『あ? それ、ってのはなんだ?』
「いいだろう、ついでに手伝ってやる。この前、パトカーが接触したところがあっただろう。お前、真っすぐそこへ向かってこい。僕らは先に到着しているはずだ」
『あっ、おいコラ宮橋――』
そこで、三鬼の声が、ぷつりと途切れる。
宮橋に目で指示されて、雪弥が通話ボタンを切ったからだった。
「いいんですか? 途中なのに切っちゃって」
通信の途絶えた画面を見ていた雪弥は、目を戻しながら念のため確認した。
「問題ない。僕は、用件を言い終えた」
……いや、あなたの言い分じゃなくって、彼の言い分を聞かなくて良かったのか、と僕は確認したかったんですけど。
そう思いながらも、雪弥は宮橋の胸ポケットに携帯電話をそっと戻した。
「ついでだ、君にも仕事をさせてやろうと思ってね。言うだろ、人材と戦力は使いようって」
言いながら、宮橋が不服そうな顰め面でブレーキレバーを引っ張り、ハンドルを大きく切った。
国道で青いスポーツカーが、急カーブを切って反対車線へと移った。後ろからクラクションが鳴らされるが、宮橋は気にも留めず一気にアクセルを踏み込む。
ぐんっと加速感がした。雪弥は、助手席で揺られたのちに、こう言った。
「それ、もっと他に言葉があった気がします」
「君の気のせいだ。せっかくの現役の軍人だ、なら僕が使ってやろうじゃないか」
「はぁ。国家の、というのなら宮橋さんも同じ立場では」
「馬鹿言え、君、月にいくらもらっていると思っているんだ」
雪弥は、そう言葉を投げられて不意に、やや間を置く。
「――いくらでしょうね」
今更のように、ちょっと真剣な顔で顎に手をあてて考える。その隣の運転席でハンドルを握っている宮橋は、呆れた表情だ。
「君、ここ一番で真剣な表情だぞ。年上の先輩としてアドバイスしておく、数字はきちんと把握していた方がいい」
「はぁ、すみません。どうせ殉職したら使いようもありませんし。食べて、寝られるとこがあればいいかなって」
「後半が本音だな。君が、後先を考えているとは思えん」
ひどい言われようだ……。
その間にも、宮橋の運転する青いスポーツカーは、ぐんぐん他の車を追い抜いていた。減速することもなく、四車線の国道へと乗り上げる。
「協力してあげることにしたんですね」
雪弥が今更のように言えば、宮橋が「ふん」と鼻を鳴らした。大きく切ったハンドルを元に戻し、トラックを二台追い越す。
「まだ少し時間があるからだ。ついでの道中だしな」
「宮橋さんって、やっぱり優しいんですね」
「やめてくれ、反吐が出る」
褒めただけなのにこの反応……なんでだろうなと雪弥が思っていると、宮橋が続けて言ってきた。
「それに相手は、本物の銃を所持している」
「えっ、そうなんですか?」
「ここで止めないと、三鬼達が発見して追跡している途中、あいつの執念の追いっぷりにパニックを起こした青年達が〝誤って勢いで発砲する〟。だから先廻りで待ち伏せして、そいつらが通過するのを待つ」
「ここを通るんですか? 逃走中の強盗犯が?」
確か車とバイクが一台ずつだったなと、電話での会話を思い返す。それに語られた宮橋の推測は、やけに詳細が鮮明のようにも思えた。
「なんで分かるんですか?」
ひとまずの三鬼の下りやら、発砲される危険性やらについては脇に置いて、そもそもな疑問を雪弥は口にした。
すると宮橋が、そんなことも分からんのかと言わんばかりの目を寄越してきた。
「そんなの、〝見えた〟からに決まっているだろう」
やっぱりよく分からない人だなぁ……と雪弥は思った。
やがて宮橋は、広い国道の中央あたりの路肩で青いスポーツカーを停車させた。
「いちおう、警察車両だと分かるようにしていた方がいいのでは」
雪弥は、停めた車体のやや後ろに、三角表示板を置いただけの宮橋にそう声を掛けた。車の通りは落ち着いているとはいえ、本来は駐車禁止区域だ。
そうしたら宮橋が、背を起こして上から目線で叱り付けてきた。
「君は馬鹿か。警察関係だと分かったら、スピードを上げて逃げに入られるだろ。止めるのが面倒になるぞ」
「それ、止めるのは僕の役目なんですよね? 宮橋さんの臨時相棒(げぼく)として」
「もちろんだ。僕がそんな雑用係をやるわけがない」
確認してみたら、宮橋が当然だと言い返してくる。雪弥は困って首を首を傾げた。別に相手がスピードを上げようと、止められるのだけれど……と言いたげだ。
だが宮橋が、そのまま「ふんっ」と不機嫌そうに車体にもたれかかって、車の走行を眺めやってしまう。
質問するタイミングを逃した雪弥も、彼に習って待機姿勢で同じ方向を眺める。
時速だいたい六十キロ前後で、四車線の国道を車が走り去っていく。大きく橋状になっていることもあって、右手を見ればやや上り坂風だ。先に信号は見当たらない。
都心の熱を孕んだ風が、高速車の巻き上げた風と一緒に吹き抜けて、雪弥のブラックスーツと蒼交じりの色素の薄い髪を揺らしていった。
「――シートベルト違反が、三組」
暇で、ちらりと目で流れて行く車をチェックして呟く。
カシャン、カシャン、と雪弥の目はコンマ一秒の〝流れ〟もよく捉えた。たかが六十キロ前後だ。弾丸を目で追うよりも容易い。
「よく〝見える〟というのも、厄介なものだけれどね」
ふと、そんな呟きが聞こえて、雪弥は青いスポーツカーにもたれて立つ宮橋へ目を向けた。彼はこちらを見てはいなかった。
「君の目は、現実世界を映し出すのにとても高性能だ。僕の目も似たようなものだが、ははぁなるほど、君みたいな視界でずっとやっていると疲れるな」
「僕みたいな視界って?」
「ちょっとばかし君の視界を〝経験〟してみただけだよ。自覚がないなら、いいさ。君自身になんら負荷はないだろうし、そこは僕とは違う」
独り言のように言った宮橋が、小さく肩を竦めてみせる。ほんの少し笑った目元が、くしゃりと細められて道路を眺め続けていた。
雪弥は、ちょっと首を傾げた。んー、と深くは考えないまま直感的に言う。
「宮橋さんは、見続けるのが嫌なんですか?」
――また、やや、間があった。
「君は、呑気なのか鋭いのか、分からない子だね。知ってか知らずか、どっちともつかない質問をしてくるんだから」
こりゃ参ったねと呟いて、宮橋が西洋人のような栗色の髪をかき上げる。日差しの下に晒されたそのブラウンの目は、やっぱり雪弥にはガラス玉みたいに見えた。
「色々と見えすぎてしまってね。意識して切り替えないといけないのに、たまに忘れる――青い葉を茂らせた大きな木と、とくに怨念を鳴く顔の実が、とてもとても煩い」
一体、どちらに対して言ったのか。
それとも、またしてもただの独り言なのか。
低くなった小さな声が、流れていく車の走行音から聞こえた。落ちてきた前髪を、うざったそうに指先で少し寄せた宮橋が、指の隙間からじっとりと道路を見ている。
雪弥は、彼と同じ方向へ目を向けた。
そこには、大きな道路と流れて行く車があるばかりだ。
それなのに、雪弥はまるで、宮橋には〝全く別の風景〟でも見えているみたいだという印象をちらりと抱いた。
「ああ、そろそろだな」
また唐突に、宮橋が声を上げる。
「そろそろって、何がですか?」
「僕らが待っている〝バイク〟と〝車〟さ。今、同じデカいトラックが三台通っただろう。あのあと少しくらいに〝バイクが走ってくる光景〟だった」
見た、という表現は過去を言い表すものだ。
雪弥は、そこについて少し考えたものの、途端に「まぁいいか」と一兵として考えるのを放棄して確認する。
「それで? その逃走車たちは、いつ頃こっちに到着しそうなんですか?」
「そろそろじゃないか?」
適当な感じの口調で答えた宮橋が、同じ車線側の向かってくる方を見て「あ」と声を上げて、続けた。
「あれだ。あの400のCB。赤いヘルメットと白いヘルメットのガキが、二人乗っているだろう」
言いながら、ほらそこだと指を向ける。
雪弥としては、三十六歳だという宮橋がかなり若い容姿をしているので、なんだか彼が「ガキ」という言い方をするのが慣れない。
そう思いながら、雪弥は宮橋のいう方を目視した。そこには、二人乗りをした該当するバイクが一台あった。他の車と同じ速度で、こちらへと向かって流れてくる。
「止めればいいんですよね?」
雪弥は、スーツの袖口を整えつつ確認した。
青いスポーツカーから、宮橋が一歩離れて頷く。
「まずは止めろ。次に車が来るから、ひとまずバイクの二人は速やかに僕のところ寄越せばいい。ストレス発散の一環で、僕が拳骨を落として捕獲する」
「そんな清々しく言い切った刑事は初めてです」
「だが、軽い怪我くらいはいいが、腕なんかは折るなよ」
「そんなへましませんよ。加減します」
雪弥は淡々と答え、黒い瞳の奥をゆらりと青く光らせた次の瞬間には、動き出していた。
バイクとの距離感を捉えたまま、素早く進行方向先へと飛び出す。
唐突に、ブラックスーツの若者が前に立って驚いたらしい。隣の車線を走る車が、びくっと車体をぶれさせ、バイクの青年達が何やら叫んだ直後に急ブレーキを掛ける。
速度が減速した。これなら壊さずに済む。
雪弥は冷静に構えると、途端にバイクへと向かって走り出した。目撃した車の運転手たちが「うそでしょー!?」と車内で叫ぶ声は、届いていない。
「んぎゃあああああ一体なんだ!?」
「ばっ、バカくるな!」
二人の青年が騒ぐ。
その一瞬後、雪弥は彼らの目と鼻の先に迫っていた。バイクの頭部分を、ライトの箇所をややメキリと言わせつつ片手で掴むと、進行方向へ向けて横倒しに転ばせた。