図書館にはあいかわらずお客さんはいなかった。
 薄暗い照明のせいもあると思うし、山の中腹に建っているのも理由のひとつだろう。
 館長の長谷川さんは、今日もスーツ姿で長い髪をひとつに結び、棚の本をチェックしていた。

「こんにちは。今日はおひとりですか?」

 声をかけるより早く、長谷川さんがにこやかに挨拶をしてくれた。

「あ、こんにちは」
「またここに来たということは、なにかお話があるのでしょうか?」 

 鋭い人だ、と普通に感心してしまう。

「はい。お時間があるときでいいので……」
「構いませんよ」

 長谷川さんは持っていた本を棚に戻すと、受付カウンターへ足を進めた。
 向かい側に座るよう勧められ、木製の椅子に腰をおろした。
 雨が降り出したらしく、屋根を叩く雨音がかすかに聞こえている。

 カウンターの上にはパソコンが一台と、以前叶人が借りっぱなしだった本が置かれていた。
 私の視線に気づいたのだろう、長谷川さんが「ああ」とうなずく。

「叶人くんのお気に入りの本をあれから何度も読んでいます。が、雨星についてはやはり載っていませんでした」
「そうでしたか……」

 カウンターに両肘を置き、顔の前で指をからませた長谷川さんが、メガネ越しの瞳で私を見た。

「私は雨星は造語だと思っています。叶人くんが作った、叶人くんだけがわかる言葉なんです」
「私も、そう思います」

 どれだけネットで調べても、雨星という言葉は見つからなかった。

「悠花さん、今日はどのような話で?」

 薄い唇に笑みをたたえる長谷川さんに、一瞬迷いが生じた。
 どんなふうに説明すればわかってもらえるのだろう。
 とにかく、思ったまま話をするしかない。

「前にここに来たとき、パラドックスについて説明してくれましたよね? 叶人から聞いたとおっしゃっていましたが、ひょっとしてそれ以外にもなにかパラドックスについて聞いていませんか?」

 小さく首をかしげる長谷川さんに気おくれしそうな気持ちを奮い起こす。

「不思議なことが起きているんです」

 信じてもらえなくても、言わずに後悔するのはもうやめよう。小説のなかの登場人物が実際に現れたことの謎を解きたいと思った。

「二年前からよく読んでいる小説があるんです。それと同じことが現実に起きているような気がするんです。ううん、起きているんです」

 長谷川さんの表情に変化はなく、ただ先を促すようにうなずいている。

「何度も読んでいるからストーリーも覚えているはずなのに、なぜか先の展開がうまく思い出せないんです。その小説にも雨星のことが出てくるんです。これってなにか……」

 言うそばから自信がなくなってしまう。
 おかしなことを言っているのはわかっているけれど、どうしてもこの先のヒントがほしかった。

 わずかに頭痛の気配がする。
 遠くから近づいてくる痛みに、こぶしを握って耐える。
 しばらく沈黙が続いたあと、長谷川さんは大きく息を吐いた。

「『パラドックスな恋』のことですね」
「え……」

 雷のような衝撃が体を貫いた。
 まさか、長谷川さんから作品のタイトルが出てくるなんて思ってもいなかった。

「そうです! 『パラドックスな恋』です! 長谷川さん……なにかご存じなんですか?」

 思わず体を乗り出す私をはぐらかすように長谷川さんはマウスを動かし、パソコン画面を点灯させた。
 薄暗い館内はまるで星空。明るいカウンターが宇宙船みたいに思えた。

「実は、誰にも言ってないことがあるんです」

 画面の光を浴びながら長谷川さんがつぶやいた。
 キーボードを操る音が続いたあと、長谷川さんは画面に向かってほほ笑んだ。

「叶人くんが入院してしばらく経ったあとのことです。彼からLINEで『相談がある』とメッセージが来ました。てっきり、病気のことかと思ったのですが、違いました」
「はい」
「長い文章になるから、とメールアドレスを聞かれました。数日が過ぎ、メールに届いたのは、『パラドックスな恋』のあらすじだったんです」
「え……。じゃ、じゃあ、あの小説は叶人が書いたのですか?」

 昔から本が好きで読んではいたけれど、あの小説は中学一年生が書いたものとはとても思えなかった。

「いえ、そうじゃありません。叶人くんが書いたのは、彼が病床で見た夢の内容です。メモのように羅列されています」

 モニターを回転させた長谷川さんから、画面へ視線を移す。そこには、メモ画面が表示されている。

 ■■■■■■
・お姉ちゃんが学校に行く
・山本大雅という転入生が来る
・幼なじみは大雅を覚えているが、お姉ちゃんは覚えていない
・お姉ちゃんは小学三年生のときに大雅をかばって事故に遭った
・事故のせいで昔の記憶をなくしている
・夕焼け公園で大雅を好きになる
・雨星が降る日に大雅が事故に遭う
・大雅は大きな病気を抱えている
 ■■■■■■

 その下には、各項目について詳しく書かれていた。
 それはすべて、『パラドックスな恋』の内容と一致している。

「これって……」

 声が震えているのが自分でもわかる。

「入院している間、叶人くんは少しずつこの物語の夢を見たそうです。なにか意味があるのじゃないか、と思うのも不思議じゃないですね」
「じゃあ、誰が小説に――」

 長谷川さんが照れたように目線を逸らしていることに気づいた。

「私が書きました。小説なんて書いたことがなかったのですが、叶人くんの夢を作品にしたいと思ったんです。ひょっとして、本当にこれと同じことが起きているのですか?」

 なにがなんだかわからない。混乱する頭を必死で整理しながら「はい」と答えた。
 納得したようにうなずいた長谷川さんが椅子にもたれた。

「叶人くんは正夢を見たのでしょうね」
「でも、最近は小説とは違う展開になっているんです。だけど、大雅が事故に遭う可能性はあるわけですよね」
「私にはわかりませんが、叶人くんは『お姉ちゃんが幸せになるといいな』とずっと言ってましたよ」
「…………」

 叶人が生きていたころは両親も仲が良かったし、私も恋なんてしていなかった。

「長谷川さんがこの小説を投稿サイトに載せたのは二年前ですよね?」

 叶人が亡くなって落ち込んでいるときにこの小説を見つけたことを思い出した。

「ええ。書くごとに叶人くんに見てもらい、修正をしておりましたが、残念ながら完成にたどりつくことなく叶人くんは……」

 悔しげに目を伏せてから、長谷川さんは続けた。

「そこからひとりでなんとか完成させたんですよ」
「どうして今は『連載中』になっているのですか?」

 そう尋ねる私に、
「叶人くんの遺言だからですよ」
 と、長谷川さんはあっさりと答えた。

「遺言?」
「悠花さんが主人公と同じ高校二年生になったら、一旦非公開にして、二学期初日から時期に合わせて順次公開し直してほしいと言われました。公開日を細かく予約できるので、それも指示に合わせて登録しておきました」

 そっか……。物語のはじまりは高校二年生の二学期だった。
 叶人は、予知夢を見たのかもしれない。

「すごく……不思議です」

 思ったことを言葉にすると、長谷川さんはクスクスと笑った。

「この世は不思議なことだらけです」
「どんどん小説の内容と変わっているのはどうしてなんでしょうか? どうして私は先の展開が思い出せないのでしょうか? これから一体、なにが起きるのですか?」

 矢継ぎ早に質問を重ねる私に、長谷川さんは「わかりません」とだけ答えた。

「そんな……」

 また、頭痛が強くなっていく。

「こう考えてはいかがでしょうか。悠花さんは現実世界を生きておられる。あの小説こそがパラドックスなんです」
「意味がわかりません。ごめんなさい」

 しょげてしまいそうになる私に、長谷川さんはメガネを取り顔を近づけた。

「パラドックスとは、見た目と実際が違うこと。悠花さんの選択により、変わった物語こそが正解なのです。叶人くんが書いたあらすじを見せることはできますが、それでは意味がないでしょう。悠花さん、あなたは虚構の世界を忘れてもいいんですよ」
「でも……」

 ここから先、ひょっとしたら大雅が事故に遭うかもしれない。
 そう思うといてもたってもいられない。

「教えてください。星雨についての説明は小説のなかにありましたか?」
「いえ、ありません。だからこそ叶人くんに何度も尋ねたのですが、最後まで教えてもらえませんでした。前にも言いましたが、彼自身もわからないままでしたから」

 言われてみればたしかに『パラドックスな恋』においても、雨星の描写はなかった気がする。

「悠花さん」

 改まった口調で長谷川さんは背筋を伸ばした。

「この小説はあくまで叶人くんが見た未来です。悠花さんの選択で現実が変わっているのなら、小説から提示されたヒントを参考に、今やるべきことをすべきです」
「今、やるべきこと……。あの、大雅が事故に遭う可能性はあると思いますか?」

 長谷川さんがテーブルの上で指を組んだ。

「どうでしょう。例えば、事故に遭う日付が変わったとかは考えられますね。小説のなかでは不思議な天気の夕刻だったと思います」
「でももう大雅はアメリカに……」

 そこまで言ってハッと気づく。
 本当に今日、大雅はアメリカに旅立ったの?
 ちゃんと確認していないことが急に不安になってくる。

 今の時刻は午後三時。
 まだこの町にいるのなら、ひょっとしたらこのあと事故に遭うのかもしれない。
 音を立てて椅子を引く私に、長谷川さんは目を丸くした。

「あの……私、行きます。いろいろ、ありがとうございました」
「気をつけて行ってらっしゃい」

 穏やかな笑みに頭を下げ、図書館を飛び出せば、雨が絶え間なく世界を灰色に染めていた。