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九月に入り学生達も徐々にキャンパスへ戻ってきている。
まだ気温も高く日差しも強いので、学生達は半袖よりも長袖で紫外線対策に余念が無い。
どの日焼け止めが肌に負担が少ないかというのは紫外線の強い春から話題に上る。
宏弥は春先に来ていたジャケットが無くなっただけで、相変わらず長袖のシャツ姿。
夏休みはほぼ地下の書庫で書物と過ごしていたが、そもそもそれだけに時間を使えるわけでは無く、大学での講義の確認、雑誌社から依頼されていた原稿を書いていたり、まだそもそも手をつけていない資料の確認などで時間はあっという間だった。
隆智と世依は温泉に家族旅行をしてきたらしく、宏弥に温泉饅頭を土産に買ってきた。
だがたった数日二人がいない家は驚くほどに広く感じ、そして静かすぎることが違和感に感じる。
『貴方は一生誰とも暮らせない』と元交際相手に言われた言葉が蘇り、とても当時の自分には確かに今の状況は考えられないかも知れないだろう。
宏弥がいつもの根暗と言われる状態でキャンパス内を歩いていても、学生達からは最初の頃のような空気扱いに戻っていた。
お姫様抱っこ事件で一時期は宏弥の周囲も騒がしかったが、今では何も無かったかのように静かだ。
というよりは今学生達で話題の者がいて、学生達はそちらを見に行くのに夢中のようだった。
大学の正門近くにある本部棟の一階、教員の授業を管理したり学生の単位の相談などを行う教務課の窓口には、一見大学生にも見えそうな男が笑顔で学生に応対していた。
「やっぱり可愛い!アイドル系だよね、こう小動物とか子犬っぽいような」
「松井大輝君って言うんだって。めちゃ若そうに見えるけど25歳って聞いたよ」
「嘘!高校の制服でも着られるんじゃ無い、あの可愛い顔なら」
遠巻きに見ている女子学生達が騒ぎ、見かねた他の教務課男性職員が学生を追っ払った。
「モテるのも大変だね、松井君」
「いえ、そんな」
学生の応対を終えた松井が困ったように笑う。
その時視線の端に捉えた猫背の人物を見つけ、松井は失礼しますと言うとその男に駆け寄った。
「朝日奈先生!」
宏弥が教務課での用事を済ませ部屋を出ようとしたら、茶色の髪の男が宏弥に駆け寄ってきた。
「すみません!教室変更をお伝えし忘れてました!」
「いつですか」
「その、今日午後の講義なんですが」
周囲で仕事をしていた職員が思わず凍り付いたような顔で松井を見る。
午後の講義、今は昼なのでこんな直前に言うのは問題であるし、何よりたまたま会えて伝えるような状況は仕事としてなっていない。
身長が170くらいの松井はまるで子犬が慌てふためくようになっていて、ひたすら連絡が遅れた理由を話している。
宏弥が声をかけて落ち着かせると、ようやく一番必要な情報である移動先の教室を聞き出せた。
今度は仕事をミスして教員に迷惑をかけていると聞きつけた松井の上司が飛んできて、
「朝日奈先生失礼しました。彼はまだ慣れてないもので後で指導しておきます」
宏弥に誘導して貰ったおかげで丸く収まったような状況に、松井の上司が謝罪する。
「既に学生には知らせてあったと聞いたので安心しました。
それに今ここで僕も知れたのですから問題ありません。
ただ今後はもう少し早めだと助かります」
「今度から気をつけます!あっ、先生荷物ありますしドア開けます」
松井が小走りに前に回ってニコニコと教務課のドアを開け、宏弥は表情も無くありがとうございますというと松井が小さな声で、
「先生って学長のお嬢さん達と同居されているんですよね」
すぐ目の前で見上げながらそんな質問してきた松井に、宏弥は口を開かない。
「何で先生とは同居が許されたんでしょう」
何故か宏弥の横に着いてきている松井の顔は、貼り付けたような笑顔をしていて宏弥は立ち止まった。
顔を隠すような長い前髪と大きな眼鏡の奥には鋭い目が光っている。
それに松井は一切気が付かなかった。
「理由をお知りになりたいなら学長に直接聞けばよろしいかと。
僕はこれから講義がありますので失礼します」
頭も下げずに表情も無く宏弥は棟の自動ドアから出て行った。
子犬のように可愛らしかった顔などそこには一切無く、松井は強く奥歯を噛みしめる。
「何であんな暗そうな男が彼女の側にいられるんだ」
先ほどまでの明るい声とは正反対の声。
松井は誰もいないドアに向かい、忌々しげに吐き捨てた。