わずかに開いた障子から、白い光が伸びていた。
布団の中、冷たい場所を探すように足を滑らせる。
土が湿ったようなにおいがした。いつの間にか、外では雨が降りだしていたようだ。
春の初めといえど、まだ少し肌寒い。今は何時くらいなのだろうか。
すき間から目をこらすが、外から見える光が月明りなのか日光なのか見分けがつかない。
遠くの方から聞こえる低い雷の音に、安桜香夜はため息をついた。
何故かはわからないが、変な胸騒ぎがした。
そして従来、こういう時の香夜の勘はよく当たった。
自分が眠りこけている間に何かあったのかもしれないと、香夜は手早く襟元を直し立ち上がる。
座敷から出たところを母屋の誰かに見つかってしまえば、またきつく折檻されるだろう。
それでも誰にも見つからなければいいだけだ。屋敷内を、軽く見回るだけなのだから。
そう自らを鼓舞し、‟妖避け”の護符と懐刀を手に取る。
襖を開けると、廊下はしんと静まり返っていた。
使用人の気配もしない。やはり、まだ日が昇る前だったのだろうか。
だとしたら少しまずいと、刀を握りしめる手に汗がにじむ。
その時、香夜は視界の端に捉えた違和感に足を止めた。
中庭に植えられた桜の木の下で、誰かが倒れているのだ。
それも、一人だけじゃない。一人、二人、三人、……それが、屋敷の使用人たちだと気が付くまでにそう長くはかからなかった。
恐る恐る近づき、倒れた侍女の口元に手をやる。気を失っているだけだろうか、それとも――。
数秒後、手のひらに感じた呼吸の暖かさに、ホッと胸を撫で下ろす。
「誰か、話せる人はいる? なにがあったの、どうしてこんな……」
香夜がそう声をかけると、横這いになった侍女の目がわずかに開いた。
「……く、供犠さま、お逃げください……あ、妖が…………化け物が、ここに……、あ、あああぁぁああ!!」
「……っ!」
自身の身体を掻きむしり、何かにひどく怯えたように絶叫をあげた侍女。
思わずその視線を追えば、濡れた地面がぼこぼこと音をたてながらうねり始めているのが見えた。
――あれは、何だ。
中庭の端で、おびただしい数の黒い影がうごめいている。
夜闇に紛れてうねる影。それが人ならざるものであることだけは、すぐに分かった。
「ぅ、あ……」
喉を焼くような熱が、得体のしれない気持ち悪さが込みあげてくる。
おかしくなってしまいそうな胸の高鳴りに、香夜は着物の合わせを強く握りしめた。
――妖だ。妖が、血を奪いに来たんだ。
どんなに深呼吸をしても、鼓動は飛び出さんばかりに大きくなっていく。
短い息を吐き出し、暗闇のなか、かすむ目をなんとか開いた。
すると、薄暗い霧にまみれて一匹の蝶が舞っていた。
数秒、その蝶に目を奪われていると、誰かがこちらを見つめていることに気が付く。
先程まではなかったその人影に、香夜の頭の中で警鐘が鳴り響いた。
震える息遣いを整えながら、懐刀を胸に構える。
こんなことならばしっかりとした長刀を持ってくればよかったと、今更ながらに後悔する。
生ぬるい風が吹き付け、むせ返るような華の香りがした。こちらの視線に気が付いたのか、人影がゆっくりと前に動き出たのが分かる。
その時、雷が鈍く鋭い音をたてて落ち、辺りが閃光のごとく照らされた。
「……っ、あ」
強い雷光によって、一気に視界が明瞭になる。
白くなった眼前に見えたのは、不思議な面を付けた男の姿だった。
背丈の高い、紫紺の羽織をまとった男だ。面の下、表情を読み取ることはできない。
しかし、深紅の瞳だけが香夜を射るように見つめていた。
どくんと胸が脈打ち、香夜の頭の中に‟知らない記憶”が流れ込んでくる。
白昼夢のようなその光景は、降りしきる桜のなか、柔らかく微笑む誰かのまなざしで――
気が付くと、香夜は涙を流していた。
どうしてか男から目を離せなかった。
「……あなたは、誰?」
香夜の問いに、男は何も答えない。
力がゆるみ、懐刀がカランと下に落ちる。
不思議と恐怖は感じなかった。心を占めるのは、苦しいほどの懐かしさと愛おしさだけ。
肺が苦しくなり、香夜は咳き込むようにして息を吐き出した。
どうやら自分でも気が付かないうちに息を止めていたようだ。
「……はっ、……は…………っ」
言葉をこぼそうと口を開いても、空気を噛んでいるようで、何も言うことができない。
呼吸を整えながら男がいた場所に視線を戻すが、もうそこには誰もいなかった。
影と共に消えた面の男。かぐわしい華の香りだけが、その場に残っていた。
母屋の方から、パタパタとせわしない足音が近づいてくる。
やがて数人の護衛と共に駆けつけた女が、香夜の前で立ち止まった。
「お母様……」
香夜がそう言うと、氷のように冷ややかな視線が落とされる。
ひんやりと冷たい、いつも通りの表情だ。
香夜の実母、郁は娘の呼びかけにも顔色を変えず、口を開く。
「……どうして、座敷を出たのです」
尖った視線が、香夜に向けられた。
びくりと身体を震わせ目線を合わせると、ねめつける眼光が一層強まる。
「贄なら、贄らしくじっとしていたらどうですか。そんなに屋敷の人間を殺したいのですか?」
すると、スッと音もなく歩み出た郁が、香夜の前に立った。
久しぶりに真正面から見た母の表情は彩度が感じられず、まるで死人のように白くぼやけていた。
「……厄災の子。やはりあなたは、この世に生まれてきてはいけなかった」
まるで香夜という存在を心から嫌悪しているようなまなざしで、郁が続ける。
香夜はそんな郁の顔をぼんやりと眺めながら、思考が遠ざかっていくのを感じていた。
今日が何の日であるか、母である郁に話す気力すら、もうなかった。
――それは、太平の世を保つために異界へ捧げられる贄、安桜香夜が十八になった日。
雷鳴轟く、美しい春の宵のことだった。