六時間目の授業は英語Bだった。
ネイティブとはいえない発音で、担当教師が英文を読みあげているなか終わりのチャイムが鳴った。
先生がいなくなると、とたんにザワザワし出す教室。
教科書をカバンにしまい、意味もなく窓越しの空を見た。
九月末の空はあまりに高く、青色も薄く感じられる。
明日から天気は下り坂らしい。
『パラドックスな恋』は、大雅が悠花に告白したシーンで止まっている。
もう更新をしないのかもしれない。
改めて確認すると、現実とは違うことがたくさんある。
例えば、主人公に小学三年生までの記憶がないこと。
両親の仲がよいこと。
両親が大雅をよく思っていないこと。
図書館で借りた本について主人公の幼なじみは心当たりがあること。
ほかにも、細かなところでは、台詞を口にする人が違っていたりもする。
現実の流れだって、私が大雅の告白を避けたことで大きく変わっている。
大雅が事故に遭う展開も起こらない可能性だってある。
それでも、念のために大雅には気をつけてもらわないといけない。
事故が起きるのは、夕焼けの広がる雨の日。
そういう日が来たら、大雅に念押しをしないと……。
ひとり反芻していると、
「あの英語じゃ、話せるようになるとは思えない」
と、うしろの席で木村さんがため息をついた。
「キムみたいにハリウッド映画ばかり見てるわけじゃなさそうだからね」
「スラングとか、くだけた会話とかを学びたいんだけどな。まあ、受験対策用の英語だからしょうがないけどさ」
小説には木村さんだって登場していなかった。
そう考えると、小説世界とはどんどん離れていってる気がする。
……日葵が大雅に恋をしていることもそうだよね。
「あー、やっと終わったね」
くるりとふり向いた日葵にドキッとしてしまう。
心の声が聞こえたわけじゃないんだろうけれど、日葵は鋭いところがあるから。
「後藤さん」
兼澤くんがおずおずと日葵の席に近づいてきた。
またしても紙袋を手にしているのでギョッとする。
前回、無下に断られたことを覚えていないのだろうか。
けれど日葵は、
「あ、もう持ってきてくれたの?」
ピョンと立ちあがり、うれしそうに紙袋を受け取っている。
「テレビ版のファーストシーズンと映画版。ブルーレイでいいんだよね?」
「そうそう」
中身を覗きこんだ日葵が、ギュッと胸のところで紙袋を抱きしめた。
「ありがとう。アニメ見てみたかったから助かる」
「いえ……」
「中間テスト終わったら見るから、それまで借りてていい? 文化祭までには返せると思うんだけど」
兼澤くんは顔を真っ赤にして「いつでもいいよ」と言い、席に戻っていく。
「漫画の話は学校ではナシなんじゃなかったっけ?」
バッグに紙袋をしまう日葵に意地悪を言うが、
「そうだっけ?」
と、とぼけている。
「漫画がすごくおもしろかったからアニメも観たくなっちゃってさ。全部持ってるって言ってたから貸してもらったの」
日葵は大雅への恋心を打ち明けて以降、さらに明るくなったと思う。
身構える必要がなくなったからなのか、兼澤くんとも漫画やアニメの話を平気でしている。
一方、私は優太とうまくしゃべることができずにいる。
恋って、人を強くしたり弱くしたりするんだね。
日葵は強い防具を身に着け、私は薄着で戦っている気分。
――戦う、って誰と?
考えれば考えるほどよくわからなくなる。
優太を意識するほどに、モヤモヤした気分になってしまうのはなぜだろう。
トイレにでも行ってたのだろう、席に戻って来た優太が難しい顔をしている。
「どうかしたの?」
日葵が尋ねると、優太は両腕を組んだ。
「大雅がいた」
「え?」
好きな人の名前に敏感に反応したのは日葵。
大雅は今日、急用ということで学校を休んでいる。
「どうして大雅が学校にいるわけ? 人違いじゃないの? 本当にいたの?」
質問しすぎなことに自分でも気づいたのだろう、日葵は中腰になっていた腰をドスンとおろした。
「あ、今のはウソ。なんでもない」
なんて、バレバレの態度でごまかしている。
「俺も人違いじゃないかって思ったけど、あれは大雅だった。ホームルームから参加するのかな」
日葵の動揺に気づかない優太に安心したのだろう、日葵は身を乗り出した。
「こんな時間から登校? そんなことある?」
「俺に聞かれてもなあ」
ふたりの会話を聞きながら、イヤな予感が胸に生まれていた。
こういうシーン、小説のなかでなかったっけ……。
たしか私が……。
「あっ!」
急に大声を出す私にふたりの視線が集まった。
浮かびかけた小説の内容が消えそうになるのを必死で押しとどめる。
「たしか……主人公が、学校を――そう、風邪で休んだんだ」
「なんだよ、また小説の話かよ」
茶化してくる優太に「静かにして」と日葵が鋭く言った。
ギュッと目を閉じると、あのシーンの文章がふわりと頭によみがえった。
□□□□□□
ベッドに横になったとたん、スマホが着信を知らせて震えた。
表示されているのは茉莉の名前。
「もしもし。もう学校終わったの?」
『……なんだって』
やっと聞こえた声は、茉莉らしくない小声だった。
「ごめん。なんて言ったの?」
スマホに耳を寄せて尋ねると、茉莉は震える声で言った。
『大雅、また転校することが決まったんだって』
と。
□□□□□□
心配そうにふり返る日葵と目が合った。
「思い出せたの?」
「日葵」
その腕をギュッと握った。
「大雅、転校するかもしれない」
「……まさか。だって転入してきたばっかりなのに?」
半笑いの日葵の目がせわしなく左右に動いている。
「小説のなかではそういう展開になってたと思う」
「理由は思い出せないの?」
「理由……」
そうだよ、転校するには理由があるはず。
なにかが起きて、大雅は転校することになったんだ。
「お父さんの仕事の関係かも」
自信なさげに言うと、「ないない」と優太が右手を横に振った。
「大雅の父親って、俺たちが小学生のときに亡くなったろ。覚えてないの?」
そう言われても、私には大雅の記憶すらない。
「お前ら、マジで小説の読みすぎだって」
カラカラ笑う優太に、日葵が「やめて」と強い口調で言った。
「優太にはわからないだろうけど、悠花には大変なことが起きてるんだからね。そもそも、大雅が学校にいるって言ったのは優太じゃん」
「はいはい、余計なことは言いません」
「なによその言いかた」
「別にヘンなこと言ってねーし」
険悪な雰囲気のなか、胸騒ぎはどんどん大きくなっていく。
チャイムの音がし、教室に先生が入ってきた。
「あれ、山本くん」
前の扉近くの女子が驚いた声を出した。
見ると、先生のうしろから大雅が入って来るところだった。
目が合うが、すぐに逸らされる。
「今日はみんなに報告したいことがあります」
教壇に立つ先生の隣に大雅は並んだ。
転入してきた日と同じ光景に、前の席の日葵は固まったように動かない。
「山本くんがこのたび、転校することになりました」
みんなの驚く声が教室に広がった。
優太を見ると、『マジかよ』の形で口が動いている。
みんなが落ち着くのを待って、大雅は一礼した。
「急なことで僕も驚いています。短い間でしたがありがとうございました」
「山本くんはいろいろ手続きがあるから、今日は挨拶だけしに来てもらいました。もういいぞ」
「はい」
教室を出ていく大雅に、誰もがあっけに取られている。
小説のなかでは描かれなかったシーンだ。
鼻をすする音が聞こえる。
日葵は肩を震わせて泣いていた。
ネイティブとはいえない発音で、担当教師が英文を読みあげているなか終わりのチャイムが鳴った。
先生がいなくなると、とたんにザワザワし出す教室。
教科書をカバンにしまい、意味もなく窓越しの空を見た。
九月末の空はあまりに高く、青色も薄く感じられる。
明日から天気は下り坂らしい。
『パラドックスな恋』は、大雅が悠花に告白したシーンで止まっている。
もう更新をしないのかもしれない。
改めて確認すると、現実とは違うことがたくさんある。
例えば、主人公に小学三年生までの記憶がないこと。
両親の仲がよいこと。
両親が大雅をよく思っていないこと。
図書館で借りた本について主人公の幼なじみは心当たりがあること。
ほかにも、細かなところでは、台詞を口にする人が違っていたりもする。
現実の流れだって、私が大雅の告白を避けたことで大きく変わっている。
大雅が事故に遭う展開も起こらない可能性だってある。
それでも、念のために大雅には気をつけてもらわないといけない。
事故が起きるのは、夕焼けの広がる雨の日。
そういう日が来たら、大雅に念押しをしないと……。
ひとり反芻していると、
「あの英語じゃ、話せるようになるとは思えない」
と、うしろの席で木村さんがため息をついた。
「キムみたいにハリウッド映画ばかり見てるわけじゃなさそうだからね」
「スラングとか、くだけた会話とかを学びたいんだけどな。まあ、受験対策用の英語だからしょうがないけどさ」
小説には木村さんだって登場していなかった。
そう考えると、小説世界とはどんどん離れていってる気がする。
……日葵が大雅に恋をしていることもそうだよね。
「あー、やっと終わったね」
くるりとふり向いた日葵にドキッとしてしまう。
心の声が聞こえたわけじゃないんだろうけれど、日葵は鋭いところがあるから。
「後藤さん」
兼澤くんがおずおずと日葵の席に近づいてきた。
またしても紙袋を手にしているのでギョッとする。
前回、無下に断られたことを覚えていないのだろうか。
けれど日葵は、
「あ、もう持ってきてくれたの?」
ピョンと立ちあがり、うれしそうに紙袋を受け取っている。
「テレビ版のファーストシーズンと映画版。ブルーレイでいいんだよね?」
「そうそう」
中身を覗きこんだ日葵が、ギュッと胸のところで紙袋を抱きしめた。
「ありがとう。アニメ見てみたかったから助かる」
「いえ……」
「中間テスト終わったら見るから、それまで借りてていい? 文化祭までには返せると思うんだけど」
兼澤くんは顔を真っ赤にして「いつでもいいよ」と言い、席に戻っていく。
「漫画の話は学校ではナシなんじゃなかったっけ?」
バッグに紙袋をしまう日葵に意地悪を言うが、
「そうだっけ?」
と、とぼけている。
「漫画がすごくおもしろかったからアニメも観たくなっちゃってさ。全部持ってるって言ってたから貸してもらったの」
日葵は大雅への恋心を打ち明けて以降、さらに明るくなったと思う。
身構える必要がなくなったからなのか、兼澤くんとも漫画やアニメの話を平気でしている。
一方、私は優太とうまくしゃべることができずにいる。
恋って、人を強くしたり弱くしたりするんだね。
日葵は強い防具を身に着け、私は薄着で戦っている気分。
――戦う、って誰と?
考えれば考えるほどよくわからなくなる。
優太を意識するほどに、モヤモヤした気分になってしまうのはなぜだろう。
トイレにでも行ってたのだろう、席に戻って来た優太が難しい顔をしている。
「どうかしたの?」
日葵が尋ねると、優太は両腕を組んだ。
「大雅がいた」
「え?」
好きな人の名前に敏感に反応したのは日葵。
大雅は今日、急用ということで学校を休んでいる。
「どうして大雅が学校にいるわけ? 人違いじゃないの? 本当にいたの?」
質問しすぎなことに自分でも気づいたのだろう、日葵は中腰になっていた腰をドスンとおろした。
「あ、今のはウソ。なんでもない」
なんて、バレバレの態度でごまかしている。
「俺も人違いじゃないかって思ったけど、あれは大雅だった。ホームルームから参加するのかな」
日葵の動揺に気づかない優太に安心したのだろう、日葵は身を乗り出した。
「こんな時間から登校? そんなことある?」
「俺に聞かれてもなあ」
ふたりの会話を聞きながら、イヤな予感が胸に生まれていた。
こういうシーン、小説のなかでなかったっけ……。
たしか私が……。
「あっ!」
急に大声を出す私にふたりの視線が集まった。
浮かびかけた小説の内容が消えそうになるのを必死で押しとどめる。
「たしか……主人公が、学校を――そう、風邪で休んだんだ」
「なんだよ、また小説の話かよ」
茶化してくる優太に「静かにして」と日葵が鋭く言った。
ギュッと目を閉じると、あのシーンの文章がふわりと頭によみがえった。
□□□□□□
ベッドに横になったとたん、スマホが着信を知らせて震えた。
表示されているのは茉莉の名前。
「もしもし。もう学校終わったの?」
『……なんだって』
やっと聞こえた声は、茉莉らしくない小声だった。
「ごめん。なんて言ったの?」
スマホに耳を寄せて尋ねると、茉莉は震える声で言った。
『大雅、また転校することが決まったんだって』
と。
□□□□□□
心配そうにふり返る日葵と目が合った。
「思い出せたの?」
「日葵」
その腕をギュッと握った。
「大雅、転校するかもしれない」
「……まさか。だって転入してきたばっかりなのに?」
半笑いの日葵の目がせわしなく左右に動いている。
「小説のなかではそういう展開になってたと思う」
「理由は思い出せないの?」
「理由……」
そうだよ、転校するには理由があるはず。
なにかが起きて、大雅は転校することになったんだ。
「お父さんの仕事の関係かも」
自信なさげに言うと、「ないない」と優太が右手を横に振った。
「大雅の父親って、俺たちが小学生のときに亡くなったろ。覚えてないの?」
そう言われても、私には大雅の記憶すらない。
「お前ら、マジで小説の読みすぎだって」
カラカラ笑う優太に、日葵が「やめて」と強い口調で言った。
「優太にはわからないだろうけど、悠花には大変なことが起きてるんだからね。そもそも、大雅が学校にいるって言ったのは優太じゃん」
「はいはい、余計なことは言いません」
「なによその言いかた」
「別にヘンなこと言ってねーし」
険悪な雰囲気のなか、胸騒ぎはどんどん大きくなっていく。
チャイムの音がし、教室に先生が入ってきた。
「あれ、山本くん」
前の扉近くの女子が驚いた声を出した。
見ると、先生のうしろから大雅が入って来るところだった。
目が合うが、すぐに逸らされる。
「今日はみんなに報告したいことがあります」
教壇に立つ先生の隣に大雅は並んだ。
転入してきた日と同じ光景に、前の席の日葵は固まったように動かない。
「山本くんがこのたび、転校することになりました」
みんなの驚く声が教室に広がった。
優太を見ると、『マジかよ』の形で口が動いている。
みんなが落ち着くのを待って、大雅は一礼した。
「急なことで僕も驚いています。短い間でしたがありがとうございました」
「山本くんはいろいろ手続きがあるから、今日は挨拶だけしに来てもらいました。もういいぞ」
「はい」
教室を出ていく大雅に、誰もがあっけに取られている。
小説のなかでは描かれなかったシーンだ。
鼻をすする音が聞こえる。
日葵は肩を震わせて泣いていた。