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今夜は新月。
祈祷する場所には闇夜姫が独りこもり、祈りを捧げている。
夏になり、夜も時折蝉の啼く声がこの森のような場所ゆえに音がより響く。
そのような中でも、シャン、シャンという高く透明な音が漏れ聞こえ、男はじっとその音に耳を傾けていた。

戸を開ける宵闇師は二名。
それなりにその職をこなし、この場所を任されるのはいわゆる名誉職として位置づけられていた。
ずっと姫の様子を外で見守り、もう一人の宵闇師と呼吸を合わせ戸を開く。

中から澄んだ空気が柔らかな風に乗るように、前の廊下で片膝を突き頭を下げている者達の身体を通っていく。

『なんて心地良いのだろう』

心が安心で満たされる。
魔を祓う仕事は穢れを被ることもあるが、そういうものを一瞬にして姫のまとう清らかな何かで洗い流してくれているかのようだ。

姫が黒い着物姿で音も立てずに木の廊下を歩き出す。
その少しだけ斜め前を戸を開けた二人がろうそくの灯りで足下を照らし、他二名の男達はそれから少し離れて後ろを守るようについていく。

許しも無く顔を上げ直接姫を見ることは無礼とされ、付き添う宵闇師達は頭を少し下げたまま歩くのだが、男はどうしても我慢できずに顔を上げる。

前には柔らかな髪をなびかせる娘。
着物に焚きしめた香の甘い香が風に乗って男にたどり着き、それを惜しむように味わう。

闇夜姫は慈悲を司る観世音菩薩の生まれ変わりとされ、宵闇師にとって心のよりどころであるとともに無条件に惹きつけられる存在だった。

自分とそんなに年齢差の無い娘の背中を、男は熱い目で見続ける。
男にとって、彼女はただの闇夜姫としてではなく、ずっと想う相手でもあったのだ。

そろそろ着替えるための部屋に着くというところで、不意に闇夜姫は歩みを止める。
そして闇夜姫は少しだけ振り返ると、その男を見た。

薄暗い廊下で、姫の目が何もかもを映し出す水晶のように光る。
男は下心を見抜かれた気がして思わず一歩下がってしまった。

静まりかえっている廊下。
誰も口を開かない。
だが戸を開け闇夜姫を先導する任を負う二人は、男に不審そうな目を向ける。
男の背中には暑さからでは無く、じっとりと冷や汗が流れていた。

何か言うべきだろうか。
しかし、と考え焦っていると、闇夜姫は顔を背けまた前を向き歩き出す。
男は胸を撫で下ろし、その後を着いていった。