スマホの画面に表示されている『完』の文字を確認すると、思わずため息が漏れた。
小説投稿サイトに載っている『パラドックスな恋』という作品を、もう何度も――ううん、何百回とくり返し読んでいる。
最初から全部読むこともあれば、好きなシーンのページだけ選ぶこともある。
当たり前だけど、今回もハッピーエンドでよかった。
安堵感と静かな感動は、今日から二学期がはじまるという憂鬱を少しだけ和らげてくれる。
そっと呼吸をしてみれば、この世界はなんて息がしにくいのだろう。
酸素の薄い空気は、吸うほどに気持ちを重くするようだ。
もう一度、エピローグだけ見直してみよう。
ページ数は頭に入っているから、一瞬でお気に入りのシーンまで私を連れて行ってくれる。
「悠花」
呼ぶ声に名残惜しく顔をあげると、後藤日葵が教室に入ってくるところだった。
「おはよ。あいかわらず悠花は来るのが早いね」
「あ、うん。私、人ごみが……」
「苦手なんでしょ。もう百回聞いた。ていうか、今日から二学期なんて最悪。夏休みなんて一瞬で終わっちゃったし」
どすんと前の席に座る日葵。
『パラドックスな恋』のなかで言うと『茉莉』の役に当たるのが日葵だろう。
小説と同じで私とは幼なじみだし、性格はちょっと違うけれど名前はかなり似ている。
小説のなかでは色白だった茉莉。
一方、日葵はテニス部に所属しているので肌はあめ色に焼けている。
夏休みも部活三昧だったんだろうな。
子どものころからショートの髪は今も変わらない。
もう少し伸ばせば、茉莉に近づくのにな……。
そんなことを考えていると、日葵が呆れ顔を向けていることに気づいた。
「悠花の朝のスタンダードが出てる。またぼんやりしてるっしょ」
「え、そんなことないよ」
ごまかしても、長年のつき合いだからきっとバレてる。
「そんなことある。どうせまた『パラ恋』読んでたんでしょ」
「……うん」
スマホを操作し、『パラドックスな恋』の表紙画面に戻す。
中学三年生のときにたまたま見つけたこの作品を、私ほどくり返し読んでいる人はいないだろう。
「おんなじ作品ばっか読んでて、よく飽きないよね」
ひょいと私のスマホを奪うと、日葵は画面をサラサラとスクロールさせていく。
「電子書籍だっけ?」
「小説投稿サイトだよ。たくさんの小説が投稿されているなんてすごいよね?」
「ふーん。あたしは漫画のほうがいいけどなあ。そんなにおもしろいの?」
日葵が興味を持ってくれるなんて珍しい。
このチャンスを逃してはいけない。
「読み返すたびに新しい発見があるの。昔はわからなかった感情とかが、歳を取ってから理解できたりもするし」
「歳を取る、ってあたしたちまだ十七だし。あ、悠花は十六か」
「それでも色々気づかせてくれるってこと。日葵も一度くらい読んでくれてもいいのに」
これまで何度勧めても読書嫌いの日葵にその気はないらしく、小説投稿サイトすら検索してくれなかった。
案の定、苦い顔を浮かべてスマホを返してくる。
「冗談でしょ。そんな時間があったらほかのことするよ」
日葵は恋愛が苦手だと常々公言している。
ちなみに小説は読まないけれど漫画は別で、日葵の部屋には大量のコミック本が並んでいる。
ジャンルはヒーローもの、ホラーものなどが多く、恋愛ものはひとつもない。
「日葵は恋をしないの?」
「しないしない。時間の無駄だし。その作品もタイトルからして、どうせくだらない恋愛小説なんでしょ」
「ちが……」
「片想いがかなったとか、すれ違いでさみしいとか、どうせありきたりの話にきまって――」
「そんなことないもん!」
思わず大きな声を出してしまった。
ハッとして教室内を確認すると、まばらにしか登校していないクラスメイトたちは、夏休みの話題で盛りあがっていた。
「びっくりした。悠花が大声出すなんて珍しい」
「……ごめん」
シュンと肩をすぼめる私に、日葵はカラカラ笑った。
「まあ、あたしも好きな漫画は何回も読み返すけどさ。そこまで熱中するなんてよっぽどのことだね」
ちゃんと日葵にも、私の好きな小説のことをわかってもらいたい。
前傾姿勢を取り、日葵との距離を縮める。
「主人公の通うクラスに転入生がやって来るの」
「主人公が『悠花』って名前で同じなんでしょ。それも百回聞いたし」
「でね、主人公は忘れているけれど、転入生の男子って、実は幼なじみなんだよ。その男子の記憶を思い出すたびに、悲しい運命にまた一歩近づいていくの。具体的に言うとね――」
「わかったわかったって」
大げさに両耳を手で塞ぎ聞こえないフリをする。
日葵はいつもこうだ。
小説を読まないならせめてストーリーくらい聞いてくれてもいいのに。
「悠花って普段は大人しいのに、『パラ恋』のこととなると熱くなるよね」
「そんなこと……」
「そんなことあるある。もっとほかの子ともしゃべればいいのに」
「……あ、うん」
わかってるけれど、中学二年生のころから人とうまくしゃべることができなくなった。
誰かにしゃべりかけられたらそれなりに答えるようにしているけれど、会話を続けるのは難しい。
緊張するし、自分がなにを言いたいのかわからなくなって、泣きたいような気持ちがお腹から込みあがってくるから。
誰かが私の発言に注目している状況がなによりも苦手だ。
小説投稿サイトに載っている『パラドックスな恋』という作品を、もう何度も――ううん、何百回とくり返し読んでいる。
最初から全部読むこともあれば、好きなシーンのページだけ選ぶこともある。
当たり前だけど、今回もハッピーエンドでよかった。
安堵感と静かな感動は、今日から二学期がはじまるという憂鬱を少しだけ和らげてくれる。
そっと呼吸をしてみれば、この世界はなんて息がしにくいのだろう。
酸素の薄い空気は、吸うほどに気持ちを重くするようだ。
もう一度、エピローグだけ見直してみよう。
ページ数は頭に入っているから、一瞬でお気に入りのシーンまで私を連れて行ってくれる。
「悠花」
呼ぶ声に名残惜しく顔をあげると、後藤日葵が教室に入ってくるところだった。
「おはよ。あいかわらず悠花は来るのが早いね」
「あ、うん。私、人ごみが……」
「苦手なんでしょ。もう百回聞いた。ていうか、今日から二学期なんて最悪。夏休みなんて一瞬で終わっちゃったし」
どすんと前の席に座る日葵。
『パラドックスな恋』のなかで言うと『茉莉』の役に当たるのが日葵だろう。
小説と同じで私とは幼なじみだし、性格はちょっと違うけれど名前はかなり似ている。
小説のなかでは色白だった茉莉。
一方、日葵はテニス部に所属しているので肌はあめ色に焼けている。
夏休みも部活三昧だったんだろうな。
子どものころからショートの髪は今も変わらない。
もう少し伸ばせば、茉莉に近づくのにな……。
そんなことを考えていると、日葵が呆れ顔を向けていることに気づいた。
「悠花の朝のスタンダードが出てる。またぼんやりしてるっしょ」
「え、そんなことないよ」
ごまかしても、長年のつき合いだからきっとバレてる。
「そんなことある。どうせまた『パラ恋』読んでたんでしょ」
「……うん」
スマホを操作し、『パラドックスな恋』の表紙画面に戻す。
中学三年生のときにたまたま見つけたこの作品を、私ほどくり返し読んでいる人はいないだろう。
「おんなじ作品ばっか読んでて、よく飽きないよね」
ひょいと私のスマホを奪うと、日葵は画面をサラサラとスクロールさせていく。
「電子書籍だっけ?」
「小説投稿サイトだよ。たくさんの小説が投稿されているなんてすごいよね?」
「ふーん。あたしは漫画のほうがいいけどなあ。そんなにおもしろいの?」
日葵が興味を持ってくれるなんて珍しい。
このチャンスを逃してはいけない。
「読み返すたびに新しい発見があるの。昔はわからなかった感情とかが、歳を取ってから理解できたりもするし」
「歳を取る、ってあたしたちまだ十七だし。あ、悠花は十六か」
「それでも色々気づかせてくれるってこと。日葵も一度くらい読んでくれてもいいのに」
これまで何度勧めても読書嫌いの日葵にその気はないらしく、小説投稿サイトすら検索してくれなかった。
案の定、苦い顔を浮かべてスマホを返してくる。
「冗談でしょ。そんな時間があったらほかのことするよ」
日葵は恋愛が苦手だと常々公言している。
ちなみに小説は読まないけれど漫画は別で、日葵の部屋には大量のコミック本が並んでいる。
ジャンルはヒーローもの、ホラーものなどが多く、恋愛ものはひとつもない。
「日葵は恋をしないの?」
「しないしない。時間の無駄だし。その作品もタイトルからして、どうせくだらない恋愛小説なんでしょ」
「ちが……」
「片想いがかなったとか、すれ違いでさみしいとか、どうせありきたりの話にきまって――」
「そんなことないもん!」
思わず大きな声を出してしまった。
ハッとして教室内を確認すると、まばらにしか登校していないクラスメイトたちは、夏休みの話題で盛りあがっていた。
「びっくりした。悠花が大声出すなんて珍しい」
「……ごめん」
シュンと肩をすぼめる私に、日葵はカラカラ笑った。
「まあ、あたしも好きな漫画は何回も読み返すけどさ。そこまで熱中するなんてよっぽどのことだね」
ちゃんと日葵にも、私の好きな小説のことをわかってもらいたい。
前傾姿勢を取り、日葵との距離を縮める。
「主人公の通うクラスに転入生がやって来るの」
「主人公が『悠花』って名前で同じなんでしょ。それも百回聞いたし」
「でね、主人公は忘れているけれど、転入生の男子って、実は幼なじみなんだよ。その男子の記憶を思い出すたびに、悲しい運命にまた一歩近づいていくの。具体的に言うとね――」
「わかったわかったって」
大げさに両耳を手で塞ぎ聞こえないフリをする。
日葵はいつもこうだ。
小説を読まないならせめてストーリーくらい聞いてくれてもいいのに。
「悠花って普段は大人しいのに、『パラ恋』のこととなると熱くなるよね」
「そんなこと……」
「そんなことあるある。もっとほかの子ともしゃべればいいのに」
「……あ、うん」
わかってるけれど、中学二年生のころから人とうまくしゃべることができなくなった。
誰かにしゃべりかけられたらそれなりに答えるようにしているけれど、会話を続けるのは難しい。
緊張するし、自分がなにを言いたいのかわからなくなって、泣きたいような気持ちがお腹から込みあがってくるから。
誰かが私の発言に注目している状況がなによりも苦手だ。