その日、萌が早退することはなかった。無理を承知で両親に連絡をしてもらったが、案の定どうしても手放せない仕事があると言われてしまったのだ。
なんとなく教室に戻る気分にはなれず、だからといって誰もいない家に一人で帰るのも、今日ばかりは憚られて、保健室で寝かせてもらっていた。
腫れた手に湿布を貼り、ぶつけて出血していた頭ももらった氷で冷やしているうちに、少し痛みは引いてきた。
これなら手はともかく、頭の怪我の方は問題なさそうだ、と思っていると、見透かされてしまったのか、保健医から「ちゃんと病院には行くのよ」と念を押されてしまう。
「でも今日はお父さんもお母さんもいないし」
「さっき電話したとき、明日なら大丈夫って言っていたんでしょう? 学校を休んでもいいから、病院に行きなさい」
優しくやわらかい声で、それでいてはっきりと指示を出す言葉に、萌は「はぁい」と返事をした。
それから時計を見て、もう部活動が始まる時間だということに気がついた。
「先生」
「なに、そろそろ帰る?」
「えっと、部活に行ってきていいですか。自分の部活じゃなくて、見学なんですけど……」
保健医は猫のような目を少し細め、意地悪な笑みを浮かべる。
「あら。もしかしてお昼に一緒に来てた矢吹くん?」
「…………そ、そうですけど」
「いいわねぇ、青春!」
行ってらっしゃい。もう怪我しないようにね、帰るときは一声かけてね。
並び立てられた言の葉は、どれも萌を心配するものばかりで、胸の奥がくすぐったくなる。
「行ってきます!」
そう言って保健室を飛び出した。背中の向こうで「怪我人は走らない!」と注意する声が聞こえたが、今だけは無視してしまおう。
駿介に、訊きたいことがたくさんあった。
美羽ちゃんに何て言ったの? ケンカにならなかった? 泣かせたりしなかった? ちょっと時間が経ったけど改めて、矢吹くんは痛いところとかない? バスケの試合は予定通り行われるの?
切島先輩に、勝てる?
最後の問いかけが頭を過ぎる頃に、体育館に着いていた。バスケットボール部やバレー部と思わしき人達がそれぞれ準備運動をしている。その中に黒髪つり目のあの人がいて、萌の喉がひゅっと鳴った。
お昼に見たときと印象が違うのは、腫れ上がった頬のせいだろうか。もしかしてあの後部長に殴られたりしたのかもしれないと考えて、悪いことは何もしていないはずなのに、罪悪感が頭をもたげた。
うるさく騒ぐ心臓を落ち着かせるために深呼吸。それからゆっくり体育館の二階のギャラリー席に向かう。周りを見渡してみても、そこに美羽の姿は見受けられなかった。
「雨宮さん」
どこかで聞いたことのある声が響き、萌は振り返る。クラスメイトの山下がそこに立っていた。
「あれ、山下くん。部活?」
バスケットボールを抱えているので、きっと駿介は切島と同じくバスケ部員なのだろう。委員会決めのときに少し会話をしただけなので、彼の所属する部活動までは知らなかった。
「うん。その……怪我したって聞いたけど、大丈夫?」
「ああ、そうだよね。授業休んじゃったから……。大丈夫だよ、ちょっとした怪我だから」
心配してくれてありがとう、と笑うと、山下の頰が赤くなる。その意味が分からないほど鈍感ではないけれど、どう反応していいのか分からなくて言葉に詰まってしまう。
「やーまえーもん」
「駿介!?」
流れていた沈黙を破ったのは、萌でも山下でもなく、萌に試合を観戦するように誘った駿介だった。
困っているのを見かねて助けてくれたらしい。一階のコートからこちらを見上げる彼は、早く降りてこいと山下に言葉を投げかける。それに応えるように、山下が「お大事にね」と言ってコートへ戻って行ったので、萌はほっと息を吐いた。
なんとなく教室に戻る気分にはなれず、だからといって誰もいない家に一人で帰るのも、今日ばかりは憚られて、保健室で寝かせてもらっていた。
腫れた手に湿布を貼り、ぶつけて出血していた頭ももらった氷で冷やしているうちに、少し痛みは引いてきた。
これなら手はともかく、頭の怪我の方は問題なさそうだ、と思っていると、見透かされてしまったのか、保健医から「ちゃんと病院には行くのよ」と念を押されてしまう。
「でも今日はお父さんもお母さんもいないし」
「さっき電話したとき、明日なら大丈夫って言っていたんでしょう? 学校を休んでもいいから、病院に行きなさい」
優しくやわらかい声で、それでいてはっきりと指示を出す言葉に、萌は「はぁい」と返事をした。
それから時計を見て、もう部活動が始まる時間だということに気がついた。
「先生」
「なに、そろそろ帰る?」
「えっと、部活に行ってきていいですか。自分の部活じゃなくて、見学なんですけど……」
保健医は猫のような目を少し細め、意地悪な笑みを浮かべる。
「あら。もしかしてお昼に一緒に来てた矢吹くん?」
「…………そ、そうですけど」
「いいわねぇ、青春!」
行ってらっしゃい。もう怪我しないようにね、帰るときは一声かけてね。
並び立てられた言の葉は、どれも萌を心配するものばかりで、胸の奥がくすぐったくなる。
「行ってきます!」
そう言って保健室を飛び出した。背中の向こうで「怪我人は走らない!」と注意する声が聞こえたが、今だけは無視してしまおう。
駿介に、訊きたいことがたくさんあった。
美羽ちゃんに何て言ったの? ケンカにならなかった? 泣かせたりしなかった? ちょっと時間が経ったけど改めて、矢吹くんは痛いところとかない? バスケの試合は予定通り行われるの?
切島先輩に、勝てる?
最後の問いかけが頭を過ぎる頃に、体育館に着いていた。バスケットボール部やバレー部と思わしき人達がそれぞれ準備運動をしている。その中に黒髪つり目のあの人がいて、萌の喉がひゅっと鳴った。
お昼に見たときと印象が違うのは、腫れ上がった頬のせいだろうか。もしかしてあの後部長に殴られたりしたのかもしれないと考えて、悪いことは何もしていないはずなのに、罪悪感が頭をもたげた。
うるさく騒ぐ心臓を落ち着かせるために深呼吸。それからゆっくり体育館の二階のギャラリー席に向かう。周りを見渡してみても、そこに美羽の姿は見受けられなかった。
「雨宮さん」
どこかで聞いたことのある声が響き、萌は振り返る。クラスメイトの山下がそこに立っていた。
「あれ、山下くん。部活?」
バスケットボールを抱えているので、きっと駿介は切島と同じくバスケ部員なのだろう。委員会決めのときに少し会話をしただけなので、彼の所属する部活動までは知らなかった。
「うん。その……怪我したって聞いたけど、大丈夫?」
「ああ、そうだよね。授業休んじゃったから……。大丈夫だよ、ちょっとした怪我だから」
心配してくれてありがとう、と笑うと、山下の頰が赤くなる。その意味が分からないほど鈍感ではないけれど、どう反応していいのか分からなくて言葉に詰まってしまう。
「やーまえーもん」
「駿介!?」
流れていた沈黙を破ったのは、萌でも山下でもなく、萌に試合を観戦するように誘った駿介だった。
困っているのを見かねて助けてくれたらしい。一階のコートからこちらを見上げる彼は、早く降りてこいと山下に言葉を投げかける。それに応えるように、山下が「お大事にね」と言ってコートへ戻って行ったので、萌はほっと息を吐いた。