二人の間に沈黙が流れ、萌は言葉を探す。
駿介が階段から落ちたとき、その後ろに見えた人影。その人が駿介を突き落としたのではないだろうか。しかし、それを本人に訊いてもいいのか。
難しい顔で何かを考え込んでいる駿介に、萌が声をかけようとしたときだった。保健室のドアがガラリと開き、焦った表情を浮かべた美羽が姿を現した。
「駿くん……! 階段から突き落とされたって本当!? 大丈夫!?」
息を切らし、頰が赤く染まっているところから察するに、きっと教室から走ってきたのだろう。本当に駿介のことが好きなことが伝わってきて、なぜだか萌も嬉しくなる。
「……美羽。俺は大丈夫。でも雨宮さんが俺を庇って怪我した」
「ええっ! 萌ちゃん、大丈夫? どこが痛いの?」
わたわたと慌てながら萌に駆け寄ってきた美羽は、萌のこめかみのガーゼと左手首の内出血を見て息を飲んだ。
「痛そう……。私が同じクラスならいろいろお手伝い出来るのに……」
「美羽ちゃんは優しいね、ありがとう」
萌が笑顔で言葉を返すと、美羽は嬉しそうに眉を下げて笑った。そんな二人のやり取りを黙って見ていた駿介が、ふいに口を挟む。
「なぁ美羽、お願いがあるんだけど」
その言葉に、美羽の目が輝いた。頼ってもらえるのが嬉しいのだろう。好きな人のお願いならなおさらかもしれない。
「なあに? 何でもきくよ!」
にこにこしながら首を傾げる美羽に、雑用で悪いんだけど、と前置きをし、駿介が言葉を続ける。
「階段の踊り場に、給食の食器をぶちまけてきちゃったんだよ。悪いけど片付けお願いしていい?」
「うん、もちろんだよ! すぐ行ってくるね!」
飼い主におもちゃを投げてもらった子犬のように、美羽の背中にぱたぱたと横に振れる尻尾が見えた気がした。
チワワみたいでかわいいな、と心の中で呟きながら、美羽が保健室を出て行くのを見送る。すると駿介が、ひどく真面目な顔で萌に向き合った。
「雨宮さん。変だと思わない?」
「えっ? なにが?」
「俺たちが階段から落ちたとき、周りに誰もいなかったよな?」
ドキッと心臓が跳ねたのは、駿介がバランスを崩す直前に見えた、あの人のことを思い出したからだ。
すぐに人影は消えてしまったけれど、あの場にはその人と駿介と萌以外、誰もいなかったはずだ。誰かいたならば、階段から転落した二人に駆けつけ、声をかけてくれただろう。
「……いなかった、と思う」
萌の言葉に、駿介が静かに頷く。それから黙って何かを考え込んでしまったので、萌は彼が再び口を開くのを静かに待っていた。
「…………俺さ、誰かに突き落とされたんだよ」
その事実は、予想していたことだが、言葉として聞くのはひどくショッキングな内容だった。
「……う、うん」
戸惑いながら頷く萌に、駿介は慎重に言葉を選びながら話し続けた。
「……今この瞬間まで、雨宮さんにもその事実は言ってなかった。そうだよな?」
「うん」
それは確かだ。階段で振り返ったとき、駿介の後ろに見えた人影について、萌は話していいものか迷っていたのだから。萌の目には、あの人が駿介を突き落としたように見えた。でももし勘違いだったらとんだ濡れ衣だ。だから口にするのを躊躇っていたのだ。
「じゃあなんで……美羽は、俺が階段から突き落とされたって知ってたんだ?」
ぞく、と背中に冷たい何かが走る。あの場にいたのは、駿介と、萌と、駿介を突き落としたと思われる容疑者一人。
騒ぎを聞きつけて集まって来た生徒もいなかった。それなら誰が、美羽にその事実を伝えたのだろう。
顔から血の気が引いていく。でも、と萌は震える唇で言葉を紡ぐ。
「でも、私、見たよ……。矢吹くんを突き落とした人……。美羽ちゃんじゃ、なかったよ……?」
「ん、だろうな。美羽が誰かに指示を出して、俺に怪我をさせようとしたってところだろ」
「そんな……」
どうしてそんなことをする必要があるのだろう。だって美羽は、駿介のことが本当に大好きで。それは周りから見ていても明らかな好意だったのに。
頭の中でぐるぐると回る嫌な考えを振り落とすように、ぶんぶん頭を横に振る。「頭に怪我してるんだからじっとしてろよ」と言われたが、落ち着いてなんていられない。
ソファーから立ち上がると、同時にずきっと手首が痛んだ。きっと無意識に体重をかけてしまったのだろう。さっきより腫れもひどくなっている気がする。保健の先生が帰ってきたら湿布を貼ってテーピングをしてくれると言っていたが、急用が出来てしまった。
「雨宮さん?」
「私、確かめてくる」
「…………は?」
「矢吹くんはここで待ってて」
スカートを翻し、すたすたと歩き出す。駿介が後を追ってくるが、目的地まで足を止めるつもりはない。
今度は落ちないように階段を一歩ずつ踏みしめながら上がっていく。いつの間にか昼休みになっていたようで、校舎の中は騒がしい。三階まで辿り着くと、足が震えた。ぐい、と怪我をしていない方の手を引かれ、萌は振り返った。
「雨宮さん、どこに行くつもり?」
「三年生の教室」
「犯人がそこにいるってこと?」
萌はそれには答えず、ついてこないでと突き放す言葉を紡いだ。駿介の手を振り解くと、再び歩き出した。足音で彼がまだついてきていることには気がついていたけれど、萌は一度忠告したのだ。ここから先は、彼自身が決めることだ。
緊張や手の痛み、不安に葛藤。頭の中はぐちゃぐちゃで、とてもではないが冷静ではいられない。駿介を突き落とした人を前にして、果たして謝らせることが出来るのだろうか。そんなことも、今は分からなかった。
相手が何組に在籍しているのかまでは知らなかったので、一組から順に覗いていく。一年生の赤いリボンは、三年生の教室ではよく目立つようで、からかうような言葉を投げかけられたが、萌は気にせず次のクラスに向かった。
二組にも目的の人はいなかった。もしかしたら昼休みだからどこか別の場所に移動しているのかもしれない。それでも念のため、と三年三組の扉を開けてみる。
「あ」
教室の中心。人だかりの真ん中にいるのは、見覚えのある背格好の人だった。
黒髪につり目が特徴的なその男の人の元へ行き、萌は制服の裾をくいと引っ張る。
「あの!」
「ん? 一年生じゃん、どうしたの」
萌に声をかけてきたのは、その人と一緒にいたクラスメイトだった。萌に裾を引っ張られた張本人は、萌と駿介を見比べ、嫌な笑みを浮かべる。
「矢吹と……彼女?」
駿介の表情を見ることが出来なかったのは、この人が彼の憧れの人だからだ。駿介は、フェアなプレイをするところを尊敬していると言っていた。その人が卑劣な手口で自分を陥れようとしていたと知ったら、それはどんな気分なのだろう。
「彼女じゃありません。切島先輩にお話があって来ました」
自分よりも体格のいい相手を前に、怯まずに話し続けることがどれほど難しいことか。萌は足が震えるのをぐっと堪えて、切島を見上げる。
「あれ、よく見たらかわいいじゃん。何、告白なら大歓迎だけど」
くい、と顎を持ち上げられて、全身が強張る。同時にぱちんと乾いた音がして、すぐに解放された。駿介が切島の手を叩き落としたのだと理解するのに、数秒かかった。
「…………生意気だな、矢吹」
「すみませんね、可愛げがない後輩で」
おそるおそる駿介の顔を盗み見ると、ショックを受けた様子はなく、真っ直ぐに切島を睨んでいた。
そのことに少しだけ安心し、萌はもう一度深く息を吸い込む。
「切島先輩、矢吹くんにしたこと、謝ってください」
「…………は?」
驚いたような声を上げたのは、駿介だった。でも萌の目的は最初からこれだ。切島に自分のやったことを認めさせる、そして駿介に謝ってもらう。
握った切島の制服の裾をぎゅっと引っ張り、もう一度言葉を繰り返す。
「矢吹くんに、謝ってください!」
「…………何? 切島、お前後輩に何かしたの?」
「いや? 何も?」
しれっと否定する言葉に、お腹の底から怒りが湧き上がってくる。しらばっくれるつもりなのだ、目撃者が誰もいないのをいいことに。
謝らせる方法、いや、その前に自分のしたことを認めさせる方法は……。
萌の頭に浮かんだのは、保健室を出る前に駿介が口にした言葉だった。
『じゃあなんで……美羽は、俺が階段から突き落とされたって知ってたんだ?』
そうだ。本来なら現場にいた当事者しか知り得ない事実を、切島本人に言わせる。これしかない。
萌は唇を噛み、頭をフル回転させる。
「矢吹くんが階段から突き落とされたんです。犯人、切島先輩ですよね」
教室内がざわつく。きっと切島は、クラスでも好青年を演じているのだろう。まさか切島くんがそんなことするわけないよねぇ、と三年の女子が笑う声も聞こえてくる。
刺すような視線に、居た堪れなくなる。それでも逃げるわけにはいかない。卑怯な手を使って、駿介に怪我をさせようとした人を、野放しにしておくことなんて出来ない。放っておけばまた同じことをするかもしれない。今度は大怪我をしてしまうかも。
三年生に楯突くことよりも、友人が怪我をしてしまうかもしれないという恐怖の方が大きい。萌は引かなかった。
「矢吹くんが犯人を見てたんです。言い逃れは出来ないですよ」
隣で駿介が息を飲むのが分かる。これは賭けだ。
本当は犯人を目撃したのは萌である。そのことは、切島本人も分かっているはずだ。あえてミスリードすることで、彼に本当のことを話させる。それが萌の作戦だった。
切島の目から温度が消え、舌打ちが聞こえる。周りの三年生が、切島? と問いかけるが、男は萌のことをまっすぐ睨んでいる。
「適当なことを言ってくるんじゃねぇよ」
「適当じゃないっすよ。俺はちゃんとあんたの顔を見ました」
萌の嘘に、駿介が乗ってくれる。思惑に気がついているのかまでは分からない。それでも今はその援護がありがたかった。
周囲で「切島くんが後輩を突き落としたってこと?」という声が上がり、切島の怒りのボルテージが上がるのが分かった。
「証拠は?」
「だから、矢吹くんが突き落とされる瞬間、切島先輩の顔を見たって……」
「二人で口裏合わせて俺を嵌めようとしているようにしか見えないんだけど?」
俺に試合で勝てないからって随分と卑怯な手を使うんだな、という言葉に、怒ったのは駿介ではなく萌の方だった。
「卑怯な手を使ったのはそっちでしょ!? 矢吹くんにレギュラーを取られるのがこわいからって、怪我までさせようとして!」
「だから証拠はあるのかって訊いてんだよ!」
ヒートアップする二人を宥めるように、駿介が身体を割り込ませる。いつ殴られてもおかしくないような状況に、身体が震えそうになるのを必死で抑えながら萌は言葉を紡ぐ。
「アリバイはあるんですか? 矢吹くんが突き落とされた時間! 切島先輩が一人になってないって証明できます?」
萌の言葉に、切島が眉をひそめる。しかし躊躇いなく「あるよ」と言い切ってみせた。
「給食の時間は教室で普通に飯食ってたし、片付けの時間も一回トイレで席を立っただけだ。その短時間にピンポイントでお前たちが放送室から出てくるタイミングに合わせられるわけないだろ」
しん、と教室が静まり返った。切島は急変したクラスの雰囲気に気が付き、眉を寄せる。なんだよ、と呟いた切島の言葉に、反応したのは萌や駿介ではなく、切島のクラスメイトだった。
「……給食の時間なの? 昼休みじゃなくて?」
昼休みが始まってから、三十分が経とうとしていた。何より、生徒が給食の時間に教室の外を出歩くことは基本的に禁止されている。誰もが皆、駿介が階段から突き落とされた事故は、昼休みに入ってからの出来事だと思っていたはずだ。そう、犯人以外は。
切島が青ざめていくのを眺めながら、萌は追い討ちをかける。
「矢吹くんが放送委員だってことは別に知っていてもおかしくないです。同じ部活の先輩なんですから。でもどうして初対面のはずの私が、放送委員だって分かったんですか? 最初に私のこと、矢吹くんの彼女かって訊きましたよね。普通なら、クラスメイトか彼女か、そういう関係を想像すると思うんです」
でも切島は、駿介達が放送室から出てくる、という言い方をした。それは、駿介と萌が同じ放送委員だと知っていたからだ。ではなぜ知っていたのか。見ていたからだ、放送室から二人が出てくるその瞬間を。
「タイミングは、美羽から聞いたんじゃないですか? 放送が終わるのは昼休みの始まる五分前。片付け間に合うの? って今日美羽から質問されたんすよ」
駿介の言葉に、萌は目を見開く。あらかじめお昼の放送が終わるタイミングを知っていたなら、それに合わせてお手洗いに行くと嘯き、教室を出ることも可能だろう。
一つ分からなかった謎が解けてすっきりすると共に、本当に美羽がこの事件に関わっていたのだと確信し、胸の奥がずきんと痛む。駿介のことを好きだと言っていたのに、どうして。
「俺には謝らなくていいです。俺は結果的に怪我してないし、今日の試合で切島先輩に一泡吹かせますから」
「矢吹てめぇ生意気な口をきいてんじゃねぇよ」
「でも雨宮さんには謝ってください。関係ないのに巻き込まれて、怪我をしたんですよ」
驚いて駿介の顔を見るが、彼はまっすぐ切島を見つめている。その瞳に怒りの色が見えて、萌は静かに息を飲んだ。
「……知らねえよ! そいつが勝手に飛び出してきたんだろ」
「推理ドラマで追い詰められた犯人が、犯人しか知り得ない情報を喋っちゃうことあるじゃないですか。あれを見るたびに間抜けだなぁって思ってたんですけど」
今の切島先輩、まさにその状況ですね。と駿介が嫌味たっぷりの言葉を吐く。顔を真っ赤に染めた切島が、怒りに震えながら拳を握ったときだった。
「そこまで!」
凛とした声が響き、精悍な顔つきの男が、切島と駿介の間に割って入る。
部長、と矢吹が呟いたことで、その人がバスケットボール部の部長なのだと萌は理解する。話は全て聞いていた、と低い声で紡いだ後、切島を睨みつける。
「切島と矢吹には後で詳しく話を聞かせてもらう。それからそこの一年女子」
「は、はい!」
唐突に名指しされ、萌は背筋をぴんと伸ばす。それくらい威圧感のある声だったのだ。
「手が痛そうだからすぐに保健室に行ってこい。それと勇気のある行動だった、ありがとう」
どうしてバスケ部の部長にお礼を言われたのか分からず、萌は首を傾げる。そんな萌の右手を引いて、駿介が戻るぞ、と短く呟いた。
保健室へ戻りながら、駿介と静かな会話をした。
「矢吹くんが犯人を見たって言ったこと、乗っかってくれてありがとうね」
「ん。矢吹に見られたはずはない、とかそういう墓穴を掘る方向に話を持っていきたかったのかなと思ったから」
察しが良くて助かる。駿介があの場面で話を否定していたら、きっとこの作戦はうまくいかなかっただろう。
切島のフェアなプレイに憧れると言っていた駿介は、今どんな気持ちなのだろうか。卑劣な手口で駿介を陥れようとしたことを、裏切られたような気分になっているかもしれない。
そう考えたらいてもたってもいられなくなり、考えのまとまらぬまま萌は再び口を開く。
「あ、あのね! 切島先輩のしたことは……その、ひどいことだし、許されないことだと思うけど……その……好きなこと…………バスケに対して真摯に向き合ってたのは、本当なんじゃないかなぁ」
いや、バスケに対して真摯に向き合っている人は、ライバルを試合の外で蹴落とそうとしたりはしないか。
そんなことを心の中で突っ込みながら、それでもなんとかフォローをしようとあれこれ言葉を並べてみるが、どうにも上手くいかない。
萌が頭と言葉を駆使して、必死に駿介を励まそうとしているのに、当の本人は目を丸くして口をぽかんと開けている。間の抜けた表情とはまさにこのことだ。
「えーっと、矢吹くん?」
「…………ふっ、ふははは! 雨宮さんって変なやつだな!」
「えっ!? 急に失礼なんだけど!」
こっちは心配して言っているというのに、と頰を膨らませると、笑い転げていた駿介が涙目で萌に謝る。
「あーごめんごめん、今のは褒め言葉」
「どこが!?」
「俺が今まで出会った中で一番って言ってもおかしくないくらい、変わってて、…………そんで優しい」
優しい。その言葉に、ぐ、と言いかけていた言の葉を飲み込む。さっきのはどうやら言葉足らずだったらしい。
保健室の扉の前で立ち止まり、駿介が初めて見るやわらかい笑みを浮かべてみせた。
「うん、そうだな。決めた」
決めたって何を? と萌が問いかけようとしたそのときだった。勢いよく保健室の戸が開き、かわいらしい少女がひょこりと顔を出す。
「駿くん! 萌ちゃんも! どこに行ってたの?」
先程切島との間にあったいざこざも、黒幕が美羽であると二人が気づいていることも、美羽は知らない。
いっそ恐ろしく感じるほどに、美羽は無垢に見える笑みを浮かべていた。
萌の背中に冷や汗が伝う。このかわいらしい女の子が、本当に先の事件を操っていたのか。そのことが未だに信じられず、それでも一抹の不安を感じて、じり、と後退りしてしまう。
そんな萌に気づいているのかいないのか。駿介が表情の抜け落ちた顔で、美羽の名前を呼ぶ。
「美羽、二人きりで話がしたいんだけど」
言葉だけを掬いとるならば、ロマンチックともとれる台詞。でもそういう内容でないことは、きっと美羽にも伝わったはずだ。彼女に呼びかけるその声色は、付き合いの浅い萌にも分かるほど、冷たく突き放すようなものだったのだから。
大きな瞳をまたたかせ、どうしたの? と問いかける美羽に、駿介は行くぞ、と声をかけて歩き出した。同時に予鈴がなったけれど、気にする様子もない。
授業始まっちゃうし……何より美羽ちゃん大丈夫かな。
そんな心配をしながら、二人の後ろ姿を眺める。するとふいに振り返った駿介が、怒っていることを忘れさせるような笑みを浮かべてこう言った。
「雨宮さんは怪我してるんだから保健室で休んでろよ? あと、もし早退せずに放課後までいるなら、試合、見に来て」
またな、と手を振る彼に、反射的に手を振り返す。痛めている方の手を上げてしまったため、痛みに蹲ることになったけれど、顔を上げる頃には二人の姿はもうなかった。
その日、萌が早退することはなかった。無理を承知で両親に連絡をしてもらったが、案の定どうしても手放せない仕事があると言われてしまったのだ。
なんとなく教室に戻る気分にはなれず、だからといって誰もいない家に一人で帰るのも、今日ばかりは憚られて、保健室で寝かせてもらっていた。
腫れた手に湿布を貼り、ぶつけて出血していた頭ももらった氷で冷やしているうちに、少し痛みは引いてきた。
これなら手はともかく、頭の怪我の方は問題なさそうだ、と思っていると、見透かされてしまったのか、保健医から「ちゃんと病院には行くのよ」と念を押されてしまう。
「でも今日はお父さんもお母さんもいないし」
「さっき電話したとき、明日なら大丈夫って言っていたんでしょう? 学校を休んでもいいから、病院に行きなさい」
優しくやわらかい声で、それでいてはっきりと指示を出す言葉に、萌は「はぁい」と返事をした。
それから時計を見て、もう部活動が始まる時間だということに気がついた。
「先生」
「なに、そろそろ帰る?」
「えっと、部活に行ってきていいですか。自分の部活じゃなくて、見学なんですけど……」
保健医は猫のような目を少し細め、意地悪な笑みを浮かべる。
「あら。もしかしてお昼に一緒に来てた矢吹くん?」
「…………そ、そうですけど」
「いいわねぇ、青春!」
行ってらっしゃい。もう怪我しないようにね、帰るときは一声かけてね。
並び立てられた言の葉は、どれも萌を心配するものばかりで、胸の奥がくすぐったくなる。
「行ってきます!」
そう言って保健室を飛び出した。背中の向こうで「怪我人は走らない!」と注意する声が聞こえたが、今だけは無視してしまおう。
駿介に、訊きたいことがたくさんあった。
美羽ちゃんに何て言ったの? ケンカにならなかった? 泣かせたりしなかった? ちょっと時間が経ったけど改めて、矢吹くんは痛いところとかない? バスケの試合は予定通り行われるの?
切島先輩に、勝てる?
最後の問いかけが頭を過ぎる頃に、体育館に着いていた。バスケットボール部やバレー部と思わしき人達がそれぞれ準備運動をしている。その中に黒髪つり目のあの人がいて、萌の喉がひゅっと鳴った。
お昼に見たときと印象が違うのは、腫れ上がった頬のせいだろうか。もしかしてあの後部長に殴られたりしたのかもしれないと考えて、悪いことは何もしていないはずなのに、罪悪感が頭をもたげた。
うるさく騒ぐ心臓を落ち着かせるために深呼吸。それからゆっくり体育館の二階のギャラリー席に向かう。周りを見渡してみても、そこに美羽の姿は見受けられなかった。
「雨宮さん」
どこかで聞いたことのある声が響き、萌は振り返る。クラスメイトの山下がそこに立っていた。
「あれ、山下くん。部活?」
バスケットボールを抱えているので、きっと駿介は切島と同じくバスケ部員なのだろう。委員会決めのときに少し会話をしただけなので、彼の所属する部活動までは知らなかった。
「うん。その……怪我したって聞いたけど、大丈夫?」
「ああ、そうだよね。授業休んじゃったから……。大丈夫だよ、ちょっとした怪我だから」
心配してくれてありがとう、と笑うと、山下の頰が赤くなる。その意味が分からないほど鈍感ではないけれど、どう反応していいのか分からなくて言葉に詰まってしまう。
「やーまえーもん」
「駿介!?」
流れていた沈黙を破ったのは、萌でも山下でもなく、萌に試合を観戦するように誘った駿介だった。
困っているのを見かねて助けてくれたらしい。一階のコートからこちらを見上げる彼は、早く降りてこいと山下に言葉を投げかける。それに応えるように、山下が「お大事にね」と言ってコートへ戻って行ったので、萌はほっと息を吐いた。
レギュラーをかけた試合は、白熱したものになった。ルールが曖昧な萌でも分かるくらいの接戦。三年の切島に、一年の駿介が食らいついている。
一方が点を取れば、もう一方はスリーポイントシュートで巻き返す。リードをされた駿介のチームは、パスを上手く回して切島がボールに触れないようにしていたが、それにも限界がある。パスカットをされ、あっという間に切島の手に渡ったボールは、するりとゴールへ吸い込まれていった。
気がつけば萌は、じんじんと痛む手首を無視して、祈るように手を組んでいた。頑張れ矢吹くん、とこぼれ落ちた声に、一瞬、ほんの一瞬駿介の動きが止まり、視線がこちらを向く。
聞こえたはずなんてないのに。どうしてか目が合った。それからなぜか駿介は小さく笑みをこぼし、また真剣な表情で切島に向き合った。
ボールを持つ切島に、駿介が張り付くようにディフェンスをかける。それは一瞬のやり取りだった。瞬きをしたら見逃してしまいそうな、わずかなフェイント。間違いなく駿介はそれに反応していた。でも、フェイントに引っかかった駿介の横を、切島が抜こうとしたときだった。バシン、と大きな音がしてボールが駿介のチームのポイントガードの方へと飛んでいく。
「えっ」
思わず萌の口から声がこぼれた。
駿介は背面でボールをカットしたのだ。狙ってポイントガードの方に弾いたのか、はたまた偶然かは分からない。それでも試合の流れは間違いなく駿介達の方に向いていた。
切島を振り切り、駿介がコートを走る。汗が滴り、息も切れているように見える。それでも駿介は足を止めなかった。
くるり、と身体の向きを変え、よく通る駿介の声が体育館に響く。
「パス!」
切島はまだ追いついていない。駿介の手にボールが渡り、ほとんど同時に切島が追いつく。
しかし、今度は駿介の番だった。
流れるように挟み込まれる美しいフェイント。そして、釣られた切島を嘲笑うかのようなシュート。ゴールリングにボールが当たり、くるくるとリング上を回った後、すとんとリングの中へ落ちていった。
あたりがざわめくのが分かった。切島を抜いてゴールを決めることが、どれだけ難しいのか。周りの反応がそれを教えてくれる。
すごい、矢吹くん、すごい……!
痛む手を握りながら、萌は視界がじわりと滲む気がした。
それからも接戦は続いた。それでも最後に勝ったのは、駿介のいるチームだった。駿介が切島を抜いてゴールを決めたときから、試合の流れは決まっていたのだ。
試合終了のホイッスルが鳴り、両チームからありがとうございました、という声が上がる。そのすぐ後に、駿介がチームから抜け出して二階まで駆け上がってきた。
「雨宮! …………さん!」
「ふふ、なにそれ。いいよ、呼び捨てで」
「じゃあ雨宮。勝ったよ、俺」
「うん、見てた」
おめでとう、すごいね、矢吹くん。
そう言うと同時に、ぽろ、と涙がこぼれ落ちる。意思に反してこぼれた涙は止まらなくて、萌は慌てて左手で拭おうとするが、駿介に腕を掴まれて止められる。
「こら、怪我してるんだからこっちは使うなよ」
「うう……忘れてた……」
試合中も痛みなんて忘れるくらい、ぎゅっと手を握っていたのだと話すと、駿介は眉を下げて笑った。
「バカだなぁ、雨宮は」
「えっ、ひどい」
「バカだけど、めちゃくちゃ優しい」
そう言って笑う駿介の表情が、驚くほどやわらかかったので、萌は息を飲む。
今日はよく褒められる日だ、駿介限定で。
優しいかどうかは、自分ではよく分からない。それでも友達にそう思ってもらえたという事実が、何よりも萌を喜ばせた。
そんなことを考えていたときだった。つい、と駿介の指先が萌の涙をすくう。そのキザな行動に萌は口をぽかんと開け、固まってしまう。
「な、な、なに…………」
「なにって泣いてるから」
「ひええ……矢吹くんは本当に距離感どうなってるの!?」
放送室でもこんな会話をしたなぁ、と頭の中で考えながら、駿介に文句を言っているうちに、いつのまにか涙は止まっていた。
保健室に戻った後、母が迎えに来るまでの間、駿介が一緒に待っていてくれた。別に一人で大丈夫だよと断ったのだが、「俺のせいで怪我させちゃったんだから謝らせて」と言って聞かなかったのだ。意外に頑固なところがあるらしい。
保健医は職員会議でいなくなってしまったので、保健室には駿介と萌の二人きりだ。
萌はずいぶん迷った後に、静かに口を開いた。
「……矢吹くん、質問してもいい?」
「ん? なに、分からないことでもあった?」
「ううん、違うの。美羽ちゃんのこと」
萌がそう言うと、駿介の顔が分かりやすく曇った。話したくないということだろうか。ここで聞くのをやめることも出来る。でも、萌はそうしなかった。
付き合いは浅くても、萌にとっては美羽も駿介も、友達だったからだ。
「美羽ちゃんに何て言ったの? 泣いたりしてなかった?」
「怪我させられたのは雨宮だろ? なんで美羽の味方なわけ?」
少し不満気な声をこぼす駿介に、萌は静かに首を振る。
美羽のことは友達だと思っている。だからといって、無条件に庇うつもりもない。
「今回の事件、美羽ちゃんが本当に指示していたんだとしたら味方をする気なんてないよ。矢吹くん、大怪我をするところだったんだから。……でも私、まだ本当のことを聞いていないの」
だから、教えて。
萌の呼びかけに、駿介はしばらく言葉を返さなかった。しかし、萌に引く気がないのが分かったのか、大きなため息をこぼした後肩をすくめてみせた。
「……美羽が言うには、俺が怪我をして今回の試合に出られなければ、バスケ部を諦めてくれると思ったんだってさ」
バスケットボール部でレギュラーが取れなかったならば、もう一つの得意種目、サッカーを選んでくれるかもしれない。そうしたら、美羽がマネージャーとして同じ部活に入ることが出来る、と。
あまりに突拍子のない発想に、萌はただ呆然とすることしか出来なかった。
「仮にそんなこと思いついたとしても、普通実行するか? そもそも俺が怪我をしたとして、それが足だったらサッカー出来ねえのに」
バカだよなぁ、美羽のやつ。と言って、駿介は悲しそうに笑った。
その表情に怒りや呆れよりも、落胆が含まれていることに気がつき、萌は思わず問いかける。
「……もしかして、矢吹くんって美羽ちゃんのこと、好きだったの?」
「ん? まあ、恋愛としては対象外だったけど、あれだけ懐かれてたらな。妹みたいに思ってたかな」
飼い犬に手を噛まれるってこんな感じかもな、と自嘲する駿介に、下手くそな言葉を並べることしか出来ない。
「美羽ちゃんは……やり方はおかしかったけど、矢吹くんのこと本当に好きだったと思う。見ていてすごく幸せそうで、大好きっていうのが伝わってきたし……うーん、難しいけど」
萌が頭を悩ませていると、駿介がふいに意地悪な笑みを浮かべてみせる。
「へぇ? 美羽って俺のこと好きだったんだ? 知らなかったなぁ」
駿介のその言葉に、萌の顔から血の気が引く。
「えっ…………えっ! ごめん! 嘘! 今のなし!」
慌てて先ほどの言葉を撤回するが、もう遅い。真っ青になりながらどうしよう、と呟く萌を見て、駿介が噴き出した。
「冗談。さすがに気づいてるし、今日直接言われたから知ってるよ」
焦った。本当に焦った。
美羽が直接告白していないのに、勝手に想いを伝えてしまったかと思った。もしも今日美羽が告白していなかったとしたら、最大級のやらかしである。
もう余計なことは言わないでおこう。口は災いの元。喋るから墓穴を掘るのだ。
ぎゅっと口をつぐんで黙り込んでいると、駿介がそれに気付き、けらけらと笑って見せた。
翌日、萌は学校を休んで病院に行った。左手首は捻挫、しばらく安静にしていること、と言われてしまい、部活動に支障が出てしまいそうだ。頭の怪我の方は軽い打撲で、念のため検査をしたけれど特に問題なし。
半日以上病院に時間を取られてしまったけれど、捻挫だけで済んでホッとした。もっと大きな怪我だったら、きっと駿介は自分を責めてしまうだろうから。
そんなことを考えながらベッドでごろごろしていると、知らない番号からスマートフォンに電話がかかってくる。いたずら電話だろうか。電話が切れるのを見守るが、切れるとほぼ同時に再び同じ番号からの着信。
萌は少し悩んだ後、通話ボタンをタップした。
「…………もしもし?」
『雨宮? 矢吹だけど』
「矢吹くんかぁ。知らない番号からだったから出るの躊躇っちゃったよ」
『だろうなと思って連続でかけてやった』
それなら知り合いからだって分かると思って、と電話口で笑う声は、機械を通しているからか、いつもよりも低い気がする。
『怪我、どうだった?』
早速本題に入るあたり、きっと授業中もずっと気にしてくれていたのだろう。なんだか申し訳ない気持ちになって、萌は少しだけ声が小さくなってしまう。
「頭の怪我は問題なかったよ。左手首は捻挫だって」
でも若いからすぐ治るよ、ってお医者さんが言ってた、と笑ってみせると、電話の向こうでそっか、と低く呟く声。
「…………矢吹くんのせいじゃないからね?」
念押しするように言葉を紡ぐと、駿介が息を飲むのが分かった。きっとまさにそのことを考えていたに違いない。
昨日の放課後も、萌の母に「俺のせいで怪我をさせてしまいました、すみません」と頭を下げていたくらいだ。かなり自分を責めているのだろう。
でも、駿介だって被害者で。そもそも萌が怪我をしたのは、勝手に萌が飛び出したからだ。本当に彼は何も悪くない、少なくとも萌はそう思っている。
暗くなってしまった雰囲気を変えようと、萌は出来るだけ明るい声で違う話題を持ち出した。
「それより矢吹くん!」
『ん?』
「結果ってもう出たの? レギュラーの!」
『あー、出たらしいな。やまえもんに勿体無い勿体無いって散々嫌味言われたわ』
「…………? どういうこと?」
電話であることを忘れて萌は首を傾げる。
どこか他人事のような口調も違和感があるし、何より勿体無いというのはどういう意味だろう。
萌の質問に、駿介は予想のはるか斜め上の回答をしてみせた。
『いや、バスケ部辞めて吹奏楽部に入ったんだよ。雨宮と同じトランペット。よろしくな』
「………………えっ、ええええええ!? な、なんで!? なにそれ!?」
言ったじゃん、決めたって。と言われた言葉に、保健室の前で駿介が呟いたことを思い出す。「うん、そうだな。決めた」と、確かそんな一言だった。なにを? と萌が訊く前に話は終わってしまったけれど、まさか吹奏楽部に入るということだったのだろうか。
「えっ、だってせっかくバスケ……えええ、勝ったのに!?」
『勝つのは絶対条件。セコい手を使ってきた切島先輩に、バスケで正々堂々勝ってギャフンと言わせて。そしたらレギュラーになれてもなれなくても、バスケ部は辞めて雨宮と同じ部活に入るって決めたから』
なにそれ……と言葉を失った萌に、駿介はからりと笑う。そして、まあ見てろって、と言った。
『いつか雨宮が、矢吹くんと一緒にトランペットが出来てよかったって言うくらい、上手くなってみせるからさ』
頑固なところも、ちょっぴり自信家なところも、どうしてか憎めない。萌は「矢吹くんは私のことを変わっているって言ったけど、矢吹くんも十分変だよ」と笑って、一緒に頑張ろうね、と新たに出来た友達、もといチームメイトに声をかけるのだった。
高校二年、秋。
夏の吹奏楽コンクールも終わり、三年生が引退した新しい部の雰囲気にも少し慣れてきた頃、顧問の教師からソロコンテストの話が持ちかけられた。
出場したいやつはいるか、という問いかけに、示し合わせたかのように全員が黙り込む。吹奏楽はあくまで団体競技。ソロコンテストのような個人技になると、また別種の技術が求められる。
昨年も確か同じような流れで、木管楽器から二人ほど先輩が名指しされ、オーディションをやったはずだ。どちらの先輩もソロで演奏しても文句なしの技量があり、接戦の末、クラリネットの先輩が出場することになったのだ。
そんなことを考えていると、顧問が大きなため息をこぼす。びくりと思わず肩が震えたのは、機嫌が悪いことを察してしまったせいである。顧問の塚内は元々トロンボーン経験者であり、奏者としても指揮者としても腕は確かである。
ただ、怒るととてもこわいのだ。合奏でトランペットパートが止められるたびに、怒鳴られるのではないか、と萌はいつもヒヤヒヤしている。
塚内は指揮台の上で持っていた資料をぱらぱらとめくり、それからこちらを向いた。
嫌な予感が背中を駆け上がるが、逃げ場などどこにもなかった。
「じゃあ今年もオーディションをやるぞ。トランペットパート、矢吹駿介」
「はい」
「同じくトランペット、雨宮萌」
「は、はい」
立候補者がいなかったときから、なんとなくそんな気はしていた。しかし、オーディションの相手が駿介だとは想像していなかった。
中学校で吹奏楽部に入部し、初心者としてトランペットを始めたときは、他の楽器の方がいいんじゃないかと本気で心配していたくらいなのに。気がつけば、萌とともにソロコンテストのオーディションを受ける資格を得るほどに、上手くなっている。
トランペットを始めたのは萌の方がずっと先なのに、目を見張るほどの成長を遂げている駿介に、焦りを感じることもある。
「曲は二人とも『愛の挨拶』な。後で譜面を取りに来い。十日後の部活後に全員の前で発表してもらうから練習しておくように」
はい、と駿介と萌の声が重なる。顧問が音楽室を出ていくのとほぼ同時に、一年生達が歓喜の声を上げた。
「ソロコンの候補者が二人ともトランペットパートから出るなんてすごい! なんだか私まで誇らしいですよ!」
「えええ……ありがとう……? 期待に応えられるように頑張らないと」
自信のなさが声に滲み出る。それでもかわいい後輩達が応援してくれているなら、頑張らないと。そんな気持ちで微笑むが、隣に座る駿介の顔が険しいことに気がついた。
「矢吹くん……?」
萌の呼びかけに、駿介はハッと我に返ったように笑みを浮かべる。
「ん? どうした?」
「あ、ううん。なんていうか……難しい表情してたから、大丈夫かなって」
萌が覗き込むと、駿介は手をひらひらと横に振り、大丈夫と繰り返した。
「俺のことより、雨宮は自分の心配しないと」
駿介の言葉の意味が分からず、萌は首を傾げる。するとどこか自信に満ちた表情で、駿介が言葉を続ける。
「今まではオーディションとかで雨宮に勝てた試しがないけど、今回は俺が勝つよ」
「…………っ! わ、私だって負けないよ!」
萌はオーディションに勝つ自信なんてないが、負けず嫌いだ。だからこそ少し強い言葉で虚勢を張ってみせる。たとえ相手が人一倍努力家な駿介だったとしても、負けていい理由にはならない。
「そうこなくっちゃ」
楽しそうに笑う駿介とは対照的に、萌は手に汗を握りながら、「絶対勝つもん」と自分に言い聞かせるように呟くのだった。
『それは萌が不利なんじゃない?』
月に一度のスマートフォン解禁日。陸はわざわざ萌に電話をしてきてくれた。おばさんに連絡しなくていいの? と訊くと、母さんにはこの間帰ったときに説明した、と答えが返ってくる。
はたして何を説明したのだろう。まさか、お隣の萌にプロポーズしたからスマホ解禁日は母さんじゃなくて萌に電話するね、だなんて言っていないといいけれど。陸は優しい性格をしているので、きっとこんな言い方はしない。
でも、萌にプロポーズしたことくらいは話していてもおかしくない。そうだとしたら、次に陸の母と顔を合わせたとき、気まずいことこの上ないのだがどうしたものだろうか。
そんなことを考えていると、陸が電話口で萌の名前を呼ぶ。
「あっ、ごめん! ちょっと考え事してた」
『うん、いいけど。さっきの話、萌は恋とか愛とかそういうのに鈍いから、不利な気がするけどなぁ』
鈍くないよ、と頰を膨らませて抗議するが、陸にはスルーされてしまう。
『なんだっけ、曲名。愛の……』
「愛の挨拶」
『どんな曲か知らないけど、曲名から察するに愛の曲なんでしょ?』
曲が分からないという陸のためにメロディーラインを口ずさむ。ああ、知ってるや、と陸が小さく笑った。萌もつられて笑いながら、技術的には難しくないんだけど表現力が問われる曲なの、と説明した。
「愛を音で表現って言われても難しいよね」
自分なりに曲想を練ってみたりしたが、なかなかしっくりこない。焦る気持ちがため息になって溢れ出ると、陸がまあまあ、となだめてくれる。
『でも矢吹? だっけ? あいつは得意なんじゃない? この曲』
「えっよく分かるね! そうなの、もうすでに上手いの!」
駿介の音は、いつも力強い。トランペットに相応しい響きを持っているが、それでいて少し強すぎる部分がある。
でもなぜだろう。今回の『愛の挨拶』に関しては、駿介の音は力強さの中にやわらかさと優しさが含まれているような、そんな響きをしているのだ。すでに歌い方まで研究しているようで、二歩も三歩も先を行かれているような状態である。
『言ったじゃん、萌は恋とか愛とかに鈍いから不利だって』
「…………そうすると矢吹くんは……」
言いかけて、やめた。
駿介は恋や愛を理解して、音に落とし込んでいるのかな、と。
なぜだかは分からない。でも、口に出したら寂しい気持ちになる気がしたのだ。
『あ、萌ごめん。そろそろ時間だ』
「あっううん! こっちこそごめんね、私の話ばっかり!」
せっかくの電話なんだからもっと陸ちゃんの話を聞けばよかった、と呟く萌に、彼は優しく笑う。
『萌のそういうところ、好きだよ』
「えっ」
『またね、おやすみ』
少しの余韻を残して、ぷつりと切れた電話。最後に残された言葉に頰が熱くなるのを感じながら、「どういうところ……?」と萌は一人暗い部屋の中で呟くのだった。