「見た? 今朝のニュース!」
「見た見た! 甲子園のプリンス!」
「あのピッチャーめちゃくちゃかっこよくない? しかも完封? っていうの? すごいんでしょ?」
同じ学校の制服を着た女子二人が、バスの中できゃあきゃあと騒いでいる。
夏休みも終わりに近いこの時期に、制服で学校へ向かっているのは、部活や補習のある一、二年生だけだ。ほとんどの部活動では夏の始め頃に大会が行われ、徐々に三年生が引退していく。
雨宮萌の所属する吹奏楽部でも、夏の大会が終わり世代交代が始まっていた。新しく部長になったのは、萌と同じトランペットパートの矢吹駿介。人当たりはいいが、自分にも人にも厳しいので、三年生の先輩がいなくなったからといって吹奏楽部が中弛みすることはないだろう。
「あのピッチャー、名前何だっけ?」
「速水陸くんだよ。笑顔も爽やかだし、性格も良さそうじゃない? インタビュー見てたけど、チームメイトのおかげですって、すっごく謙虚だったし。ファンになりそう!」
萌は楽譜を読みながら、彼女達の話に耳を傾けていた。話題は昨日中継されていた甲子園の準決勝。昨年甲子園一回戦敗退の東星学園と、優勝候補の青葉高校の試合。誰もが青葉高校の勝利を信じていただろう。一回裏、速水陸がマウンドに立つまでは。
準決勝まで彼は温存されていた。それまでの試合で投げていた三年生投手ではなく、マウンドに上がったのは二年生にしてエースナンバーを背負う男。準決勝でようやく出場した背番号一の二年生に、自然と注目が集まった。次の瞬間だった。
警戒している打者を嘲笑うような、ど真ん中に放たれたストレートボール。完全に振り遅れたバットに、会場は静まり返る。強豪校の一番打者といえば、能力も高いはずだ。その打者が青い顔で固まっている。それほど球威のあるストレートだった。
陸はその後、優勝候補である青葉高校の強力打線を見事に抑え切った。フォアボールやヒットはあったものの、内野陣と外野陣が守備力を見せつけ、無失点のまま試合を終えた。
甲子園の準決勝での完封試合。力量差のあるチームならまだしも、相手は甲子園の優勝候補とも言われていたハイレベルなチームだ。速水陸は昨日の試合をもって、一躍有名人になった。
「あ、雨宮。おはよう」
バスが停車し、バス停から続々と人が乗ってくる。前の方の窓際の席に座っていた萌に話しかけてきたのは、同じトランペットパートの駿介だ。空いていた萌の隣の席に腰掛け、大荷物を膝に置く。楽器のケースを持っているところを見ると、昨日も持ち帰って家で練習したのだろう。朝から晩まで楽器漬けで疲れないのだろうか。萌は毎日の部活動だけでもへとへとだというのに。
「おはよう、矢吹くん。今日も朝練?」
「うん。部長の仕事してると練習時間削られるからさ、少しでも追いつかないと」
駿介の演奏技術が、他の人より遅れていることなんてない。むしろ、トランペットパートでも一、ニ、を争う実力者だ。駿介とは同じ中学だったが、その頃はあまり上手くはなかった。努力を重ねて今の実力を身につけたことを知っているので、萌は素直に尊敬していた。
謙虚で勤勉な彼は、決して現状に満足していなかった。つい先日行われた吹奏楽部コンクールの県大会で、ダメ金だったこともやる気に火をつけている要因の一つだろう。ダメ金というのは、金賞を取った学校のうち、次の大会に進めないことを指している。吹奏楽部コンクールでは必ず全ての学校に金賞、銀賞、銅賞いずれかの賞がつくため、金賞だからといって一番というわけではないのだ。結果発表の瞬間、金賞ゴールド、と言われて喜んだのも束の間。西関東大会に進めるかどうか、という分かれ目で、萌達の学校はダメ金に終わったのだ。
「来年は絶対、西関東大会に出たいね」
「そこは全国っていうところだろ!」
目標が高いのはいいことだ。でも萌は、高すぎる目標を設定するよりも、努力すれば達成出来るくらいの方が性に合っている。強豪校集まる埼玉県の県大会で、金賞を取ることが出来たのだ。西関東大会出場も夢ではないと、萌はそう思っていた。
「そういえば、速水陸くんって地元はこの辺りなんでしょー? ばったり駅で会えたりして!」
先ほどの女子が一際大きい声で、ミーハーなことを口にする。その声が耳に入ったのか、駿介が肩をすくめてみせた。
「すごいニュースになってたよな、甲子園の準決勝での完封試合」
「昨日からそのニュースで持ちきりだよね」
「うちの学校は野球部強くないからなぁ」
駿介のあまりに直球すぎる言葉に、萌は苦笑した。確かに地区予選一回戦負けだったけど、彼らも授業が終わった後、遅い時間まで練習に励んでいたのだ。必ずしも努力が報われるわけではない。そんなことは、高校生にもなれば誰でも知っていることだ。
「俺は野球に詳しくないから、応援のブラスバンドの方にばっかり気を取られちゃったよ」
「あはは! かっこいいよねぇ、甲子園での応援!」
特にトランペットの明るく高い音は、広い会場全体に響き渡る。応援の花形とも言えるだろう。
夏の青空の下、汗をかきながら選手を応援するために音を奏でるのは、どんな気持ちなのかな、と萌は少し考えてみたが、想像出来なかった。試合の状況が気になってしまうような気もするし、自分の演奏に集中していて応援どころではないかもしれない。
ぼんやりと考えていると、でもあんまり上手くなかったな、と駿介が呟いた。
「ブラバン。あれならうちの方が上手いよ」
「うーん、そうだねぇ。東星学園って吹奏楽にはあんまり力入れてないみたいだからね」
「詳しいね、東京の高校のことなのに」
駿介の言葉にドキッとする。今のは失言だった。生まれも育ちも埼玉県の萌が、東京の私立高校の吹奏楽事情に詳しいのはおかしな話だ。
「えっと……コンクールの結果、調べちゃった。あんまり上手くないなぁと思って」
ごめんなさい、東星学園の吹奏楽部のみなさん。
悪気はないが、貶めるような発言になってしまった。罪悪感に心を痛めていると、ようやくバスが学校の前に到着する。駿介が楽器のケースを持って立ち上がったのに倣い、萌も譜面を片手に後を追う。
「それにしても、どんな気持ちなんだろうな」
「なにが?」
「例のピッチャー。たった一日で、日本中から甲子園のプリンスなんて呼ばれるようになったわけだろ?」
俺なら恥ずかしくてたまらないと思う、と歯を見せて笑う彼に、萌も笑い返す。
そして幼馴染の男の子を思い出しながら、きっと今も野球のことしか考えていないと思うよ、と心の中だけで呟いた。
萌は成長の早い女の子だった。
身長はいつもクラスで一番高かったし、勉強も運動も人並み以上に出来た。そんな萌が特段興味を抱いたのは、野球だった。野球好きの父の何気ない一言。
「萌が男の子だったら、一緒に野球が出来たのになぁ」
その言葉は、幼い萌の心を傷つけた。隣にいた母が、「でも萌が女の子だったおかげで、お母さんは一緒にお洋服とか選べて楽しいよ」とフォローしてくれた。でも萌は、父の言葉が頭にこびりついて離れなかった。
小学校二年生になったときだ、学校にある少年野球チームに入ることを決めたのは。
少年野球というだけあって、チームに女の子は一人もいなかった。上級生の男子には、女には無理だよと笑われた。でも、監督は萌のことを突き放したりせず、女の子だって野球が好きなら大歓迎だよ、と言ってくれた。そうして萌は二年生ながらに野球チームに入れてもらったのだった。
父はすごく喜んでくれた。母はとても心配していた。男の子が多いスポーツをやって、男女の差に萌が傷つかないか、と先のことを気遣ってくれたのだ。
男女差よりも萌を困らせたのは、学年の違いだ。いくらクラスの中で背が高い方だといっても、萌より学年が上の子は、当然身体も大きい。小学生は成長期真っ只中なので、学年による体格差も顕著なのだ。
チームの司令塔とも言えるキャッチャーを志望していた萌だが、ポジション的には体格のいい人がやることが多かった。二年生のうちから野球チームに入る子はいなかったので、バッテリーを組んでくれる人もいなかった。
他のポジションを試してみようよ、と監督は言ったけれど、萌は絶対にキャッチャーがやりたかった。ピッチャーの投げたボールを受け止めるのはかっこいい。キャッチャーに憧れる萌が取った手段は、極めて単純なものだった。
「陸ちゃーん! 一緒に野球やろうよ!」
お隣の家の、速水陸。萌と同い年だけど、少し小柄で内気な性格の彼は、クラスにあまり馴染めず、萌とばかり遊んでいた。基本的にノーと言えない性格をしているので、萌が遊びに誘うと乗り気じゃないときもしぶしぶ付き合ってくれた。
「野球って、人数いないと出来ないんじゃないの」
あんまり詳しくないけど、と眉を下げた陸に、萌は笑ってみせる。
「うん! だから一緒に少年野球のクラブチーム入ろうよ!」
「えっ僕には無理だよ」
背も低いし、運動も得意ってわけじゃないし、それに絶対いじめられる。
俯いてネガティブな言葉を紡ぐ陸に、萌は首を傾げる。
どうしてやる前から無理って決めつけるのだろう。やってみたら楽しいかもしれないのに。
「陸ちゃんは運動が苦手なわけじゃないでしょ! 足も速いし、逆上がりも得意じゃん」
「でも普通は四年生になってから入るんでしょ? 二年生が入ったらいじめられるよ……」
「えー、大丈夫だよ! そしたら陸ちゃんのことは私が守ってあげる!」
ね、と笑いかけると、陸は困ったように肩をすくめた。これはあと一押し。そう確信すると同時に、萌は一番大事なことを伝えていなかったことに気がつく。
「私、陸ちゃんと一緒に野球がやりたいの。バッテリーを組もうよ!」
「バッテリー? 電池?」
「あはは! 違うよぉ、ピッチャーとキャッチャーのこと!」
陸のボケにころころと笑いながら、萌は説明する。ピッチャーとキャッチャーのコンビのことをバッテリーと呼ぶこと。そしてバッテリーを夫婦に例えて、キャッチャーを女房役と呼ぶこともあるということ。
全て父から聞かされた聞きかじりの知識だったが、陸はその説明に興味を持ってくれたようだ。
「キャッチャーが奥さん? それならピッチャーは旦那さん?」
「うん! ピッチャーを支えるのがキャッチャーの仕事でしょ。だから、旦那さんを支える奥さんみたいだね、ってことなんだよ」
「…………萌ちゃんはどっちがやりたいの?」
陸がおそるおそるといった風に訊ねてくる。萌はキャッチャーがやりたいの、と即答した。その言葉に安心したのか、ホッと息を吐いた後、陸は上目遣いに萌の顔を覗き込み、質問を投げかけてきた。
「もしも僕が、やらないって言ったら……萌ちゃんはどうするの?」
その質問は想定していなくて、萌は少しだけ考えてみる。陸に断られることは考えていなかったのだ。なんだかんだでいつも萌に付き合ってくれる彼だから、今回もきっと頷いてくれるだろう、と思い込んでいた。
「えーっ、陸ちゃんとやることしか考えてなかったけど……」
「けど?」
「でも陸ちゃんが野球はしないって言うなら、ピッチャーを探さなきゃだよねぇ。あっ、うちのクラスのたかくんとかどうだろう」
頼めばやってくれるかな、と萌は呟く。たかくんというのは、萌や陸と同じクラスで、一番運動が出来る男の子だ。休み時間には必ず校庭で遊んでいる元気なタイプ。陸とはあまり関わりがないようだが、萌は彼と仲良しだった。
「だめ!」
陸が珍しく大きな声を上げたので、萌はびっくりして固まった。陸ははっとしたような顔をして、「あ、ごめん」と小さく謝る。萌も我に返り、大丈夫だよと口にする。
「でも珍しいね。陸ちゃんが大きな声を出すの」
「だって萌ちゃんが、たかくんと組むって言うから……」
不安そうな表情を浮かべる陸に、萌は少しだけ不思議に思う。どうして陸がそんな顔をするのだろう。陸が野球をやりたくないというのなら、萌が誰とバッテリーを組んでも関係がないはずなのに。
そんなことを考えていると、陸が力強い声で「僕やるよ」と言った。
「僕が萌ちゃんのピッチャーになる。だから萌ちゃんは、僕以外の人と組んだらだめだよ」
「本当!? うん、約束する! 絶対私は陸ちゃんとしか組まないよ!」
乗り気でなかったはずの陸が頷いてくれたことが嬉しくて、萌は笑顔で小指を差し出す。そっと差し出された陸の小指に自分のそれを絡めて、指切りげんまん! と歌った。
陸の頰がほんのり赤いことには気がついていたけれど、その意味をまだ知らなかった小学校二年生の夏。陸と萌は、バッテリーになった。
夏休み中の吹奏楽部の活動は、午前九時から午後七時まで。それより早く来て練習をすることは当たり前だし、練習時間が終わっても居残りすることもあった。
萌はどちらかというと練習熱心な方だろう。楽器を家に持ち帰らない分、学校で練習する時間を確保したい。だから少し早めに部室に行って練習を始めるし、帰りも遅くまで残っている。集中力が切れてしまう瞬間はどうしてもあるけれど、短い休憩などを挟みながら、なるべく練習時間を取るようにしていた。
しかし昼休みである一時間だけは、練習禁止になっている。手や唇を休める時間を作りなさい、というのが講師の教えなのだ。昼休みに練習しているのが見つかると、それはもううんざりするほど怒られるので、萌も昼休みだけは必ず休息をとるようにしていた。
そんな昼休みのこと。同じトランペットパートの仲間と昼食をとっていると、後輩の美波が小さなため息を吐いた。いつも明るい彼女の意外な一面に、驚いた萌は心配の声をかける。
「どうしたの、美波ちゃん。疲れちゃった?」
一番に心配したのは体調のことだ。コンクールが終わったばかりで、ずっと張っていた緊張の糸がほぐれ、身体を壊す者も少なくない。今日も風邪で一人休みの子がいたはずだ、と思い出しながら後輩の顔を覗き込むと、違うんです、と美波が呟いた。
「今朝のこと思い出しちゃって……」
「今朝? 何かあったの?」
「痴漢ですよ! バスの中でお尻触られて最悪だったんです!」
落ち込んでいる、というよりは、怒っている。
美波の勢いに押されて、トランペットパートのみんなは押し黙っている。特に男子からしたら、気まずい話題だろう。
三年生が卒業した今、トランペットパートは二年生二人、一年生三人で構成されている。男子二人は励ましにくいだろうし、ここは二年生で同性である萌が何か声をかけなければ。
「あのバス、痴漢が多いよね。学校専用バスとかだったらよかったけど、一般の人も使うから……」
意見に同調しつつ、強い言葉にならないよう控えめに。
気を遣って紡いだ言葉だったが、反応したのは当の美波ではなく、さっきまで黙って聞いていた駿介だった。
「ちょっと待った。もしかして雨宮もあるの?」
「痴漢? あるある。一年のときから三回くらいかな? 時間変えても無駄だったから、もう諦めちゃってるけど」
高校の前にバス停があるため、女子高生が必ず乗っているバスとして目をつけられているのだろう。同じ相手かどうかは分からないが、いつも利用しているバスに痴漢が多発していることは事実だった。
知らない相手に身体を触られる、というのは本当にこわいことだ。声を上げて助けを求めればいいと言われるかもしれないが、本当に痴漢なのかな、冤罪だったらどうしよう、という考えが頭の中をぐるぐると回ってしまうのだ。それに何より、本当に恐怖を感じたときは声を出すこともままならない。
萌が出した結論は、諦めよう、ということだ。やめてくださいと言えない自分が悪い。我慢してやり過ごせばいい、バス停に着くまでの辛抱だから、と。
萌が箸で卵焼きを掴んで持ち上げると、ふいに駿介が立ち上がった。驚いて顔を上げる。ぽと、とお弁当箱の中に卵焼きが帰っていく。駿介は怒りを帯びた表情をしていて、萌は目を丸くした。
「早く言えよ、そういうことは!」
「えっ」
「今日から俺が帰りは送っていくから。朝も迎えに行くから、何時のバスか連絡して」
「えっ、えっ? ちょっと待ってよ、矢吹くん」
なんで急にそんな話になったの!? と戸惑っていると、美波の隣でにこにこしながら話を聞いていた風花が、いたずらっ子のような表情を浮かべ、身を乗り出してくる。
「矢吹先輩、知ってます? 萌先輩って、バス停から家まで歩いて帰ってるんですよ」
「は? 自転車とか迎えとかじゃないの?」
「えええ……歩くの、普通じゃない?」
バス停から家までは十分くらいだし、街灯もある。幼い頃から住んでいる街なので、知り合いの家も多い。両親も特に心配している様子はないし、萌も気にしたことがなかった。
しかし目の前の駿介は、信じられないというような表情で萌を見つめていた。
「分かった。家まで送るし、迎えに行くから」
「えっ、矢吹くんの家、うちより手前だし、遠回りになっちゃうからいいよ」
「俺が嫌なんだよ」
何かあってからじゃ遅いだろ、と言う駿介の言葉に、今まで黙っていた一年の裕也がひゅー、と囃し立てる。おいこら何か文句あんのか、と裕也の髪をぐしゃぐしゃにする駿介に、萌は何と声をかけたらいいか分からず、戸惑ってしまう。
このままでは、部活の時間外まで駿介に気を遣わせてしまう。朝の迎えと夜に送って帰る時間。その時間があれば、楽器の練習も出来るし、身体を休めることも出来る。萌のために時間を使わせてしまうのは申し訳ない。
どうしよう、と悩んでいると、隣から美波と風花が声をかけてきた。
「萌先輩! ここは甘えておくところですよ!」
「そうそう! 駿介先輩は頼って欲しいんだし!」
二人の言葉が耳に入ったのだろう。駿介が萌の目を見つめ、「もしかして迷惑?」と問いかける。
「えっ、違うよ! 迷惑とかじゃなくて、逆に送り迎えしてもらったら私が矢吹くんの迷惑になっちゃうと思って……」
「迷惑なわけないじゃん。俺が雨宮を一人で帰らせたくないだけ」
その言葉に心臓がドキッと跳ねる。
そんなのまるで、と考えかけて、慌てて頭を振る。自惚れてしまいそうになったのだ。もしかして、駿介が萌のことを好きなのではないか、と。
なんとなく頰が熱い気がするのは、夏の暑さのせいだろうか。
慌てて顔を隠すように俯くと、萌は小さな声で「お願いします」と呟いた。喜んで、と嬉しそうな声で返す駿介の顔を見ることが出来なくて、早く顔の熱が引いてくれればいいのに、とそんなことばかり考えていた。
甲子園の決勝戦は毎年盛り上がるものだが、今年は例年の比ではないくらいメディアの注目を浴びていた。
速水陸。甲子園の準決勝にて、強豪青葉高校を完封してみせた、二年生投手。投手としての腕も確かだが、見目が良く、インタビューの受け答えもハキハキしていて爽やか。甲子園のプリンスという呼び名がお茶の間に広まったことも、決勝戦への注目度を上げていた。
明日は待ちに待った甲子園の決勝戦、生中継でお送りします。そんな言葉をアナウンサーが紡いでいるのを聞きながら、萌はぼんやりとテレビを眺めていた。
決勝戦はもちろん、録画予約している。決勝だけではなく、今までの試合も全て。陸が登板したのは準決勝が初めてだったが、どのタイミングで彼がマウンドに上がるのか萌には分からなかったので、陸のいる東星学園の試合は全て録画してあった。
決勝戦の時間、萌は吹奏楽部の練習だ。休むわけにはいかない。コンクールが終わり、先輩が引退して事実上の最上級生になった今、気を抜くわけにはいかないのだ。
それに、萌が休んでしまったら、同じトランペットパートの二年生、駿介に迷惑をかけてしまう。駿介は部長という責任ある仕事を任せられているので、下級生の面倒は萌が見なくては。
それでも決勝戦は、リアルタイムで見たかったな、というのが本音である。明日はきっとそわそわして練習に身が入らないだろう。そんなことを考えていると、ふいに玄関のインターホンが音を立てる。
時計を見ると、夜の十時。誰かが訪ねてくるには遅すぎる時間だ。看護師の母は夜勤でいないし、父も残業で遅くなると言っていた。この家には萌一人しかいない。
警戒しながらインターホンの画面を見ると、見覚えのある女性が立っていた。慌てて玄関に向かい、ドアを開ける。そこにいたのはお隣に住む陸の母だった。
「おばさん! どうしたの、こんな時間に」
「夜遅くにごめんね、萌ちゃん。陸がどうしても萌ちゃんと話したいって言って聞かなくて」
差し出されたのはスマートフォンだった。速水陸、と表示された画面に、心臓が大きく音を立てる。
陸の通う学校は、全寮制だ。スポーツに力を入れており、野球部は特に厳しいと聞いている。実家に帰省出来るのは年末年始だけで、それ以外は基本的に寮生活を強いられている。スマートフォンも原則禁止らしく、家に電話が出来るのは月に一度、決められた日に十分だけ、という徹底ぶりだ。野球に生活を捧げていると言っても過言ではないだろう。
どうやら今日がスマートフォンを返してもらえる月に一度の日だったらしい。陸の母は残り五分しかないんだけど、と言いながら萌に自分のスマートフォンを握らせた。
「…………もしもし」
耳にスマートフォンを押し当てて、電話口に話しかける。少しだけ緊張しているのは、きっと彼と会話をするのがお正月以来だからだろう。
『もしもし、萌?』
陸だ、陸の声だ。
テレビのインタビューで聞いた声よりも、少し低いそれに、胸の奥がきゅうっと鳴く。萌に気を遣ってくれたのか、陸の母が外に出て玄関のドアを閉める。
「久しぶりだね」
そんなありきたりな言葉しか出てこない自分が情けない。許された時間はたったの五分。もっと気の利いた言葉が出て来ればよかったのに、と思っていると、陸の方から話を振ってくれた。
『準決勝、見た?』
「うん、見たよ。陸ちゃんすごかったね、完封しちゃうなんて」
『明日、決勝なんだ』
「うん。明日も見るよ」
決勝戦の前日で、緊張しているのだろうか。どこかぎこちない喋り方の陸に、萌は優しく相槌を打つ。
『……明日の決勝が終わったらさ、特別休暇がもらえるんだ』
「えっ! そうなんだ、よかったね。ゆっくり休んでね」
『うん。そっちに帰るから』
陸の言葉に萌は目を丸くする。お休みと言っても、てっきり寮でゆっくり過ごすのかと思っていた。でもどうやら違うらしい。
陸が久しぶりに帰ってくる。その事実に、胸の奥が熱くなる気がした。
『それで、俺、萌に聞いてほしい話があるんだけど』
「なあに?」
『帰ったら言う』
なにそれ、と萌は笑うが、陸は笑わなかった。夜とはいえ、玄関がじんわりと暑いからか、スマートフォンを持つ手が汗ばんでくる。慌てて持ち直して汗を拭うと、萌は陸に問いかけた。
「電話じゃ言えない話?」
『うん。あー、というか、電話ではしたくない話って感じかな』
「同じじゃない?」
『全然違うよ』
電話の向こうで、陸を呼ぶ声が聞こえる。どうやらタイムリミットが来たらしい。
寂しいな、と思うのは萌だけだろうか。
電話が切れる前に、陸の名前を呼ぶ。
「陸ちゃん!」
『ん? どうした?』
優しい声は、昔と変わらない。今は住む世界が違ってしまっているけれど、根っこのところはきっと変わらないままなのだ。そのことが嬉しくて、萌は少しだけ泣きそうになった。
「……明日、応援してるから」
「ん、ありがとう」
またな、という声と共に、電話が切れる。ツー、ツー、という虚しい音が鳴り響く中、萌はせめて自分の応援が少しでも陸の力になればいいと願っていた。
甲子園の決勝戦当日。
萌は全く部活に集中が出来なかった。お弁当箱を家に忘れてきてしまうし、譜面のファイルを床にぶちまけて後輩に拾うのを手伝ってもらった。基礎練習の最中も、いつもはしないようなミスを連発した。
「本当にごめんなさい! 午後はちゃんとするから……!」
お昼休みに入ると同時に、同じパートのメンバーに深々と頭を下げる。謝る萌に、後輩達はすっかり戸惑ってしまったようで、動揺の声を上げる。
「えええ、大丈夫ですよ! 私達なんていつももっとミスしてますし!」
「そうそう、普段の萌先輩が完璧すぎるんですって!」
「俺も気にしてませんよ。たぶん駿介先輩だって」
ね、と言いながら裕也が駿介の方を見やるので、おそるおそる萌もそちらに目を向ける。駿介は自分にも厳しいが、人にも厳しい。午前中の萌の集中力のなさは、怒られても仕方がないだろう。
しかし駿介の口から出てきたのは予想外の言葉だった。
「もしかして雨宮、体調悪い?」
「えっ……わ、悪くない、です」
「じゃあ疲れてる?」
あんなにミスするのは雨宮らしくないもんな、と駿介が言ってくれて、萌は自分が恥ずかしくなった。
仲間は萌のことを信頼してくれているのに、萌は自分のことばかりだ。今日だって、陸の出ている試合の行方が気になって、集中力を欠いてしまった。
どんなコンディションであっても、目の前の練習に集中しなければいけなかったのに。
「私……お弁当忘れちゃったから、お昼ご飯買ってくるね」
誤魔化すように笑うと、駿介が楽器を置いて立ち上がる。
「俺も行っていい? 冷たい飲み物買いたくて」
飲み物なら自動販売機でも売ってるのにね、と風花が茶化すように言って、裕也がうんうんと頷く。頭をぺしんと叩かれたのは裕也だけだったが。
「あ、ひどいっすよ、今の言ったのは風花なのに!」
「お前の方がからかってる感じがした」
「なんすかそれ!」
駿介と裕也は、学年こそ違えど仲がいい。二人を見ていて、少しだけ気持ちが明るくなった気がした。
集中力がなくてミスを連発してしまった萌を責めるでもなく、こうして励ましてくれる仲間がいる。恵まれているな、と実感して、萌は駿介に笑いかけた。
「矢吹くん、じゃあコンビニまで付き合ってくれる?」
「うん、もちろん」
いってらっしゃい、と手を振る後輩達に感謝しながら、コンビニでお菓子を買ってきてあげようと思うのだった。
「雨宮がコンビニのご飯って珍しいな」
「うん、ちょっと朝バタバタしてて、忘れてきちゃった」
本当は甲子園の決勝戦が気になって、うっかり忘れてしまっただけなのだが。
何となくそれを説明するのは憚られて、誤魔化してしまった。それがなぜなのか、萌自身にも分からなかったが、駿介は萌の言葉に納得したようだった。
「そういえば雨宮って自分でお弁当作ってるの?」
「ううん。お母さんの手作り。私、びっくりするほど料理音痴なの」
「へぇ! 意外だな。雨宮って何でも出来るタイプかと思ってた」
勉強も運動もトランペットも、と挙げられたものに、ちょっと待って! と萌は慌てて声を上げる。
「私、そんなに器用な人間じゃないよ!? それを言ったら矢吹くんの方が何でも出来るでしょ?」
学業の成績はいつも十位以内、体育の時間は何の競技でも女子から歓喜の声が上がる、吹奏楽部では部長を勤めるだけの人望もあり、何よりトランペットが上手い。
中学生の頃から彼を知っているが、負けず嫌いな駿介は、出来ないことがあるとコツコツ努力を積み重ねて克服していくタイプだ。そしてそれを隠すことなく表に出しているので、また周りからの信頼が厚くなっていく。
クラスの人気者、と言ってしまうとありきたりな言葉だが、それ以外に彼を表現する言葉が思いつかないのも確かだった。
「俺は不器用だよ。基本的に何をやっても最初は人並み以下だし」
はは、と笑う彼は、謙遜しているようには見えなかった。もしかしたら本当に不器用な人なのかもしれない。初めて挑戦するものは、人並み以下にしか出来なくて、それを持ち前の向上心と努力で補っているのかも。そう考えると、なんだかかっこいいな、と萌は思う。
「矢吹くんってかっこいいよね」
「…………は?」
「苦手なことでも、へこたれずに挑戦して、得意なことに変えちゃうんだもん。すごいよ」
コンビニは冷房がよく効いていて、涼しい風が二人を包んでくれる。外は汗をかくほど暑かったので、ここで少し涼んでいきたいくらいだ。
萌が昼食を選び、駿介のもとに戻ると、彼はまだペットボトルのコーナーに立ち尽くしていた。
「矢吹くん、決まった?」
「……雨宮はどれが好き?」
「えっ? お茶ならほうじ茶が好きだし……あ、このオレンジ味のやつ、炭酸が苦手じゃなかったらおすすめだよ」
この間買ってみて美味しかったジュースを勧めると、駿介は迷わずそれを二本手に取った。
二本も飲むの? と訊ねると、片方は雨宮の分、と言われ戸惑ってしまう。
「え? 自分で買うよ?」
「いいんだよ。嬉しいこと言ってくれたから、そのお礼」
な? と爽やかな笑顔を浮かべる駿介に、萌はなんだか胸の奥がむずむずするのを感じながら、ありがとうと小さく呟いた。
後輩のお菓子を選んでコンビニを出る頃には、すっかり時間が経っていた。
「ごめんね! 思ったより遅くなっちゃった! せっかくのお昼休みなのに」
「大丈夫、俺はむしろラッキーって思ってるけど?」
いたずらな笑みと共に首を傾げる駿介。その意味が分かるような、それでいてまだ知りたくないような、そんな気持ちに駆られながら、早く帰ろう! と駿介の背中を押すのだった。
陸と萌がバッテリーになって一ヶ月。まだ二年生で身体が小さく、上級生の練習メニューは出来ないので、監督が二人専用のメニューを考えてくれた。
まずはキャッチボール。ボールとグローブに慣れることが大事なんだよ、と言われたので、暇さえあれば二人でキャッチボールをした。最初はボールをこわがっていた陸も、次第に慣れてきて、グローブで器用にキャッチ出来るようになった。左手に嵌めたそれはまだ二人には大きかったけれど、すぐに陸と萌のお気に入りになった。
ピッチングの練習もした。まずは近い距離から、ゆっくりボールを投げてもらって、萌は座ってキャッチする。キャッチャーの姿勢というのは意外ときつくて、最初はボールを捕るどころではなかった。
でも上手くキャッチ出来ると、陸が萌以上に喜んでくれたので、萌は球をこぼさないように練習を頑張った。
少しずつ距離を遠くしていくにつれ、陸が不安そうな表情になっていく。大丈夫だよ、陸ちゃん! と萌が励ますと、陸は笑顔をこぼしてボールを投げてくれた。陸の球はお世辞にも速いとは言えなかったけれど、二人でバッテリーを組めたことが嬉しかった。
バッティングの練習は特に楽しかった。素振りは辛かったけれど、ボールがバットに当たる感覚は忘れられない。遠くに飛ばすことはまだ出来なかったが、まずはバットに当てる、ということを目標に、練習に励んだ。
心配していた上級生からのいじめもなく、陸と萌はとても可愛がってもらえた。身体が小さいなりに全力で頑張っていたから、というのもあるだろうが、レギュラー争いをする相手ではない、というのも大きかっただろう。
陸は人見知りであまり先輩に懐かなかったが、萌は先輩達が大好きだった。野球のルールも先輩に教えてもらったし、キャッチングのコツなども自分から聞きに行った。
その日も萌は先輩に教えてもらっていた。陸にピッチングの指導をしていた監督が、ふいに大きな声を上げた。
「えっ、陸くん、サウスポーなの!?」
チームメイトの視線が陸に集まる。陸はみんなに見られて居心地の悪そうな表情を浮かべていた。萌は陸のことが心配になって、監督と陸の元へ駆け寄った。
「サウスポーってなに?」
「左利きってことだよ」
「うん。左利きだよ」
陸の言葉に、辺りがざわつく。状況を理解していないのは陸と萌だけだ。
どうしてもっと早く言わないの、と珍しく監督が強い口調で陸を責めるものだから、萌は慌てて陸を庇うように監督の前に飛び出した。
「だって左利きでも関係ないでしょ? お箸を持つのも、鉛筆を持つのも、陸ちゃんは右手でやってるよ!」
「萌ちゃん……」
振り返ると陸がうるんだ瞳でこちらを見つめていた。女の子顔負けの可愛さに、自分が守ってあげなければ、と萌は唇を噛む。
「野球には関係あるんだよ」
ごめんね、大きな声を出して。
そう言って監督は二人の頭を撫でた。
「野球は、鉛筆とかお箸みたいに無理に右手でやる必要はないんだよ。左手でボールを投げていいし、左打ちでいい」
「そうなの?」
陸が小首を傾げて、少しだけ萌の後ろから顔を出す。鉛筆やお箸で練習しているとはいえ、右手でボールを扱うのは難しかったのかもしれない。そういえば、前に左手でお箸を持ってみたらすごく難しかったな、と萌は思い出す。
監督が右手用のグローブを持ってきて、陸に手渡す。陸はおそるおそるそれを受け取り、右手に嵌めた。
「陸くん、左手でボールを投げてみようか」
その言葉に、萌は慌ててキャッチングの準備をする。陸のボールを捕れるのは萌だけだ。だって二人はバッテリーなのだから。
ポジションについて、ミットを構える。ドキドキしているのは、萌だけだろうか。
気がつけば、チームメイトの視線が二人に集中していた。
「萌ちゃん、投げていい?」
「うん! いつでもいいよ!」
陸の言葉に大きく頷く。陸はまだピッチャーらしい投げ方は出来ない。それでも振りかぶったその姿は、今までのどの投げ方よりもピッチャーのそれに見えた。
ミットを構えて陸の球を待つ。その瞬間だった。
ビュン、と風を切る音と、ボールがネットに当たる音。ころころ、と後ろから転がってきた野球ボールに、萌は血の気が引く気がした。
ストライクゾーンから大きく外れた球。まだ初心者の萌には、捕れなくても当然だ。でも、そうじゃない。
ボールが、見えなかった。利き手で投げるだけでこんなにもスピードが違うのか。
もしも今の球が身体に当たっていたら? そう考えて、ぞっとする。手が震えて、背中に冷や汗が流れた。
「……萌ちゃん、交代する?」
六年生のキャッチャーの先輩が声をかけてくれる。萌は甘えてしまいたくなるのをぐっと堪えて、しない! と大きな声で答えた。
「陸くん、萌ちゃん、もう一球」
監督から指示が出される。陸がボールを持って、萌をまっすぐに見据える。その目がきらきらと輝いているのに気がついて、萌はハッとした。
もしかして陸は、今初めて野球を楽しいと思っているのかもしれない。萌がキャッチ出来なかったら、その楽しさを台無しにしてしまうかもしれないのだ。
ぐっと唇を噛んで、ミットで球をキャッチする感覚を思い出す。大丈夫、絶対捕れる。そう言い聞かせて、陸に向けて頷いた。
ボールはミットを掠めて後ろに逸れた。でも今度はちゃんと、萌にもボールの軌道が見えていた。
もう一球、と再び監督の声がして、陸が振りかぶる。陸の手をしっかり見て、ボールに集中する。今度はキャッチャーミットにしっかり収まった。じんじんと手に痛みが走り、萌は顔を上げる。
「…………すごい」
「萌ちゃん?」
「すごい、陸ちゃんすごいよ!」
右手で投げるのとは全然違う。球の速度も、勢いも。
萌が駆け寄ると、陸は照れ臭そうに笑った。
「陸ちゃん、ピッチャーで一番になろうよ! 陸ちゃんならなれるよ!」
実際は、先輩の投げたボールの方がずっと速いだろう。コントロールだってまだまだ。改善するところはたくさんある。それでも、萌は陸がバッターを打ち取る未来が見える気がした。
「萌、言ってくれるじゃん。俺より陸の方が上手くなるってことだぞ?」
一番の背番号をもらっている、六年生のピッチャーが萌の肩を抱く。先輩の投げる球は確かに速い。だけど、陸だってすごいのだ。
黙って聞いていた陸が、唐突に口を開いた。
「……なるよ、おれ」
「陸ちゃん?」
「萌ちゃんが信じてくれるなら、おれ、一番のピッチャーになるよ」
陸は自分のことを僕と呼んでいたはずだ。おれ、と突然呼び方を変えた陸に驚いて、萌は陸を見つめる。
ずっと自信なさげに俯いていた陸が、先輩の目をまっすぐに見つめていた。宣戦布告ともとれるその言葉に、先輩が陸を睨むが、陸は怯まない。
たった三球。利き手である左手で、三球投げただけだ。
でもその三球が、間違いなく陸の中の何かを変えたのだ。幼馴染の変化に戸惑わない訳ではない。しかしそれ以上に、これから陸が成長していく未来を想像して、胸が高鳴った。
萌は緊張していた。甲子園の決勝戦。リアルタイムで中継を見ることが出来なかったので、録画した映像を再生する。
先発投手は陸だった。ヒットは出るものの互いに失点を許さず、迎えた六回表。陸の投げたストレートが、バットの芯に当たる。
「あっ」
思わず声を上げた萌と、実況のアナウンサーの「打ったー!」という叫び声が重なる。バッドの真芯に捉えたボールは高く飛び、バッターが勢いよく走り出す。
お願い、フェンスは越えないで。
祈るような萌の気持ちも、過去の映像には届くはずもなく、ボールはフェンスをギリギリのところで越えていった。
「ホームラン! 均衡を破ったのは、二年生エースの塚越、塚越のホームランです!」
バッターがホームに帰る瞬間がテレビに映し出される。陸はどんな顔をしているのだろう。そればかりが気になった。
東星学園も粘った。その後は出塁されても失点を許さなかったし、攻撃の際には積極的にバッドを振った。それでも、一点の差が最後まで埋まることはなかった。
たかが一点。されど一点。
一点の重さを見せつけられた、そんな試合だった。
試合の後には優勝したチームへのインタビューが続いた。完投した三年のピッチャーを称え、勝利打点をあげた二年生エースに話を聞いている。
ホームランを打った彼は二年生なので、来年も陸の前に立ちはだかるかもしれない。そう思いながらインタビューを聞いていると、ふいに知っている顔がテレビに映し出される。陸だった。
「決勝戦の結果は残念でしたが、試合を通していかがでしたか?」
「自分の力不足を実感しています。先輩方にとっては最後の試合だったのに、不甲斐ない思いでいっぱいです」
「速水選手は先日の準決勝で完封試合を見せてくれましたが、今日も完封を狙っていましたか?」
「いえ、準決勝も、今日の決勝も、完封を狙っていた訳ではないです。仮に打たれてもフォローしてくれる心強い仲間がいるので、安心して一球入魂することが出来ました」
「来年も速水選手の活躍を期待しています」
「ありがとうございます」
ぺこり、と深く陸がお辞儀して、インタビューは終わった。流していた映像を停止し、間違って消してしまわないようロックをかける。
萌はクッションを抱きながら、スマートフォンに手を伸ばした。
東星学園野球部では、部員のスマートフォンは基本的に取り上げられていて、月に一度家族に連絡を取るときしか使えないはずだ。
だからメッセージを送ったところで、陸がすぐにそれを見ることはないだろう。それでも送らずにはいられなかった。
決勝戦、見たよ。おつかれさま。
短い文章だ。そっけないと思われるかもしれない。しかし、それ以上の言葉は思い付かなかったのだ。
陸ちゃんすごい頑張ってたね。惜しかったけどかっこよかったよ。来年こそ優勝出来るといいね。
どんな言葉で慰めようとしても、きっと無駄なのだ。同じ時間を共にした仲間からの言葉でないと、きっと。
自分の無力さを噛み締めながら、萌はクッションに顔を埋めた。