萌は成長の早い女の子だった。
 身長はいつもクラスで一番高かったし、勉強も運動も人並み以上に出来た。そんな萌が特段興味を抱いたのは、野球だった。野球好きの父の何気ない一言。

「萌が男の子だったら、一緒に野球が出来たのになぁ」

 その言葉は、幼い萌の心を傷つけた。隣にいた母が、「でも萌が女の子だったおかげで、お母さんは一緒にお洋服とか選べて楽しいよ」とフォローしてくれた。でも萌は、父の言葉が頭にこびりついて離れなかった。
 小学校二年生になったときだ、学校にある少年野球チームに入ることを決めたのは。
 少年野球というだけあって、チームに女の子は一人もいなかった。上級生の男子には、女には無理だよと笑われた。でも、監督は萌のことを突き放したりせず、女の子だって野球が好きなら大歓迎だよ、と言ってくれた。そうして萌は二年生ながらに野球チームに入れてもらったのだった。
 父はすごく喜んでくれた。母はとても心配していた。男の子が多いスポーツをやって、男女の差に萌が傷つかないか、と先のことを気遣ってくれたのだ。
 男女差よりも萌を困らせたのは、学年の違いだ。いくらクラスの中で背が高い方だといっても、萌より学年が上の子は、当然身体も大きい。小学生は成長期真っ只中なので、学年による体格差も顕著なのだ。
 チームの司令塔とも言えるキャッチャーを志望していた萌だが、ポジション的には体格のいい人がやることが多かった。二年生のうちから野球チームに入る子はいなかったので、バッテリーを組んでくれる人もいなかった。
 他のポジションを試してみようよ、と監督は言ったけれど、萌は絶対にキャッチャーがやりたかった。ピッチャーの投げたボールを受け止めるのはかっこいい。キャッチャーに憧れる萌が取った手段は、極めて単純なものだった。

「陸ちゃーん! 一緒に野球やろうよ!」

 お隣の家の、速水陸。萌と同い年だけど、少し小柄で内気な性格の彼は、クラスにあまり馴染めず、萌とばかり遊んでいた。基本的にノーと言えない性格をしているので、萌が遊びに誘うと乗り気じゃないときもしぶしぶ付き合ってくれた。

「野球って、人数いないと出来ないんじゃないの」

 あんまり詳しくないけど、と眉を下げた陸に、萌は笑ってみせる。

「うん! だから一緒に少年野球のクラブチーム入ろうよ!」
「えっ僕には無理だよ」

 背も低いし、運動も得意ってわけじゃないし、それに絶対いじめられる。
 俯いてネガティブな言葉を紡ぐ陸に、萌は首を傾げる。
 どうしてやる前から無理って決めつけるのだろう。やってみたら楽しいかもしれないのに。

「陸ちゃんは運動が苦手なわけじゃないでしょ! 足も速いし、逆上がりも得意じゃん」
「でも普通は四年生になってから入るんでしょ? 二年生が入ったらいじめられるよ……」
「えー、大丈夫だよ! そしたら陸ちゃんのことは私が守ってあげる!」

 ね、と笑いかけると、陸は困ったように肩をすくめた。これはあと一押し。そう確信すると同時に、萌は一番大事なことを伝えていなかったことに気がつく。

「私、陸ちゃんと一緒に野球がやりたいの。バッテリーを組もうよ!」
「バッテリー? 電池?」
「あはは! 違うよぉ、ピッチャーとキャッチャーのこと!」

 陸のボケにころころと笑いながら、萌は説明する。ピッチャーとキャッチャーのコンビのことをバッテリーと呼ぶこと。そしてバッテリーを夫婦に例えて、キャッチャーを女房役と呼ぶこともあるということ。
 全て父から聞かされた聞きかじりの知識だったが、陸はその説明に興味を持ってくれたようだ。

「キャッチャーが奥さん? それならピッチャーは旦那さん?」
「うん! ピッチャーを支えるのがキャッチャーの仕事でしょ。だから、旦那さんを支える奥さんみたいだね、ってことなんだよ」
「…………萌ちゃんはどっちがやりたいの?」

 陸がおそるおそるといった風に訊ねてくる。萌はキャッチャーがやりたいの、と即答した。その言葉に安心したのか、ホッと息を吐いた後、陸は上目遣いに萌の顔を覗き込み、質問を投げかけてきた。

「もしも僕が、やらないって言ったら……萌ちゃんはどうするの?」

 その質問は想定していなくて、萌は少しだけ考えてみる。陸に断られることは考えていなかったのだ。なんだかんだでいつも萌に付き合ってくれる彼だから、今回もきっと頷いてくれるだろう、と思い込んでいた。

「えーっ、陸ちゃんとやることしか考えてなかったけど……」
「けど?」
「でも陸ちゃんが野球はしないって言うなら、ピッチャーを探さなきゃだよねぇ。あっ、うちのクラスのたかくんとかどうだろう」

 頼めばやってくれるかな、と萌は呟く。たかくんというのは、萌や陸と同じクラスで、一番運動が出来る男の子だ。休み時間には必ず校庭で遊んでいる元気なタイプ。陸とはあまり関わりがないようだが、萌は彼と仲良しだった。

「だめ!」

 陸が珍しく大きな声を上げたので、萌はびっくりして固まった。陸ははっとしたような顔をして、「あ、ごめん」と小さく謝る。萌も我に返り、大丈夫だよと口にする。

「でも珍しいね。陸ちゃんが大きな声を出すの」
「だって萌ちゃんが、たかくんと組むって言うから……」

 不安そうな表情を浮かべる陸に、萌は少しだけ不思議に思う。どうして陸がそんな顔をするのだろう。陸が野球をやりたくないというのなら、萌が誰とバッテリーを組んでも関係がないはずなのに。
 そんなことを考えていると、陸が力強い声で「僕やるよ」と言った。

「僕が萌ちゃんのピッチャーになる。だから萌ちゃんは、僕以外の人と組んだらだめだよ」
「本当!? うん、約束する! 絶対私は陸ちゃんとしか組まないよ!」

 乗り気でなかったはずの陸が頷いてくれたことが嬉しくて、萌は笑顔で小指を差し出す。そっと差し出された陸の小指に自分のそれを絡めて、指切りげんまん! と歌った。
 陸の頰がほんのり赤いことには気がついていたけれど、その意味をまだ知らなかった小学校二年生の夏。陸と萌は、バッテリーになった。