「辞めたいと思った事が無いかと言えば嘘になります。
幼い頃、私は自分の立場が何かわからずに闇夜姫としての知識を学んでいました。
大人達に囲まれ、疑問を持つことも無かったのです。
ですがとある時に私は疑問を持つべきなのだと知らされました。
幼いながらそれはとても衝撃的で、でもそれにより闇夜姫という存在がやはり必要なのだということも思い知ったのです。
今は、この力で微力ながら役立てることを誇りに思っています。
ですから、恋に憧れている自分も、役目を果たす自分も受け入れています。
それに嬉しかったんですよ、先生が私を見つけてくれたことは。
暴かれるのは困りますが、見つけてくれたことは純粋に感謝しています」
宏弥はそれを聞きながら、とても女子大生とは思えない大きな優しさを感じた。
慈悲を司る観世音菩薩の生まれ変わり、そう思われるのも無理は無いほど。
下から見上げる世依はそれほどまでに美しく、だが宏弥には寂しさも感じさせた。
彼女を少しでも年相応の女の子でいさせてあげたい。
宏弥はおもむろに世依の右手を取って、その甲にキスを落とした。
呆然と見ていた世依が自分の手に与えられた柔らかい感触に我に返り、驚いて手を引っ込める。
「なっ」
「世依さんが言ったんですよ?
てっきりその方が安心してもらえるのかと思っていたのですが」
世依はキスされた手を左手で握りながら立ち上がった宏弥を見れば、その顔は面白がっているようだ。
「ひ、酷い!」
「ですから世依さんが提案したんじゃ無いですか」
「でも普通しない!」
「やはり握手でしたか?
ちょっとチーズの香りが残っている気がするのですがそれでも良ければ」
「そうじゃない!」
気がつけば闇夜姫としてではなく、世依として怒っていた。
怒っていると言うより混乱しているというのが近いかもしれない。
むくれる世依に、宏弥がくすっと笑う。
世依も自分が既に素になっていることに気付き、肩を落とした。
ジジッとまた上から音がして、消えていた外灯の灯りが付き、世依とそして宏弥の周囲が一気に明るくなった。
「さぁ、家に帰りましょう。
あまり遅いと隆智くんに怒られて明日の朝ご飯を抜きにされかねません」
大きな手が差し出される。
世依は宏弥の顔を見て、いつも通りの笑顔を見せた。
「握手?」
「世依さんが道草を食わない為にです」
世依がそっと手を伸ばし、宏弥は優しくその手を取る。
世依は何故か涙が浮かびそうなのを必死に堪え、温かな手に誘われるように階段を二人並んで降りだした。