どうやって電話を切ったのか、どうやって家を出たのかすら覚えていない。
気づくと私は、大雅の住むマンションの前にいた。
曇り空の下、マンションは大きな怪物みたいに私を見おろしている。
足がすくみ、寒気はさっきから私の手を細かく震えさせていた。
「大雅……」
もう一度、茉莉が言っていたことを頭のなかで思い出す。
ホームルームのとき、先生と一緒に前に立った大雅が、転校することを発表したそうだ。
急な親の転勤で海外に行くことが決まった、と。
まだ引っ越してきて一か月くらいなのに、そんなことがあるの?
きっとなにかの間違いに決まっている。
サラリーマンが自動ドアから出てくるのと行き違いになかに入った。
エレベーターの『2』のボタンを押すと音もなく扉は閉まり、ふわりと体が浮くような感覚があった。
二階につき、廊下に出るとさっきよりも寒気が強くなっている。
熱のせいでぼんやりする頭で、大雅の部屋へ向かう。
インターフォンを押す前にドアが開き、知登世ちゃんが顔を出した。
「あ……」
つぶやく私に、知登世ちゃんは大きく目を見開くと、外に滑り出てドアを閉めた。
「悠花ちゃん、どうしたんですか?」
小声で尋ねる知登世ちゃんに、言葉を出そうとしたけれどその前に体がぶるりと大きく震えてしまった。
「お兄ちゃん、今日は帰ってこないんです」
「え……? 帰って、こない?」
「はい」とうなずいた知登世ちゃんはなぜかドアを気にするように視線を向けた。
「用事があるんです。学校のあとそのまま向かって、泊まってくるそうです」
ウソだ、と思った。大雅は部屋のなかにいるはず。
「転校するって本当のことなの?」
「はい。詳しい事情は言えませんが、いろいろありまして、今荷造りの最中なんです」
「そんなのおかしいよ……。だって引っ越してきたばかりじゃない。大雅はいるんでしょう?」
「いません」
かたくなな知登世ちゃんの目は左右に泳ぎ、あからさまに動揺している。
どうしよう。
無理やりドアを開けたら、それこそ防犯ブザーを鳴らされてしまうかもしれない。
だけど、だけど……。
「会いたいの。大雅に会いたい。お願い、大雅に会わせて」
「だからここにはいないんです」
必死でドアの前に立ちふさがる知登世ちゃん。
「なにか……隠しているよね? どうしてみんな私には内緒なの?」
ただ好きになっただけなのに、ただ恋をしただけなのに。
なぜ大雅との仲を引き裂こうとするの?
ガチャ。
音がして内側からドアが開かれた。
「大雅」と言いかけた言葉を途中で飲みこんだ。出てきたのは大雅のお母さんだった。
なぜだろう、小学三年生で引っ越しをしたなら覚えていないはずなのに、すぐにおばさんの顔がわかった。
長い髪をひとつに結び、前におろしているスタイルは見覚えがある。
私と知登世ちゃんの会話を聞いていたのだろう、おばさんは私を見ると、声には出さずに口のなかだけで「悠花ちゃん」とつぶやいた。
頭の奥がズキズキと痛い。
熱にうなされた私が見ている悪夢のように思えてしまう。
「悠花ちゃん大きくなったわね」
おばさんの声だ。忘れていない。あの日、おばさんは私に何度も謝っていた。
……あの日? 謝るってなんのことを?
頭痛がひどくなるなか、おばさんは知登世ちゃんをなかに入れると、静かに息を吐いた。
「本当に大雅はいないのよ」
「あの、私……」
喉がカラカラで続く言葉が出てこない。
「あの子の父親が急に海外転勤になってね。うちは昔から家族でついていくことになっているからどうしようもないの」
「転勤が決まったのは……いつのことですか?」
おばさんは迷ったようにしばらく黙ったあと、
「五日前のことなの」
さみしげに言った。
「そんな……」
だとしたら、大雅は引っ越しが決まったあと、私に告白したことになる。
返事はいつか聞かせてくれればいい、とそう言ってたのに……。
「本当にごめんなさい。本当に……」
おばさんの瞳が潤んでいる。どうして泣いているの?
ああ、私は泣いているおばさんを知っている。
小学三年生のころに、同じようにおばさんは私に泣いて謝っていた。
あの日になにかがあったんだ。
いったいなにが起きたのだろう。
「おばさん」
真冬みたいな寒さが体を覆いつくしている。
また熱があがったのかもしれない。
「大雅はまだ学校に来るんですか?」
「今日で最後なの。この土日で引っ越しをしてすぐにアメリカに渡るのよ」
そんな急な話はきっと、ない。
告白をしてくれた大雅から連絡がないのもおかしい。
今、ここでなにもせずに帰ってはいけないと思った。
「大雅に伝えてもらっていいですか?」
「ええ」
「私、ちゃんと思い出すから、って。思い出したら絶対に会いにいくから、って」
アメリカでもどこでも私は会いに行く。
そして、ちゃんと告白の返事を伝えるんだ。
大きく頭を下げてから階段で一階へ下りた。
外に出ると、ぼやける空には大きな月が浮かんでいる。
頭痛はいっそう強くなるようだ。
気づくと私は、大雅の住むマンションの前にいた。
曇り空の下、マンションは大きな怪物みたいに私を見おろしている。
足がすくみ、寒気はさっきから私の手を細かく震えさせていた。
「大雅……」
もう一度、茉莉が言っていたことを頭のなかで思い出す。
ホームルームのとき、先生と一緒に前に立った大雅が、転校することを発表したそうだ。
急な親の転勤で海外に行くことが決まった、と。
まだ引っ越してきて一か月くらいなのに、そんなことがあるの?
きっとなにかの間違いに決まっている。
サラリーマンが自動ドアから出てくるのと行き違いになかに入った。
エレベーターの『2』のボタンを押すと音もなく扉は閉まり、ふわりと体が浮くような感覚があった。
二階につき、廊下に出るとさっきよりも寒気が強くなっている。
熱のせいでぼんやりする頭で、大雅の部屋へ向かう。
インターフォンを押す前にドアが開き、知登世ちゃんが顔を出した。
「あ……」
つぶやく私に、知登世ちゃんは大きく目を見開くと、外に滑り出てドアを閉めた。
「悠花ちゃん、どうしたんですか?」
小声で尋ねる知登世ちゃんに、言葉を出そうとしたけれどその前に体がぶるりと大きく震えてしまった。
「お兄ちゃん、今日は帰ってこないんです」
「え……? 帰って、こない?」
「はい」とうなずいた知登世ちゃんはなぜかドアを気にするように視線を向けた。
「用事があるんです。学校のあとそのまま向かって、泊まってくるそうです」
ウソだ、と思った。大雅は部屋のなかにいるはず。
「転校するって本当のことなの?」
「はい。詳しい事情は言えませんが、いろいろありまして、今荷造りの最中なんです」
「そんなのおかしいよ……。だって引っ越してきたばかりじゃない。大雅はいるんでしょう?」
「いません」
かたくなな知登世ちゃんの目は左右に泳ぎ、あからさまに動揺している。
どうしよう。
無理やりドアを開けたら、それこそ防犯ブザーを鳴らされてしまうかもしれない。
だけど、だけど……。
「会いたいの。大雅に会いたい。お願い、大雅に会わせて」
「だからここにはいないんです」
必死でドアの前に立ちふさがる知登世ちゃん。
「なにか……隠しているよね? どうしてみんな私には内緒なの?」
ただ好きになっただけなのに、ただ恋をしただけなのに。
なぜ大雅との仲を引き裂こうとするの?
ガチャ。
音がして内側からドアが開かれた。
「大雅」と言いかけた言葉を途中で飲みこんだ。出てきたのは大雅のお母さんだった。
なぜだろう、小学三年生で引っ越しをしたなら覚えていないはずなのに、すぐにおばさんの顔がわかった。
長い髪をひとつに結び、前におろしているスタイルは見覚えがある。
私と知登世ちゃんの会話を聞いていたのだろう、おばさんは私を見ると、声には出さずに口のなかだけで「悠花ちゃん」とつぶやいた。
頭の奥がズキズキと痛い。
熱にうなされた私が見ている悪夢のように思えてしまう。
「悠花ちゃん大きくなったわね」
おばさんの声だ。忘れていない。あの日、おばさんは私に何度も謝っていた。
……あの日? 謝るってなんのことを?
頭痛がひどくなるなか、おばさんは知登世ちゃんをなかに入れると、静かに息を吐いた。
「本当に大雅はいないのよ」
「あの、私……」
喉がカラカラで続く言葉が出てこない。
「あの子の父親が急に海外転勤になってね。うちは昔から家族でついていくことになっているからどうしようもないの」
「転勤が決まったのは……いつのことですか?」
おばさんは迷ったようにしばらく黙ったあと、
「五日前のことなの」
さみしげに言った。
「そんな……」
だとしたら、大雅は引っ越しが決まったあと、私に告白したことになる。
返事はいつか聞かせてくれればいい、とそう言ってたのに……。
「本当にごめんなさい。本当に……」
おばさんの瞳が潤んでいる。どうして泣いているの?
ああ、私は泣いているおばさんを知っている。
小学三年生のころに、同じようにおばさんは私に泣いて謝っていた。
あの日になにかがあったんだ。
いったいなにが起きたのだろう。
「おばさん」
真冬みたいな寒さが体を覆いつくしている。
また熱があがったのかもしれない。
「大雅はまだ学校に来るんですか?」
「今日で最後なの。この土日で引っ越しをしてすぐにアメリカに渡るのよ」
そんな急な話はきっと、ない。
告白をしてくれた大雅から連絡がないのもおかしい。
今、ここでなにもせずに帰ってはいけないと思った。
「大雅に伝えてもらっていいですか?」
「ええ」
「私、ちゃんと思い出すから、って。思い出したら絶対に会いにいくから、って」
アメリカでもどこでも私は会いに行く。
そして、ちゃんと告白の返事を伝えるんだ。
大きく頭を下げてから階段で一階へ下りた。
外に出ると、ぼやける空には大きな月が浮かんでいる。
頭痛はいっそう強くなるようだ。