夕日のオレンジに染められた教室には、机や椅子の影が模様みたいに走っている。
コロナの影響で遅れた授業を取り戻すため、始業式のあとも五時間目まで授業が続いた。
最初から知っていたことなのに、今日ほど時間が経つのを遅く感じたことはなかった。
ホームルームのあとトイレに走り、スマホで『パラドックスな恋』の第一章をくり返し読んだ。
誰もいない教室に戻ってからも、たしかめるように最初のシーンをひと文字ずつ確認した。
――間違いない。
芦沢先生の言ったことや、大雅が登場するシーンは小説そのまま。
大雅の見た目も小説を読みながら想像していた顔そのもの、いや、それ以上にかっこよかった。
こんなのドッキリ企画でもない限り、ありえないよね……。
自己紹介をしたあとの大雅に誰よりも興味を持っていたのは、私だろう。
けれど、ひと言も話せないまま下校時刻まで隠れるように身を小さくしてやり過ごした。
うれしさよりも怖い気持ちのほうが強かったし、話しかけられでもしたなら逃げ出していたかもしれない。
「偶然、だよね」
この言葉を頭に浮かべては消す、のくり返しだった。
声にしてみるとやっぱり偶然だとしか思えない。
山本大雅、という転入生がたまたま来ただけのこと。
小説のなかでは、休み時間になってすぐ大雅は私に話しかけてくる。
そして、私たちが幼なじみであることを告げるのだ。
でも、実際にそんなことは起きなかった。
休み時間はクラスメイトに囲まれ、大雅は楽しげに話をしていた。
下校するまで、私の目を見ることも話しかけてくることもなかった。
これはただの偶然なのだと自分に言い聞かせても、すぐに違う考えが頭に侵入してくる。
小説と同じ名前で同じ転入生という偶然が起こるなんてありえるの?
ガタッ。
教室の前扉が開く音に、思わず体がビクッとしてしまった。
見ると、バスケのユニフォーム姿の優太が入って来るところだった。
ビックリした……。大雅が入ってきたかと思った。
夕日に染まる優太は、まるで燃えているみたい。
「なんでいるの?」
心配してるというより、むしろ責めるような口調の優太に口ごもる。
きっと理由を話せば、おかしい人だと思われ、今よりもっと優太は離れてしまうだろう。
「……なんでもない」
そっけない言葉を返す自分がキライ。
自分の席まで来ると、優太は机のサイドにかけてあった布バッグを手にした。
そのまま出ていくのだろう、とスマホに目を落とすけれど、なかなか足音が聞こえない。
見ると、優太は困ったような顔で私を見おろしていた。
「悠花さ、どうしたんだよ」
「え?」
「なんか、あったのか?」
心配するというより、呆れているような声に聞こえる。
「……どうした、って言われても」
「今日、ずっとヘンだったろ?」
優太は自分の机の上に腰をおろした。
本当は日葵に相談したかったけれど、『部活が忙しい』と走って行ってしまったんだよね。
誰かに相談に乗ってもらいたいと思うけれど、優太に話していいのかな……。
「長いつき合いだから、なにかあったってことくらいわかるよ」
「うん……」
子供のころ、近所の子たちとの家の境界性はあいまいだった。
どの家も自分の家のように自由に行き来していたし、なにかやらかしたときはまとめて叱られていたっけ……。
家族みたいにして育ったから、そのぶんお互いのちょっとした変化も伝わってしまう。
机の上に片足を乗せている優太を見て気づく。
「あ、それ……」
左の足首に赤いミサンガが巻いてある。
「ああ」と優太はミサンガに指先で触れた。
「なつかしいだろ」
バスケの大会の必勝祈願として、中学生のときにミサンガをプレゼントした。
刺繡用の紐を編みこんで作り、日葵は黄色のミサンガを、私は赤のミサンガを作った。
「まだ使ってくれてたんだね」
あんなに真っ赤だった糸は、薄いピンクに色を落としている。
腕につけてもらうつもりで日葵と作ったけれど、私のミサンガが長すぎたため、左足に装着されることとなったのだ。
とっくに切れたと思ってたから驚いてしまう。
「ギチギチに糸を編んでるから切れないだけ」
「あ、ごめん……」
「いいよ。あの大会ではいいとこまでいけたし。それに、これが切れたときには、もっとでっかい願いがかなうだろうし」
子猫にするようにうれしそうにミサンガをなでたあと、「で?」と優太がこっちを見た。
「なにを悩んでたわけ?」
「…………」
このクラスでちゃんと話ができるのは日葵と優太だけ。
だったら……せめて大雅と幼なじみかどうかだけでも確認しておきたい。
「あの、ね。今日転校してきた男子、いるでしょう?」
なにげなくしゃべろうとしても、やけに改まった口調になってしまう。
大雅は両腕を組んで軽くうなずいた。
「山本だろ? 女子はキャーキャー騒いでたよな。俺はまだしゃべってないんだけど」
「あの人って……その、なんていうか……」
「え? なに?」
耳をこっちに向ける優太に、大きく息を吸い込んだ。
「山本くんって、優太の知り合いなの?」
「は?」
ひと文字で答える優太に、慌てて右手を横に振った。やっぱり違ったみたい。
「ちょっと聞きたかっただけで……」
「なんで?」
「なんで、って言われても……」
しばらくの沈黙のあと、優太がわざとらしくため息をついた。
「『パラ恋』だろ?」
「え!?」
思わず背筋がシャキンと伸びてしまった。
「優太、『パラドックスな恋』を読んでるの!?」
もしも優太があの作品を読んでいたなら、今日の出来事に違和感を覚えたはず。
小説と同じことが起きていることに気づいてくれてたんだ!
思わず笑みを浮かべる私に対し、夕日に染められた優太の顔は険しかった。
「いつもそればっかり見てる、って日葵が心配してるからな。あらすじくらいしか知らない」
「あ……そうなんだ」
風船がしぼむみたいにシュンとしてしまう。
「それで?」
「……あのね、小説にも転入生が来るシーンがあるの。その転入生の名前が山本大雅でね……」
言いながら後悔している感じがした。
優太の表情がさらに険しくなっていくのがわかったから。
「マジで小説世界と混同してんのか?」
呆れたような、じゃない。呆れているんだ。
なあんだ……。てっきり優太が読んでくれているのかと思ってしまった。
優太も日葵と同じで本嫌いなことを忘れていた私が悪い。期待する気持ちにパタンとフタをした。
「ただ聞きたかっただけだから」
図星な上に見おろされている状態で、うまくごまかせるわけがない。
「普通、転入生が知り合いなんてことねえだろ」
「そうだよね。ごめん、ごめんね」
なんで謝っているのかわからないまま謝ると、優太は困った顔になってしまう。
名前と違って、最近の優太はちっともやさしくない。
常に批判されているようにすら感じてしまう。
居ても立っても居られなくなり、慌てて荷物をまとめて立ちあがった。
「おい」
「またね」
優太の脇をすり抜け、教室を飛び出す。
優太が私を呼び止めた気がしたけれど、そのまま廊下を走った。
走って走って、急いで靴を履き替えて校門の外へ飛び出す。
真っ赤に染まる校舎を背に、必死で走った。
どんな急いでも、優太の困った顔が頭からはがれてくれない。
校門を出たところでようやく足を緩める。
泣きそうで悔しくて、だけど恥ずかしい気持ちを抱えて歩く。
早く夜が来て、私の存在を隠してくれればいいのに。
それだけを願いながら、ただ足を前に進めた。
コロナの影響で遅れた授業を取り戻すため、始業式のあとも五時間目まで授業が続いた。
最初から知っていたことなのに、今日ほど時間が経つのを遅く感じたことはなかった。
ホームルームのあとトイレに走り、スマホで『パラドックスな恋』の第一章をくり返し読んだ。
誰もいない教室に戻ってからも、たしかめるように最初のシーンをひと文字ずつ確認した。
――間違いない。
芦沢先生の言ったことや、大雅が登場するシーンは小説そのまま。
大雅の見た目も小説を読みながら想像していた顔そのもの、いや、それ以上にかっこよかった。
こんなのドッキリ企画でもない限り、ありえないよね……。
自己紹介をしたあとの大雅に誰よりも興味を持っていたのは、私だろう。
けれど、ひと言も話せないまま下校時刻まで隠れるように身を小さくしてやり過ごした。
うれしさよりも怖い気持ちのほうが強かったし、話しかけられでもしたなら逃げ出していたかもしれない。
「偶然、だよね」
この言葉を頭に浮かべては消す、のくり返しだった。
声にしてみるとやっぱり偶然だとしか思えない。
山本大雅、という転入生がたまたま来ただけのこと。
小説のなかでは、休み時間になってすぐ大雅は私に話しかけてくる。
そして、私たちが幼なじみであることを告げるのだ。
でも、実際にそんなことは起きなかった。
休み時間はクラスメイトに囲まれ、大雅は楽しげに話をしていた。
下校するまで、私の目を見ることも話しかけてくることもなかった。
これはただの偶然なのだと自分に言い聞かせても、すぐに違う考えが頭に侵入してくる。
小説と同じ名前で同じ転入生という偶然が起こるなんてありえるの?
ガタッ。
教室の前扉が開く音に、思わず体がビクッとしてしまった。
見ると、バスケのユニフォーム姿の優太が入って来るところだった。
ビックリした……。大雅が入ってきたかと思った。
夕日に染まる優太は、まるで燃えているみたい。
「なんでいるの?」
心配してるというより、むしろ責めるような口調の優太に口ごもる。
きっと理由を話せば、おかしい人だと思われ、今よりもっと優太は離れてしまうだろう。
「……なんでもない」
そっけない言葉を返す自分がキライ。
自分の席まで来ると、優太は机のサイドにかけてあった布バッグを手にした。
そのまま出ていくのだろう、とスマホに目を落とすけれど、なかなか足音が聞こえない。
見ると、優太は困ったような顔で私を見おろしていた。
「悠花さ、どうしたんだよ」
「え?」
「なんか、あったのか?」
心配するというより、呆れているような声に聞こえる。
「……どうした、って言われても」
「今日、ずっとヘンだったろ?」
優太は自分の机の上に腰をおろした。
本当は日葵に相談したかったけれど、『部活が忙しい』と走って行ってしまったんだよね。
誰かに相談に乗ってもらいたいと思うけれど、優太に話していいのかな……。
「長いつき合いだから、なにかあったってことくらいわかるよ」
「うん……」
子供のころ、近所の子たちとの家の境界性はあいまいだった。
どの家も自分の家のように自由に行き来していたし、なにかやらかしたときはまとめて叱られていたっけ……。
家族みたいにして育ったから、そのぶんお互いのちょっとした変化も伝わってしまう。
机の上に片足を乗せている優太を見て気づく。
「あ、それ……」
左の足首に赤いミサンガが巻いてある。
「ああ」と優太はミサンガに指先で触れた。
「なつかしいだろ」
バスケの大会の必勝祈願として、中学生のときにミサンガをプレゼントした。
刺繡用の紐を編みこんで作り、日葵は黄色のミサンガを、私は赤のミサンガを作った。
「まだ使ってくれてたんだね」
あんなに真っ赤だった糸は、薄いピンクに色を落としている。
腕につけてもらうつもりで日葵と作ったけれど、私のミサンガが長すぎたため、左足に装着されることとなったのだ。
とっくに切れたと思ってたから驚いてしまう。
「ギチギチに糸を編んでるから切れないだけ」
「あ、ごめん……」
「いいよ。あの大会ではいいとこまでいけたし。それに、これが切れたときには、もっとでっかい願いがかなうだろうし」
子猫にするようにうれしそうにミサンガをなでたあと、「で?」と優太がこっちを見た。
「なにを悩んでたわけ?」
「…………」
このクラスでちゃんと話ができるのは日葵と優太だけ。
だったら……せめて大雅と幼なじみかどうかだけでも確認しておきたい。
「あの、ね。今日転校してきた男子、いるでしょう?」
なにげなくしゃべろうとしても、やけに改まった口調になってしまう。
大雅は両腕を組んで軽くうなずいた。
「山本だろ? 女子はキャーキャー騒いでたよな。俺はまだしゃべってないんだけど」
「あの人って……その、なんていうか……」
「え? なに?」
耳をこっちに向ける優太に、大きく息を吸い込んだ。
「山本くんって、優太の知り合いなの?」
「は?」
ひと文字で答える優太に、慌てて右手を横に振った。やっぱり違ったみたい。
「ちょっと聞きたかっただけで……」
「なんで?」
「なんで、って言われても……」
しばらくの沈黙のあと、優太がわざとらしくため息をついた。
「『パラ恋』だろ?」
「え!?」
思わず背筋がシャキンと伸びてしまった。
「優太、『パラドックスな恋』を読んでるの!?」
もしも優太があの作品を読んでいたなら、今日の出来事に違和感を覚えたはず。
小説と同じことが起きていることに気づいてくれてたんだ!
思わず笑みを浮かべる私に対し、夕日に染められた優太の顔は険しかった。
「いつもそればっかり見てる、って日葵が心配してるからな。あらすじくらいしか知らない」
「あ……そうなんだ」
風船がしぼむみたいにシュンとしてしまう。
「それで?」
「……あのね、小説にも転入生が来るシーンがあるの。その転入生の名前が山本大雅でね……」
言いながら後悔している感じがした。
優太の表情がさらに険しくなっていくのがわかったから。
「マジで小説世界と混同してんのか?」
呆れたような、じゃない。呆れているんだ。
なあんだ……。てっきり優太が読んでくれているのかと思ってしまった。
優太も日葵と同じで本嫌いなことを忘れていた私が悪い。期待する気持ちにパタンとフタをした。
「ただ聞きたかっただけだから」
図星な上に見おろされている状態で、うまくごまかせるわけがない。
「普通、転入生が知り合いなんてことねえだろ」
「そうだよね。ごめん、ごめんね」
なんで謝っているのかわからないまま謝ると、優太は困った顔になってしまう。
名前と違って、最近の優太はちっともやさしくない。
常に批判されているようにすら感じてしまう。
居ても立っても居られなくなり、慌てて荷物をまとめて立ちあがった。
「おい」
「またね」
優太の脇をすり抜け、教室を飛び出す。
優太が私を呼び止めた気がしたけれど、そのまま廊下を走った。
走って走って、急いで靴を履き替えて校門の外へ飛び出す。
真っ赤に染まる校舎を背に、必死で走った。
どんな急いでも、優太の困った顔が頭からはがれてくれない。
校門を出たところでようやく足を緩める。
泣きそうで悔しくて、だけど恥ずかしい気持ちを抱えて歩く。
早く夜が来て、私の存在を隠してくれればいいのに。
それだけを願いながら、ただ足を前に進めた。