満月も過ぎたある日、宏弥は世依に食事へ誘われた。
どうやら隆智が不在の間面倒を見てもらった事へのお礼らしい。
宏弥は必要無いとやんわり断ったが、実際はそれにかこつけた気になる店に行きたいというのが本音だとわかり、宏弥は隆智の了解を得て二人で食事に行くことにした。
『TAKATA BOKUSYA』
穴八幡宮から早稲田大学に向かう道にあるイタリアンの店。
ここは歴史が古く、昔はミルクや軽食を出す場所だったが今は窯焼きのピザなどを出している。
ドアを開けると床には小さなタイルが敷いてあり、そこに大型犬が道を阻むように寝そべっている。
店員は慣れたようにそちらの通路は使わずに道路沿いのテーブル席に二人を案内した。
「友達があの番犬に近寄ったら唸られたんだって。
撫でたいんだけど撫でさせてくれる雰囲気じゃ無いよね」
ちらちらと少しだけ鼻先の見える犬を世依が見ているが、その顔はとても残念そうで宏弥はこれが一番の目的だったのでは無いかと思えた。
二人で違うピザを頼み、宏弥はウーロン茶、世依はオレンジジュースを飲んでいる。
「お酒飲んで良いのに」
「僕は下戸ですよ」
考えてみれば家で宏弥がお酒を飲んでいることが無かったことに気付いた。
隆智は缶ビールを時々飲んでいるが、二人で飲んでいるとこも見たことが無い。
「へー。
もしかしてお酒で失敗したことある?」
「学生時代にありますね。
渋々ゼミの合同飲み会に連れて行かれて先輩に飲まされて」
世依はマルゲリータを頬張りながら目を輝かせて聞いている。
「とある教授のカツラを取ってしまいました」
ぶほ、と世依が思い切りむせた。
そしてテーブルを掴み身体を丸めながら必死に身体を震わせている。
「な、なんでそんなことに」
「トイレに行こうと立ち上がったら酒がかなり回っていたようでふらついたんです。
自分では壁に手を突くはずだったんですが、目測を誤って近くの頭に手が」
目測、と笑いのツボに入ったままの世依が絞り出すように言う。
「怒られなかったの?」
「その場の空気が凍ったことは覚えています。
そしてその教授の講義を取っていたんですが落とされましたね、全て出席して試験もそれなりに出来ていたはずが」
世依は声を上げて笑わないように必死に堪えていたが、流石に我慢できなくなってテーブルをバシバシ叩く。
「おもしろ!
宏弥さんにもそういう面白エピソードがあったなんて!」
「まぁ若気の至りです。
世依さんもお酒が飲めるようになったら自宅で自分の許容量を確認した方が良いですよ。
先人からのアドバイスです」
世依は宏弥の言葉にそっか、と言って笑っている。
そしてひとしきり笑うとオレンジジュースを飲んで息を整えた。
それでもまだ目には涙が浮かんでいる。
「私の場合はそういう飲み会に参加することは無いだろうから関係無いかな」
「どうしてですか?」
世依は笑って、
「私は、駄目だから」
そう言うと、世依は違う話題を話し始めた。
宏弥も何故とまた聞くことも無く世依の話しを聞いている。
宏弥は彼女が自由をどれだけ制限されているのかその片鱗を見た気がした。
彼女は諦めている。
いや、受け入れているのだろうか。
目の前で明るく自分のピザを催促する世依に、宏弥はピザを渡しながら胸の中でわからない感情が燻っていた。