君がくれた物語は、いつか星空に輝く

「図書館なんて久しぶりなんだけど」

 日葵が大きな声で言うから、「シッ」と人差し指を唇に当てる。
 もうこれで何度目かの注意だ。

「でもさあ、こんな暗くて本を読めるのかなあ」

 天井を指さす日葵には、声を小さくする意思はなさそう。
 駅前から普段は乗らない方面行きのバスに乗り、揺られること三十分。
 山の中腹にある図書館は、噂には聞いたことがあったけれど訪れたのは初めてのこと。
 館内は広いわりに薄暗く、天井からはオレンジ色の照明がいくつかぶら下がっている。
 日葵が言うように、図書館にしては暗すぎる。

「とりあえず本を返すんだろ」

 うしろで優太がそう言うが、貸し出しカウンターにも二階の閲覧スペースにも職員らしき人はいなかった。
 それどころか、土曜日というのにほかにお客さんの姿もない。

 ふと、この光景をどこかで見た気がした。
 ああ、そうだ。『パラドックスな恋』でも同じ場面があったよね。

 最近は直前にならないと小説の内容が思い出せないことが増えている。
 たしか、大雅が学校を休んでいて、その間に『雨星』について調べに図書館へ行くシーンが出てきたはず。

 主人公が手にした本を見て、幼なじみふたりが顔をこわばらせる。
 そして、意味ありげにごまかされるというシーン。

 叶人が借りていた本を改めて見る。
 クレヨンタッチの表紙は、小説内で出てきた本と同じだ。

 今日来るとき、バスのなかでふたりに本の表紙を見せた。
 日葵も優太も、どちらもこの本は初めて見たと言ってたし、それはウソではないと思う。

 それに改めて考えると、小説の内容との乖離はほかにもある。
 あの日から大雅は私にあまり話しかけてこなくなった。
 あんな露骨に拒否してしまったから、そうなるのも当然かもしれない。

 まるで小説と逆の展開になっているし、これでは雨星が降る日に大雅を助けられないことになる。

「ね、ここに座って」

 閲覧コーナーを指さすと、ふたりは素直に座ってくれた。
 正方形のテーブルの脇にあるスイッチを押すと、

「わ、まぶしい!」

 日葵が顔をそむけた。テーブルの四方につけられたライトが白く光り、上空からはさらに明るいLEDの照明が照らしている。

「なるほど、これで本が読めるってことか」

 感心する優太に、日葵はたいくつそうに椅子にもたれた。

「ここの見学会に来たわけじゃないんだよ。さっさと終わらせてお茶でもしようよ」
「いっそのことその本、カウンターに置いて逃げちゃおうか」

 どこまで本気かわからない口調で優太は言った。

「それはヤバいって」

 笑い声をあげた日葵が、「いけない」と口を両手で覆った。
 ふたりにちゃんと話をしたい。おかしなことを言うと思われてもいい。
 せめて、今の状況だけは伝えておきたかった。

 ううん……助けてほしかった。

「ちょっとだけ話をしたいの」

 そう言うと、ふたりは顔を見合わせてからこっちを向いた。

「ふたりに改めてヘンなことを聞くと思うけど、ちゃんと答えてほしいの」

 日葵は口を押えたままの恰好でうなずき、優太は「ああ」と答えた。
 なんて説明すればわかってくれるのか、と数秒考えても言葉が選べない。
 視線を落とすと、そこには叶人が借りた本が置かれている。
 テーブルの照明が当たり宙に浮いているように見えた。
 『宇宙物理学における月と星について』のタイトルを指先でたどった。

「もう一度確認するけど、ふたりはこの本を見たことがないんだよね?」
「ないよ」「ない」

 同時にふたりが答えた。
 長い経験だからわかる、やっぱりウソは言っていない。
 小説と現実世界の差がひとつ、と心のなかでメモる。

「あと……私って小学三年生までの記憶がないの?」
「へ?」

 日葵が「そうなの?」と質問をした私に尋ねてくる。

「私はあるつもりなんだけど、ふたりから見たらどうなのかな、って」

 ギイと椅子を揺らせた優太が口を閉じたままでうなった。

「たしかに大雅のことは忘れてるみたいだけど、それくらいなんじゃね?」
「むしろ大雅の記憶だけすっぽり抜けてるように思えるよ」

 そうだよね、と胸をなでおろした。
 だって、私には昔の記憶もおぼろげながらだけどちゃんとあるから。

 叶人が生まれた日のこと。
 叶人が寝るまで心配で眠れなかったこと。
 叶人と遊んだこと。

 たくさんの思い出が今も記憶として刻まれている。

「じゃあさ、小学三年生のときに私が交通事故にあったことって覚えてる?」

 ふたりは黙って首を横に振るので、今度こそ安堵の息をつけた。
 小説の設定と違い、大雅はただ転入してきただけということになっているみたい。

 だとしたら、いったいなんのために大雅はこの世界に現れたのだろう。
 雨星はどんな奇跡を起こしてくれるのだろう……。

 今後の展開を考えても、わかっているのは大雅が事故に遭うこと。
 その先は……ああ、やっぱりうまく思い出せない。

「記憶とか事故とかって、どういうこと? やっぱり悠花、なんかあったんだろ?」

 優太が椅子を揺らしながら尋ねた。
 ふたりにこの不思議な現象を理解してもらうことはあきらめた。
 小説と現実が混ざり合っているなんて意味がわからないだろうし。

「なんでもないよ。ちょっと聞いてみただけ」

 ごまかしてみても優太にはお見通しなのだろう。
 目を細め疑うような視線を送ってくる。

「そう言えばさあ」

 テーブルに両肘を置いた日葵が、光のなかでつぶやいたので、
「なになに」
 その話題にすがりつくことにした。
 けれど、日葵の表情もどこか浮かない。

「こないだ大雅のお見舞いに行ったとき、なんかあったの?」
「なんかって?」
「ほら、ふたりの間に進展とかあったのかなーって。その後の報告がないからさ」

「ああ」と答えてから首を横に振る。

「エコバッグごと渡して帰ったよ」
「え……なんで?」

 日葵の声が固くなった気がした。

「なんでって。大雅、風邪引いてたし、女子ひとりで部屋に入れるわけにいかない、って言われたから」
「……へえ」

 なにか考えるように日葵はうつむいてしまったので、表情が見えなくなる。
 本をペラペラとめくる優太は興味がなさそう。

「日葵?」

 尋ねると、日葵はハッと顔をあげて笑みを作った。

「残念だったね。またきっとチャンスはあるよ」
「あ、うん」
「あたしが作ったチャンスを無駄にしたバツは重いよ。帰りにジュースをおごること!」
「だから大声を出しちゃ――」

 カツカツ、と革靴の音が聞こえた。
 誰かが階段をあがってきている。
 オレンジ色の照明のなか、長いシルバーの髪が見えた。
 優太も気づいたらしく本から顔をあげた。
 女性だと思ったけれど、近づくにつれて長身の男性であることがわかる。 
 優太も長身だけどもっとスリムで、繊細なイメージで髪色によく似たスーツを着ている。
 ネクタイはスーツよりも少し濃い色で切れ長の目によく似合っている。

「いらっしゃいませ。ちょっと外出していたものですみません。館長の長谷川と申します」

 彼が頭を下げると、肩の下あたりまでの髪がサラサラと波のように動いた。
 年齢は二十代後半、もしくは三十歳くらいだろうか。
 美しい顔をした男性だと思った。

「こんにちは」「こんちわ」

 さすが体育会系というべき瞬時の挨拶をするふたりに、私も遅れて頭を下げた。

「お邪魔しています。うるさくしてすみません」
「構いませんよ。ここはあまりお客さんも来ませんから」

 ほほ笑む長谷川さんの瞳が、優太の手元にある本で止まった。

「それはひょっとしてツータス・パンシュの本ですか?」
「俺じゃないです。こいつのです」

 人差し指でさしてくる優太をひとにらみしてから、再度頭を下げた。

「弟が長い間お借りしたままだったようです。本当に申し訳ありませんでした」

 まだ笑みを浮かべている長谷川さんが、どこかアンドロイドに見えてくる。
 顔立ちが整いすぎているからそう思ってしまうのかな……。
 私をじっと見つめたまま長谷川さんが、あごに手を当てた。

「あなたは柏木悠花さんですか?」
「……そう、です」

 ゆっくりと目を細めると、長谷川さんはやさしく目を細めた。

「そうでしたか。叶人くんからよく話は伺っていました」
「叶人が……」

 思いもよらない場所で叶人の名前が出てきた。
 でも、叶人が借りた本だし、長谷川さんと顔見知りになっていてもおかしくないだろう。

「お世話になりました」

 改めて礼をすると、長谷川さんはさみしげに目を伏せた。

「大変でしたね。大事な人を亡くされ、さぞかしお辛いでしょう」
「いえ……はい」
「その本は叶人くんのお気に入りで、よく読んでおられました」

 日葵が優太になにかコソコソ話をし、そっと席を立つのが見えた。
 優太も「別にいいのに」とつぶやきながら席を離れていく。
 ふたりきりで話をさせよう、という日葵の気遣いだろう。

 向かい側の席に腰をおろした長谷川さんの顔が、照明でさらに白く光る。
 私も元の席に座った。

「あの……叶人が亡くなったことは誰に聞いたのですか?」

 本が部屋にあったのなら、お母さんではないはず。

「本人からですよ」
「え、本人……?」

 本人って、まさか叶人から聞いたってこと?
 驚く私に、長谷川さんがゆるゆると右手を横に振った。

「すみません、言葉足らずでした。私と叶人くんは年齢は離れていますが、友達なんです。彼が入院してから毎日のように連絡はし合っていました」

 そんなこと、全然知らなかった。
 長谷川さんは少し考えてからスマホを取り出すと、画面を操作した。

「彼はこう書いています。『毎日必ずメッセージを送るよ。三日続けて届かなくなったときは、もう僕はいないと思ってね』と」
「……そうでしたか」
「二年前、連絡が来なくなって三日が過ぎた日に、静かに友の死を受け止めました」

 本を手元に寄せた長谷川さんは、まるでそこに叶人がいるかのように小さく笑みを浮かべている。

「なんだか……ホッとしました。叶人にも友達がいたのですね」
「今でも彼は私の親友です」

 そう言って、長谷川さんは奥の席でボソボソ話しているふたりを見やった。
 あのふたりが私にとってそうであるように、というようなやさしい目線で。

「もうひとつ伺いたいことがあるんですけど……」

 視線を私に戻すと長谷川さんは目尻を下げた。

「叶人がよく『雨星が振る日に奇跡が起きるんだよ』と言ってたんです。それについて、ご存じですか?」
「なつかしい。たしかによく言っておられましたね。けれど、私には残念ながら雨星についての知識がなく、叶人くんからも教えてもらえませんでした」
「そうでしたか……」

 バッグに入れているスマホで『パラドックスな恋』を開いて見せようと思ったけれど、きっと長谷川さんには意味がわからないこと。

「雨星は実在するんでしょうか?」
「流星群のことかな、と予想したのですが不正解でした。占いで『雨星人』という分類の名前もあるそうですが、それもダメ。誰もその謎を解くことはできないのです」

 困った顔の長谷川さんに、思わず笑ってしまった。

「叶人の言う奇跡ってなんだと思いますか?」
「それもまた謎ですが、星にまつわる奇跡はたくさんあるんです。例えば流星群が奇跡を運んでいてくれるとか、『奇跡の星』と呼ばれる星を見つけたら奇跡が起きるとか。古代から、人は夜空を見あげて願い続けているのでしょう」

 奇跡なんて起きないからこそ、そう呼ばれている。

 もう二度と叶人には会えないし、仲がよかったとは言えない私に会いたいとも思っていないはず。

「彼はいつもあなたのことを心配していましたよ」

 けれど、長谷川さんがそんなことを言うから、胸が大きく跳ねてしまう。

「私のこと……ですか?」
「入院してからは特にそうでした。どんどん元気がなくなる悠花さんのことばかり、メッセージに書いてありましたから」
「ああ……」

 漏らす言葉に、向こうのふたりがなにごとかと顔を向けているのが見える。
 同時に鼻の奥がツンと痛くなった。

「私……全然いい姉じゃなかったんです」
「それはあなたから見た事実であって、彼にとっては違うかもしれませんよ。本当に悠花さんのことを心配していましたから」

 こみあがる涙はあっけなく頬にこぼれ落ちた。
 私なんかをどうして心配してくれたの?
 この涙は、後悔と懺悔と取り戻せない時間を嘆いてこぼれていると思った。

「叶人が亡くなってから、友達にも叶人の話ができなくなりました。それどころか、普通の話もできなくなって……」
「はい」
「両親の仲も悪くなって、離婚するかもしれない。それなのに……なにも、言えないんです」

 なぜ初対面の長谷川さんにこんなことを話しているのだろう。
 ポロポロこぼれる涙と言葉たちを止めることができない。
 バッグからハンカチを取ろうとしたときだった。

「おい」

 うしろから大きな声がして、優太が駆け寄ってきた。

「あんた、悠花になにか言ったのか?」
「え、ちょっと――」
「悠花になにか余計なこと言ったんだろ」

 食ってかかる優太を、なぜか長谷川さんはにこやかに受け止めている。

「優太、やめてよ」

 慌てて止める私を優太は不満げに見た。

「悠花だって叶人の話を振ってもずっと拒否してただろ。やっと最近になって話せるようになったのに、なんで初対面のこいつにペラペラしゃべってんだよ」
「それは……」

 自分でも主張がおかしいと思ったのだろう。
 優太は頭をブンブンと横に振ると、「もういい」と吐き捨て歩き出す。

「待ってよ」

 階段の手前でピタリと足を止めると、優太はまた首を横に振った。

「ごめん。俺、おかしいわ。失礼しました」

 最後の言葉は長谷川さんに言ったのだろう。

「構いませんよ」

 長谷川さんの答えに、優太はまたムッとした表情を浮かべ、そのまま階段を駆け足で下りて行ってしまった。

「待ちなって! 悠花、あたし追いかけるね」

 私の返事も待たずに、日葵も行ってしまった。これはマズい。

「すみません。私が泣いてしまったせいでご迷惑を――」
「いいですね」

 頭を下げる私に、長谷川さんはそう言った。

「友達っていいものです。悠花さんのためにあんなふうにぶつかってこられるんですから」

 それでもさっきの優太の発言は失礼すぎる。
 優太らしいと言えばそうだけど、怒りの根源がよくわからない。
 とにかく私も追いかけたほうがいいのはたしかなこと。

「私もこれで失礼します。あの、この本は……」
「このままでいいですよ。元の場所に戻しておきますので」

 座ったままの長谷川さんに一礼して歩き出した。
 テーブルの照明を消すスイッチ音とともに、二階は暗がりに沈んだ。

「パラドックス」

 ふいに声が聞こえ、思わず体ごとふり返ってしまう。

「パラドックス……って言ったのですか?」

 信じられずに尋ねると、長谷川さんは長い足を組んだ。

「その言葉をご存じですか?」
「詳しくはわかりませんが……聞いたことはあります」

 どうして長谷川さんがパラドックスを知っているのだろう。
 いや、別に『パラドックスな恋』について言っているわけじゃないんだ。

「パラドックスというのは、一見すると真実のように見えるけれど実は真実ではない、という意味で使われることが多い言葉です」

 立ち尽くす私に、長谷川さんは言葉を続けた。

「有名な例では『誕生日のパラドックス』があります」

 人差し指を立てる長谷川さんは、まるで催眠術師のよう。
 その指先に意識が吸いこまれていくみたい。

「同じクラスに四十人いたとします。そのなかで同じ誕生日の人がいる確率は何パーセントだと思いますか?」
「え……」

 突然はじまった問題。
 その間にも、ふたりは図書館を出たらしく、入り口のドアが閉まる音が聞こえた。

「あの……同じ誕生日ですよね。三六五日ぶんの四十だから……十%くらいですか?」

 満足そうにうなずくと長谷川さんは立てた指を左右に振った。

「今出した答えが真実のように思えますよね。しかし、理論上で導き出される答えは八十九.九%もあるんです」
「まさか」

 そんな高い確率で同じ誕生日の人がいるとはとても思えない。

「そのまさかです。ちなみに七十人のクラスがあったとすれば、理論上、九十九.九%になります」

 ぽかんとする私に、長谷川さんは自分の頭をポンと叩いた。

「失礼しました。実はこれ、叶人くんからの受け売りなんです」
「叶人がそんなことを……」

 スマホを開いた長谷川さんが、メガネをかけて操作する。
 髪に顔に天井からの光がスポットライトのように当たっている。

「最後のほうのメッセ―ジに書いてあります。『うちの姉はパラドックスに気づいてない節があります。いつもうわべだけで判断し、よろこんだり落ちこんだりしています。そんな姉も好きですが、人の奥にある真実も見てほしいものです』と。中学一年生とは思えない大人びた文章ですよね」

 クスクス笑う長谷川さんが立ちあがると、なぜか館内の照明がまた暗くなった気がした。
 まるでこのシーンはこれで終わり、と告げられた気がして、もう一度頭を下げてから階段を下りた。