さっきから日葵は右手にはスマホ、左手には重いエコバッグを持って歩いている。
 私も荷物を持つと言ったけれど、『悠花には重すぎる』と一笑された。

「あそこのマンションだね」

 大股で歩く日葵に置いて行かれないようについていく。
 大雅のお見舞いに向かっているなんて不思議だ。
 小説の世界を体験したいと思っていたけれど、それはあくまで私が小説のなかに飛びこみたいというもの。
 まさか、現実世界で同じことが起きるとは思わなかった。
 しかも、微妙にズレているし……。

 ようやくマンションのエントランスに近づく。
 小説を読んだときに想像する建物よりも少し大きかった。
 きっと知登世ちゃんにこのあと会うのだろう。

 あれ、そのあとどうなったっけ……。
 また先の展開がぼやけている。
 思い出そうとしても、知登世ちゃんとどんな話をしたのか、そのあとどうなったかが思い出せない。何度も読んだ物語なのに、なぜだろう。

 たしか……大雅への恋心を確信するんだよね。

「でもさあ」エコバッグを軽く振りながら日葵がぼやいた。

「最近、優太ってムカつかない? なによエラそうに」

 今朝の言い合いが尾を引いているらしく、今日は最後までふたりの間に会話はなかった。

「そうだね。でも……」
「兼澤くんだって、なにもみんながいるところで漫画のこと言わなくてもいいじゃんね」
「うん。でも、漫画の話くらいはいいんじゃない?」
「やだよ。だってあたし、今――」

 言葉を呑み込むようにあごを動かしてから、日葵は不機嫌そうな顔を向けてきた。

「ていうか、恋愛なんてしたくないって言ってるでしょ」
「そうだけど……」
「もうこの話は終わり。大雅も風邪治ったみたいだし、ふたりで元気づけてあげようよ」

 マンションの入り口からなかに入ると、日葵はちょうど出てきた男性と入れ違いで自動ドアのなかに入った。私も閉まる前に滑りこむ。

 ここで知登世ちゃんが現れるはずなのに……。

 キョロキョロとしているうちに、日葵はさっさとエレベーターに乗りこんだ。

「悠花、早く」

 せかす声に私もエレベーターに乗った。
 二階のボタンを押すと、音もなくエレベーターのドアが閉まった。
 ふわっと生まれる浮遊感は一瞬のことで、すぐに二階に到着する。

 先に降りて右へ進もうとする私に、
「ねえ悠花」
 と、日葵が呼び止めた。

 ふり向くと、日葵が困ったような顔でまだエレベーターのなかにいた。

「悠花に聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「え……うん」

 どうしたんだろう。
 日葵はドアが閉まらないように押さえながら、眉間にシワを寄せている。

「この前さ、大雅のことどう思ってるのか聞いたじゃん。あのときはごまかしてたけど、ちゃんと聞かせてよ」
「それって……なんで?」
「だって大雅の記憶がないって言ってたから。覚えていないのに、それでも好きなのかな、って?」

 日葵の疑問にはうなずける。
 小説の世界では主人公に同化して大雅に恋をしている。
 けれど、二学期になり現れた現実世界の大雅に恋をしているのかと尋ねられると、やっぱりよくわからない。

 ここもまた物語が変わる分岐点なのだろう。
 大雅とのハッピーエンドを目指すなら、正しい道へ進まないといけない。
 なんだか、一度やった恋愛シミュレーションゲームを再プレイしているみたい。

 すう、と息を吸ってからまっすぐに日葵を見た。

「好きだよ。記憶はなくても、心が覚えている気がしてる。今はちゃんと思い出せていないけど、気持ちは変わらないよ」

 あの小説の主人公ならきっとこう答えたはず。
 日葵はしばらく黙っていたけれど、やがて「ふっ」と笑った。

「そっかー。悠花もちゃんと恋をしてるってことか」
「日葵だって兼澤くんのこと、ちゃんと考えてあげたほうがいいよ。漫画を借りてみるのはどう?」
「急に恋愛の達人っぽくなるのやめてよねー。あたしは恋愛はしないんだって。恋愛なんてしたら、自分の感情だけじゃなくて友達関係までおかしくなりそうだし」

 よくわからないことを言ったあと、日葵はエレベーターの外にエコバッグをひょいと置いた。

「ということで、あたしは帰るから」
「え!? どうして? 大雅の部屋、すぐそこだよ」

 いきなりの急展開に驚いてしまう。
 ドアを押さえていた手を離した日葵が、胸の前で小さく横に振った。

「ここが距離をグッと縮められるチャンスなんだからがんばりなよ。バイバイ」

 あっけなく目の前でエレベータのドアが閉まった。
 いきなりの展開に驚いてしまうけれど、ふたりきりで話す機会が小説よりも少ないのはたしかだ。
 でも、このあと知登世ちゃんに先に会うんだよね。
 大雅とふたりきりになれるのは、帰り道、送ってもらうときだったはず。

 意を決し202号室の前へ行く。
 うしろをふり返るけれど、知登世ちゃんは姿を現さない。
 とりあえず先に進まなくちゃ。
 インターフォンを押すと、しばらくして「はい」と大雅の声が聞こえた。

「あの、悠花です。お見舞いに来ました」
「え、悠花!? ちょっと待ってて。今、お風呂に入ってたところでね。すぐに着替えるから」
「はい」

 敬語で話している自分に気づき、肩を上下させ深呼吸をした。
 待っている間、廊下の手すりに腕を置いて外の景色を眺める。

 あ……日葵が帰っていくのが見える。
 いつも元気なイメージなのに、太陽が作る長い影のせいで落ちこんでいるように見えた。
 ふいに日葵がふり返った。

「日葵」

 きっとこんな小さな声じゃ届いていないのに、日葵は大きく手を振ってくれた。
 影も一緒に手を振ってくれている。
 私も精一杯腕を伸ばして手を振った。

 うしろでドアの開く音がした。

「お待たせしてごめんね」

 まだ濡れた髪の大雅が、黒いスウェットを着て立っていた。
 顔色もいいし、にこやかな笑顔は体調がよくなったことを表している。

「あれ、日葵も来るって聞いてるけど?」

 あたりを見回す大雅に、
「そうだったんだけどね、急用みたいで……。これ、三人からのお見舞い」
 とっさに理由をつけ、エコバッグを手渡す。

 ガバッとエコバッグを開けた大雅が、うれしそうにスポーツドリンクを取り出した。

「うれしいな。食べ物も飲み物も底をついてたから助かるよ」
 よほど喉が渇いていたのだろう、ペットボトルのフタを取り、一気飲みする大雅。
 玄関には大雅の靴しか置いていない。

「あの、知登世ちゃんは?」
「グッ」

 喉からヘンな音を立てた大雅が、ムセそうになっている。
 なんとかこらえてドリンクを口から離すと、思いっきり首をかしげた。

「僕、知登世のこと話したことあったっけ?」
「あ、ごめん」

 ヤバい。思わず口にしてしまった。
 現実世界では知登世ちゃんについて知らないことになっているんだった。
 言い訳を考えていると、「そっか」と大雅はうなずいた。

「ユウから聞いたんだね」
「あ……うん。そうなの」

 優太に感謝しながら大げさにうなずいてみせた。

「知登世は転校してから生まれたから年が離れてるんだけど、僕よりもしっかりしてるんだよ」

 ふにゃっとした笑みで宙を見る大雅。
 もうこれ以上余計なことは言うまい、と自分に言い聞かせる。

「来週あたりかな。家族みんなで越してくるよ。それまではひとり暮らしをしてるってわけ」
「うん」
「だから、いくら幼なじみでも悠花を家にあげることはできないんだ。男女ふたりが同じ部屋にいた、ってウワサが広まったら悠花に悪いし」

 申し訳なさそうに言う大雅に、慌てて両手を横に振った。

「ぜんぜんいいよ。そもそも風邪なんだから寝てないと」

 小説のなかでは知登世ちゃんがいたから部屋にあげてもらえたってことか……。
 真面目な大雅に好感を持ちつつ、一歩下がった。
 このあと、大雅は『じゃあ、途中まで送るよ』と言うはず。
 ふたりで夕焼け公園に行き話をするのが第二章のメインイベントだから。
 そこで私は大雅への気持ちを知ることができるのかな……。

 けれど、
「じゃあ、今日はありがとう」
 あっけなく大雅がそう言うから、私もうなずくしかなかった。

「お大事にね」

 そう言ったあと、私は階段に足を進める。
 階段を一歩ずつおりていると、ドアが閉まる音に続き内側からロックをかける音がした。

 ……なぜかホッとしている自分がいた。