汗が流れ落ちる。
凶悪に笑う有栖と、その後ろに連なる空亡の軍勢。――その全てを上からねめつけるように、夜空を照らす赤き月。
これでは、識の追憶の中で見た光景……呉羽が命を落とした夜そのものではないか。
すると、額に汗をにじませ、眼光を強める凪が口を開く。
「……お前が連れとる‟空亡”の亡霊どもは、その‟群れ”には入らんのか? 自分を棚に上げることが随分とお得意のようやなぁ」
「それは私が操る、迷える魂たちのことですかぁ? フフ、彼らは私の仲間でも何でもありませんよぉ。使い道が無くなれば排除し、わたしの魔力を増幅させるための供物とする。たったそれだけのこと。言わば、愛しく便利な駒のようなものですねぇ」
そう言うと、有栖は後ろに立っていた黒狐の面を付けた妖に自身の拳銃を突きつける。
「――っ、やめろ!!」
凪の叫びもむなしく、その場に数回発砲音が鳴り響いた。
ずる、と妖から力が失われ、黒い水となって有栖の身体に吸収されていく。
「……これで、この魂は救済されました。魔力はわたしの一部となり、消えた魂は空亡の供物となる。フフ、断末魔がない分、鎮魂歌としては少しわびしい気もしますが」
「……あ、ああ……」
香夜の口から零れた声が、喉を震わせた。
なんておぞましく、常軌を逸した光景なのだろうか。城下町で、意識を失ったたくさんの妖たちが自分の意志と関係なく操られているのを見た。もし、これがあの操られた妖たちの末路だとしたら。
有栖の酷悪に婉曲した瞳が、この場にいる全員を視認するように動き、前に出ようと身体を乗り出す香夜を捉えた。
「フフ、ではさっそく始めましょうかぁ」
瞳を半月型にさせ、凶悪に微笑んだ有栖が言う。
有栖の言葉に黒弧の面を被った妖たちを見やると、首元に呪詛のアザが浮き出ているのが見えた。
ゆっくりと有栖がその手を振り上げる。すると黒狐の軍勢が一斉に姿勢を低くさせ、有栖の合図と共に武器を構えた。
空間に張り詰めた殺意が肌を刺す。
識の腕が、香夜を力強く引き寄せた。
「識」
「身体を寄せろ」
識がそうささやいた瞬間、目にも見えない斬撃が座敷のあちこちで起こった。
金属が激しくぶつかり合う音と、鋭く風を切る音が耳に届く。
「……っ、何やこいつら! 気絶させてもさせても起き上がってくる! 伊織!! この量、捌けるか?」
「誰に言ってんの。……でもこの猫のお守りだけは解せないな。何で俺が守りながら戦わなきゃいけないわけ? お前が使役してる猫だろ、凪」
目にも見えない速さで襲い掛かった黒弧の軍勢の攻撃をかわしつつ、刀を振るう凪と伊織。
空虚な目をして小刀を手にした伊織は、泣きながらバタつくセンリを雑に抱えて血管を浮き立たせている。
「わわわわ!! つ、土蜘蛛さまっ!! オイラのこと離さないでくれよ……っ!?」
「センリ死なせたら僕、怒るで~。頑張ってなぁ、土蜘蛛さま」
「……お前もろとも殺したいんだけど」
抑揚のない声でそう言った伊織の額に浮き出た血管が増える。
それでも、思わず見入ってしまうほどの身のこなしだ。
倒れても倒れても。カラクリ人形のように起き上がる黒弧の妖を、二人そろって軽くいなしている。
「フフ、フフフ、……いい機会です。どうせ最後になるので、少し、昔話をしましょうかぁ」
有栖の耳触りな笑い声にハッと前を向くと、その石油色に濁った瞳と目が合う。
「千年以上前の話です。わたしには、愛するお方がいました。ですがその方は、よりにもよって妖の頭領と結ばれてしまった。あのお方は、まさに迷える魂だったのです。妖と恋に落ちるなど、許されない、許してはいけない。わたしが救って差し上げよう、そう思いました。だから、魔力を手に入れることにしたのです」
「……何、を」
「ですが、あのお方は常夜で命を落としてしまわれた。どうしてももう一度あのお方に会いたかったわたしは、わずかに残っていたあのお方の魂を掬いとり、魂をおさめる器を……あのお方にふさわしい身体を探し始めました」
後ろで識が、ぎり、と歯を食いしばるのが分かった。
有栖はそんな識をちらりと見やると、不気味な笑みを深める。
「人間だったわたしには、果たすことが叶わない望みでした。それなら、もっと‟強い”魔力を飲み込めばいいのです。難なく呪詛を使えるようになっていたわたしは、常夜で最も強い魔力を持つ者……常夜頭から魔力を奪い取るための徒花を生み出しました」
「……っ!」
「それでも、足りない、全然足りなかったのです。あのお方を蘇らせるほどの力を手に入れるには、もっと強い呪いが……魔力が必要でした。――だから、常夜頭の命を奪うには少し遠回りになりますが、魔力を増幅させる血を……花贄を、与えることにしたのです」
「そん……な」
――花贄は、自分たちは、そんなことのために常夜へ送られていたというのか。
「そうか、お前なのだな有栖。花贄を常夜へ寄こす道筋を作り上げ、妙薬と称して常夜頭に喰わせていたのは」
そう言った識の言葉に、目を見開いた有栖が高らかに笑う。
「アハハハ! フフ、フフフ、いかにも、わたしが花贄の制度を作り上げた張本人ですよぉ! 人としてそのまま陰陽寮に根付き、土御門として姓を名乗り、稀有な血を持つ一族に契約を持ちかけました。人の世を救ったという名声と、富を授けると言ったら愚かな人間どもはすぐに食いつきましたよぉ」
胸元で光る銀のロザリオを握りしめ、口づけをした有栖。するとぶくぶくと湧き出た黒い影が、九本の尾へと姿を変えた。
城下町で見た時よりも数段大きくそびえ立った尾が、みしみしと音を立てて塔の天井を押し上げる。
「全ては呪いを生み出し、魔力を高め、あのお方を蘇らせるため……そして、わたしはついにあのお方の魂を収めることができる器に出会いました。空亡が生み出した寵愛の子、……呉羽さまに」
石油色に濁った瞳が、呆然と佇む香夜を見据えた。
その、身にまとわりつくような眼差しに身震いする。
「奇跡だと、そう思いました。血管から細胞にいたるまで、全てがあのお方の肉体と一致していた。あとは、呪いによって硬化させた魂を移すだけ……そう、思っていたのに」
有栖から、表情がスッと消える。
「呉羽さまは……あの方の器は、あっけなくその命を散らしてしまった。情などに溺れ、自ら身体を灰にしてしまわれたのです。空亡がまた、あのお方のような器を生み出すとは限らない。だから、だから、わたしはもう一度作ることにしたのです。器を、あのお方のために!」
「……何ですって?」
喉から絞り出すようにそう言った香夜に、有栖がふっと顔を向けた。
「フフフ、思い出しました。貴女を孕んだことを知った時、あの女もそういう絶望に満ちた顔をしていましたよぉ。ほらぁ、こんな感じに」
そう言って心底愉しそうに嬌声を上げた有栖が、ロザリオに手をかざす。
濃紫の髪が揺れ、十字架のイヤーカフが鈍く光った。
すると、ピキピキと音を立てて有栖の顔が変わっていく。腐り落ちた果物のような匂いに包まれ垣間見えた懐かしい表情に、香夜は声にならない悲鳴を上げた。
「お母様……!!」
‟厄災の子”
憎しみに震えた声で香夜をそう呼んだ、郁の憎悪に満ちた表情がそこにあったのだ。
「――げに恐ろしきかな、厄災の子よ」
そう言った有栖が、‟母の”瞳で香夜を見据えた。それは、周囲の輪郭すらおぼつかない最古の記憶。私を見る母の瞳には、畏怖の色が浮かんでいた。
は、と短く吐き出した息に、涙が滲んで鼻の奥が傷む。
「香夜さま、あなたは偶然この世に生を成したわけではない。ましてや、特別な人間でもない。むしろ、特別だったのはこの母親の方だ」
有栖の顔に貼り付いた郁の表情が、割れた仮面のようにめきめきと音を立て崩れ落ちていく。
「やめろ、有栖。それ以上口を開くな……!!」
空気を震撼させるほどの識の叫びが、華の香りと共に届いた。
呼吸がままならない、肺がきしんで痛む。ドクドクとせり立つ脈が、動悸が止まらない。
「宗家の血を色濃く受け継いだあなたの母親――安桜郁を見つけた時、彼女はもうすでにあなたを身ごもっておられました。なので、呉羽さまの身体の一部を飲み込ませたのです。すると、あなたの母親は見事に、あの方の器を生み出してくれましたよぉ! フフ、その時負った魔力の負荷からか、身体が弱ってしまったようですが」
「……こいつの話を聞くな。お前の母親は無事だ」
識の声が耳元で響くが、崩れていく郁の顔から目を反らすことができない。
この男が、母に香夜を産ませた。ならば――。
「お父、さまは……」
「……ああ、桜の当主のことですかぁ? あの男は、肉親の加護を使ってあなたをわたしから護り、逃がそうとしたのですよ。邪魔だったので、殺しました」
さも、それが当たり前かのごとく、抑揚のない声で紡がれた言葉。
「――ああ、ああ……!!」
喉を張り裂くようにあふれたのは、憎しみに満ちた叫び。心が、胸が、痛くて燃えるように熱い。
やはり、この男が父を殺したのだ。香夜の居場所を奪い、全てを壊した宿敵が目の前にいる。
「……どうしてそんな風に笑えるの、命を、人の思いを踏みにじっておいてどうして……!!」
「フフフ、フフ、何をそんなに熱くなっているのですかぁ? あなたは今宵、わたしにその器を受け渡すだけでいいのです。さあ、早く、早く早く心を手放してください!!」
両手を広げて、嘲笑を浮かべる有栖の後ろで波打つ九尾の影が、大きく膨らんでいく。
熱くて、苦しくて、たまらない。香夜の中にある記憶が、父のぬくもりが、憎しみで歪む。噛み締めた唇から流れた血が、口内に鉄の味を広げた。
その時、ふわりと柔らかく香った華の芳香が、香夜を力強く抱きしめた。
「――香夜」
「――っ!!」
鼓膜を震わせたのは、甘く柔い識の声。
思わず振り向くと、しっかりとこちらを見据えた識と目が合う。
「憎しみで、目を曇らせるな。闇の中にあった俺を見据えたお前の目には、いつでも光が灯っていただろう」
そう言って、静かな海のように香夜を見た識。
不器用ではあるが芯から優しいその表情に、熱く茹だっていた心が引き戻され、代わりに身体を内側から灯すようなあたたかさが広がっていく。
「フフ、フフフ、……本当に、虫唾が走る光景だ。識さまぁ、あなたは一度ならず二度までも私から器を奪おうというのですか!!」
そう叫びこちらに向かって拳銃を構えた有栖の元へ、巻き上げた突風と共に二つの羽織が襲い掛かる。
鋭い金属音がいくつも鳴り響き、攻撃を防いだ有栖の拳銃の腹から硝煙が上がった。
ひらひらと羽ばたく蝶の鱗粉が光り、消える。
薄い笑みを湛えて刀をかざした凪と、射るような眼差しで有栖を見やる識の刀身が有栖の腕を捉えていた。
「……ほー? あの体勢からよく動けたなぁ? 病人は大人しくしとけ言うたやろ、香夜ちゃんを守るんは僕一人で十分やっちゅうねん」
「……気安く香夜の名を呼ぶな。一人で十分なのはこちらの台詞だ」
「はぁぁ? ほんっま、そういうとこが腹立つねん。さっきまで花贄だ何だ言っとったくせに、なにを急に雰囲気柔らかくさせとんねん。言っとくけどこの前言った香夜ちゃんを嫁にもらうって話、冗談やないさかいな、僕は本気やで!!」
お互いににらみ合った二人の、凄まじい魔力が空間に満ちる。
識と凪が放った斬撃が次々と黒弧を倒す。力の差は、こちらから見ても歴然だった。
しかし最初に攻撃を入れたはずの有栖の傷は、瞬きをする間に消えていた。
耳触りな笑い声が香夜の鼓膜を揺さぶり、思わずぎゅっと顔をしかめる。
「本当に……あなたはわたしを苛つかせますね、識さま。どうしてあなたが徒花の呪いを克服しつつあるのですか、見たところ、身体のアザは心臓に達しつつある。それなのに、どうしてそこまで動けるのですか、どうして、どうして、命を蝕まれていないのですかぁ!」
「何をそんなに熱くなっているんだ、有栖」
そう言って薄く笑った識が、余裕げに有栖を一瞥した。
すると顔を歪めて舌打ちをした有栖が口を開く。
「識さまぁ、これはあなたのために用意した舞台でもあるのですよぉ。さぁ、今こそあの夜をやり直しましょうぞ!」
「ああ、そのつもりだ。――今度こそ、終わらせてやる」
識が艶やかに微笑すると、吹き抜けの塔に真っ白な花びらが舞い込んだ。
白く輝くその花びらは、桜。
花吹雪の中で笑みを湛え、なめらかに反った刀身を構える識は、おぞましいほどに美しい。
リン、と鈴の音が鳴り、有栖がロザリオに口づける。
すると床に倒れていた黒狐たちが再びゆらりと立ち上がった。
一斉に斬りかかる黒弧たちを、物ともせずに片手で制していく識。光を放つ深紅の瞳が、夜空に燃える月と同じ温度で揺らぐ。
識が刀を一振するたびに、きらきらと輝く蝶が座敷に舞い込む。
一切隙のない識の魔力は、冷たく恐ろしいものではなく、どこかあたたかな熱を帯びていた。
未だ震える脚を励まし、香夜はゆっくりと立ち上がった。
識が、こちらへ攻撃が降りかかってこないよう守ってくれている。漂ってくる華の香りと、包み込むような魔力がそれを示していた。それでも、香夜は結末を見なくてはいけない。終わりを、しっかりと自分の目で確かめなくてはいけない。
そう思い、父の懐刀を握りしめる。
その時、水仙の芳香がすう、と香った。
薄墨色の毛先についたサファイアブルーの石が、視界で揺れる。
隣で膝をついた人物に、わずかに驚き目を丸くさせると、深いため息が落とされた。
「……何、こっち見るなよ」
「……どうして?」
そう尋ねると、伊織は難しい顔をした。
彼が放つ白い光が、香夜の全身を覆っていく。
盾をつくり、攻撃から守ってくれているのだ。
「識の魔力が変わった。こんなこと、今までなかったんだよ。……それに、俺は医者だ。激戦の中で何の力も持たない人間がぼーっと突っ立ってたら守らないわけにはいかないだろ」
「ありがとう、……伊織」
目を見つめてそう言うと、伊織は少し目を見開き、そのままふい、と目をそらした。
「……この野弧や、黒狐の面をつけた妖たちの呪詛は全部あの九尾がかけたものだ。だから、あいつの術さえ切れてしまえば救える。……でも、あれは恐らくもう、」
「うん、わかってる」
伊織の言葉に深く頷いた香夜は、もう一度識の方を見た。
風を味方につけ好戦的に有栖の弾丸を弾く凪に対して、繊細かつ鮮やかな太刀筋で魔力を放つ識。
凛と澄んだ識の殺気は粗がなく、この場に満ちる空気までをも圧倒していた。
荒れ狂った津波のように追撃する影を、識が舞わせた蝶が打ち消す。
潮気を含んだ春風が、白い花びらを巻き込んで吹き付ける。雲間から差し込んだ赤い月明りに照らされた花びらが、真っ赤に燃ゆる。
全ての事柄が、識の圧倒的な力に呼応するかのように、震えている。
その力は、まさに夜を統べるにふさわしい常夜頭そのものだった。
「どうしてですか、どうして、どうして、あなたはそんなにも……!!」
そう慟哭し、有栖は自身の頬に手を当てる。
割れた陶器のようにボロボロと崩れていく有栖の顔を、静かに揺れる深紅の瞳が見据えていた。
一部の隙もない識の‟気”の中に、わずかな哀れみが滲んでいる。
「……俺は、比翼を見つけた。その光は何度拒んでも俺の心に入ってきて、俺の弱さをも包みこんだ」
そう、静かにつぶやいた識の声が、香夜の心を揺らす。
「比翼が、何だというのですかぁ、あなたがその力を手にしていいはずがない、妖と人間が結ばれていいはずがない、その力は、わたしの、あのお方のために!!」
「まだ自分で気が付いていないのか、有栖」
落とされた識の声に、瞳孔を開き切った有栖が顔を上げる。
亀裂が入った隙間から崩れていっているのはその顔だけではない。四肢や、全身が崩壊し、段々と灰になっている。
有栖の身体が崩れるたびに、鼻を刺す腐敗臭が強くなっていく。
「狂った情愛に囚われ、使役する軍勢にわたるまで亡霊と成り果てたのはお前の方だ。……有栖、お前は一体、――いつから死んでいたんだ?」
「――――は、……ぁ?」
美しく輝く蝶の鱗粉を絡ませた識の刀が、呆然と立ちすくんだ有栖の身体を貫いた。
「――永き夜を、終わらせるぞ」
そう言った識が刀を引き抜くと、断末魔のような慟哭と共に、有栖の身体が一気に崩れていく。
聞こえた慟哭は有栖のものではなく、その身に飲み込んだ沢山の魂の叫び。苦しみや憎悪の念が、積み重なった怨嗟が、灰となって花吹雪の中に消えていく。
「あ、ああああ、あああ、わたしは、何の、何のために、わたしは、わたしはぁぁぁぁ!!! …………私はただ、あのお方の、……ために」
消えゆく断末魔の中で、有栖は最後にそう言った。
それはねっとりとまとわりつくような嬌声ではなく、幼い子供のように揺れたか細い声だった。