「じゃ、お先!」

ゆっくりコーヒーを飲みながら少し前の出来事を振り返っていた宏弥は世依の元気な声で我に返る。

世依は自分の食器を既に洗いダイニングから出ようとしていた。

「出かけるには少し早くないですか?」

「友達が古代文学のノート写したいって連絡あったんだ、デートでサボった分」

「それは僕の授業なのでは」

「わざわざノートを写したいって事は授業に興味があるって事だよ。
それに良いじゃない、喧嘩した彼氏と仲直りするチャンスだったから応援したいし」

屈託の無い笑顔で世依は言うと、バタバタと出て行った。
隆智は、相変わらず人の良い奴だとため息をついて片付けをしている。

宏弥は最初の授業で三十人ほどいる学生に向かい、こう話しかけた。

『シラバスで既にお伝えしているとおり、僕の授業では古代がメイン、それもマニアックでもある斎王を中心とした講義になります。
講義で使用する教科書を皆さんには用意して貰っていますが、試験前になれば範囲と要点をお伝えしますのでそれをこなせば、毎回授業に出なくとも不可をとることはありません。

大学は今までの受け身で済む授業では無く、自分の学びたい知識を学ぶ場所です。
それを見つけるのは簡単にできることではありません。
ですので皆さんのペースで構いませんが時間は有限、この授業に少しでも興味が出たのならどうぞ遠慮無く質問をして下さい。
些細な疑問でもその沸き上がった気持ちを大切にしてもらえればと思います』

女子学生達は最初現れた、猫背にぼさぼさとした長い髪と顔を隠すような大きな黒縁眼鏡の教員に落胆していた。

だが低くて張りのある声に不思議と耳を傾けたくなる。
そもそも他の授業でこんなことを言った教員はいなかった。
何となく授業に出てみようかな、という学生が多かったせいなのか、宏弥の授業は二回目の講義からごっそり学生がいなくなっているというよくある光景は見られなかった。
学長からは、これで朝日奈先生の顔を完全に出せばそもそも欠席する学生もいないでしょうし、それこそ大教室へ変更ですねと笑いながら言われてしまったが。


宏弥も自分の食器を片付け身支度を済ませると、既に二階の自室で仕事を始めている隆智の邪魔をしないように家の鍵をかけ出かけた。

この家はかなり古いが、内部、特に水回りは数年前に全てリフォームされてむしろ綺麗だ。
そんな外側だけ時代を感じさせる家の真裏は鬱蒼と森のような木が生い茂っている。
その森の先には寺があり、その木々は寺の敷地にあるものだ。
この家からすると申し訳ない程度の生け垣があるものの、寺の敷地の木々と混ざってしまっている。

家のある場所は大学敷地内の端。
家の横にある駐車場には隆智のグレーの車が停まっている。
こちらのエリアは学生の入ってくるエリアでは無いので、学生と同居していることも学生側にはバレてはいない。
もちろん大学側は承知しているが学長指示による学長の息子の家に同居という事で、特にその点を気にしているようには見えないのは学長の影響力の強さ故だろうか。

この大学は早稲田の地域でもかなり広い敷地を持っている。
同じ敷地に付属の中高、大学のキャンパスがあり、少し大学の敷地から離れた場所に学生寮と教職員アパート。

キャンパス内には学生食堂もあるが、他にテラス席のあるカフェや購買部とは他に数件の小さな貸店舗が用意されている。
そこで学生または卒業生などが商品の販売などを通し経営のノウハウを学ぶために店を出していて、企業の社長などをしている親にもこの大学が支持されている点の一つだろう。