私は、いつからか考えるのをやめていた。


 この学園に入ってから、当たり障りのない交友関係を築いていた私は、深く考えることをしなくなった気がする。

 周りからも当たり障りのない人間と思われていたせいか、表面上の付き合いだけで過ごせていたため、考える必要がなくなった、と言ったほうが正しいかもしれない。

 だから、いじめについても、自分には関係のない事だったからと考えることをしてこなかった。

 いつだって、受け身でいたな、私は。

 何かを頼まれれば、快く引き受けていたけれど、能動的に動くことは何一つしてこなかった。

 そして、吉田紘子と入れ替わった今になって私は何もしなかった自分が愚かだと感じた。

 いじめというのは、なんて一方的なんだ、と思い知った。

 視野というものは、なんて狭いのか。

 笑ってなにもしようとしない彼女も悪いなんて思っていた自分は、何も見えていなかったのだと、知った。


 ーーーーそう、知ることができたのだ。

 それは、きっと彼女にならなければ気づくことはなかっただろう。

 ケガの功名、不幸中の幸いとでも言えばいいのか、奇妙な体験も驚きと発見に富んでいた。

 そして、どうしたらいじめを終わらせられるのだろう、と考えた時に浮かんだ答えはただ一つ。

 私なら、きっと終わらせられる。

 というか、たぶん私にしか、できない。

 そんなことにすら、気づかなかったなんて、なんてバカなんだろうと自分を罵るのと同時に、私は考える。

 そういえば、まだ中学生の時、学級委員だった私がクラスの皆が言いたい放題でちっともまとまらないと愚痴をこぼしていたら「相手を変えるには、まず自分が変わらないといけないよ」と父に言われたのを思い出した。

 あの時は、どうして私が変わらなければならないのかと意味がわからなかったけど、今ならわかる。

 今、私が動かなければいけない。

 やっぱり、正さなければならない。

 笑ってやり過ごすなんて、間違っている。

 吉田紘子からしたら、自分がいじめにあって逃げ出したいからだと思われても仕方ないけれど。

 これは、今まで、見て見ぬふりをしてきた私から吉田紘子へのせめてもの謝罪。

 所詮、自己満足の偽善行為と笑われても構わない。 

 私は、ほんの少しの期待と不安を胸に、一歩を踏み出して、学校で彼女に声をかける。

「一色さん…、一緒についてきてくれないかな?」

 彼女は、なんて言うだろうか。私なら、どうしただろうか。

 そんなことを考えながら、彼女の返事を待った。

「ーーー良いわよ。行きましょ」

 口の端をすこし上げてそう言って、彼女は立ち上がる。
 周りの驚く視線を浴びながら、私たちは教室を後にした。

「ーーーやってくれるじゃんか、私を巻き込むなんて」

 人が少なくなった廊下で、彼女はようやく口を開いた。普段の吉田紘子とも私とも違うその喋り方に少し違和感を感じながらも、きっと素の彼女なんだと腑に落ちるくらいスムーズな話し方だった。

「怒ってる…よね」
「なんで?」
「だって、今まで何もしなかったのに、自分がいじめにあった途端、こんな風に…」

 本当に、自分でも虫が良いなと思う。

「まーね…」

 自販機までの道のり、行き交う生徒や教師の声が喧騒となって遠くで聞こえる中、私は私の声を聞き逃すまいと耳を澄ました。

「でも、まぁ、私もさ、そんな胸張って威張れる身でもないわけで」

 彼女は、私になって何を見て何を思ったのだろうかと、ふと思った。そして、それを聞きたいような、聞きたくないような、そんなどっちつかずの自分がいることにも気づく。

「助けてくれるんでしょ?」
「私にできるか、わからないけど」

 でも、きっと、できると信じてる。

「一色真理愛に出来なかったら、私を救える人はこの学園にはいないわ」
「そうかもね」
「お、自画自賛」

 なんだかおかしくて、私は「私」と見合って同時に笑った。
 紙パックジュースの自販機にたどり着いて、私は預かったお金を投入する。

「カフェオレとイチゴオレとなんだっけ」

 私がカフェオレを押そうとしたら、横から手が伸びてきてオレンジジュースが押された。

「え」
「むかつくから全部違うの買ってこー」

 押した張本人を振り返れば、私の顔に意地の悪いしたり顔を浮かべていた。「ほら、お金入れて」と促されて入れたら、ことごとく指定されたのと違うジュースを買ってしまった。

「ちょっと、それはやりすぎじゃない…?」

 さすがに、不安になってくる。さっきの、指図してきたクラスメイトの怒りに震える顔が脳裡に浮かんだ。

「いーのいーの、この一色真理愛さまがどかんとカツ入れてあげるから」

 そして、彼女は、ポケットから小銭を出してジュースを買った。

「はい、これは私からのおごり。あ、これ一色真理愛のお金だから、おごりでもなんでもないか」

 私は差し出されたリンゴジュースを受け取りながら、豪快に笑う彼女に見惚れていた。「私」が笑っている。なんだか幸せそうに。

 笑ってるのは、私じゃないのに、見ているこっちまで幸せになったみたいだった。

「私のぶんもおごってねー」

 言いながら、彼女はカフェオレのボタンを押す。
 自分はカフェオレを飲みながら、カフェオレを頼んだあのクラスメイトには違うジュースを渡すのか…なかなかの見ものだ。

 私は、教室に帰った「私」がクラスメイトにどんな言葉を言うのかを想像しながら、おごってもらったリンゴジュースにストローを差してから歩き出す。


 教室までの帰り道、隣を歩く吉田紘子は満足げな表情を浮かべていた。


 ストローを口に運んで一口吸えば、ほろ苦いカフェオレ味が口いっぱいに広がった。









知らなかった ー完ー