一色真理愛の世界は、とても寂しかった。

「ただいまー」

 帰宅してそう言っても、広い吹き抜けの玄関に声がこだまするだけ。

 家に帰っても、一色真理愛は一人だった。

 テーブルには、ラップされた夕食が置かれている。宇和島さんが作ってくれたものだ。彼女は、朝早く家に来て朝食や洗濯、掃除をして夕食をこしらえたら帰ってしまう。

 私はいつも夕食を温めなおして広いダイニングテーブルで一人で食べる。

 テレビもないその部屋では、カチャカチャと食器のあたる音だけがやけに響いて、とてもむなしい。私は部屋に持って行って食べるか、スマホで何かを見ながらして食べるのが日課になっていた。

「ごちそうさまでした」

 もちろん、返ってくる言葉があるはずもないのだけれど、習慣化したものは無意識下ではやめられない。

 父親は、一色真理愛が言った通りほとんど家には帰らないようで、私が一色真理愛になって既に数日が経つが会ったことがない。

 それは、私には救いでしかないけれど、彼女にとってはどうなんだろうか…。

 これでは、家族がいないも同然だ。

 こんなに広い家にたった一人で住んで、彼女は寂しくないのだろうか。

 少なくとも、私にはとても寂しい環境だった。

 そして、彼女は学校でも「寂しい」人だった。

「真理愛さん、おはよう」
「おはよう」

 この人、誰だっけ…。

 登校すると、名前を知らなかったり、思い出せなかったりするクラス内外の生徒に代わる代わる挨拶をされた。

 そして、私は気づく。

 彼女に集まる生徒は皆、同じ目をしているのだ。

『この人に、媚び売っておけばとりあえず大丈夫だわ』

 話しかけてくるヤツみーんな、顔にそう書いてあった。


ーーーーわかりやすいし、あからさまだ。


 どうせやるならもっと上手くやれよと言ってやりたい。

 そうか、女王さまの世界も、色々あるんだね。

 今までの一色真理愛には感じたことのない「哀れみ」が私の胸に確かに生まれた。

 愛想を振りまいて、ホント関心するよ。

 それに関しては、こうなる前からもずっと思っていたことだった。

 3年になって初めて同じクラスになったこの学園の女王さまは、いつもその綺麗な顔に綺麗な笑みを浮かべてにこやかにクラスメイトに接していた。

 人を選ばず誰とでも嫌な顔せず話す一色真理愛を見ているうちに、もしかしてこの人なら、いじめにあっている私を見て助けてくれるかもしれないーーーと、かすかな希望すら描いてしまったほどだ。

 希望は希望でしかなく、世の中はそんなに甘くなかったのだけど。

 クラスメイトに嫌がらせを受けている私を、彼女は無表情に一瞥しただけで、すぐに視線をそらした。

 結局、女王さまも同類ってことか、とかすかな希望は粉々に打ち砕かれ、私は更に暗い所へと落とされた気分だった。

 いじめる奴はもちろん有罪だけど、私からすれば、黙って見ている他のクラスメイトだって同罪も同然だった。

 もはやこの学園の権力者でもある彼女は、クラスで起こっているいじめなど簡単に止めることができるはずなのに、傍観者を決め込んでいた。


 一色真理愛は、私を助けられるのに、助けないのだ。

 私は、それが許せなかった。

 理不尽な怒りだとわかっている。助けるも助けないも彼女の自由ではあることも。

 それでも、宿題を忘れて困っているクラスメイトには手を差し出すのに、いじめられているクラスメイトには見て見ぬふりを貫き通す。

 その、差がなんなのか、理解できなかった。

 だから、入れ替わった日の朝、彼女が学校を休もうと言い出した時、カッと頭に血が上って売春してやる、なんて脅し文句が出てしまった。

 自分がいじめられるとなった途端、逃げるのか、と。

 そんなのは、虫が良すぎる。


 ーーーーだから、「私」は今も「見ている」。


 ざまあみろ。

 自分が、いじめを止めておけば、入れ替わった今だって、ひどい目に合わずに済んだのに。

 今、私の目の前でいじめを受けている一色真理愛にそう言ってやりたかった。

「やだ、ごめぇん、躓いちゃってー」
「吉田さん、ずぶぬれだけどだいじょーぶー?」

 掃除から戻った私の目に映ったのは、腰から下がずぶぬれになって立ち尽くす「私」。その傍に転がるバケツと濡れた床。そして少し離れたところから「私」を嘲笑う2人。

 水をかけられたのだなとすぐにわかった。

 物々しい雰囲気の教室に入れずに廊下から見物するギャラリーを見て、あぁ、「私」がやられてるんだなと思いながら私もそのギャラリーに加わり、ことの次第を見ていた。

 「私」が、ふと顔を上げ、私を見た。

 その目は、私に何かを求めているのかもしれないけど、私には読み取れない。

「あれー、あたしら謝ってるのにー、なんもないわけ?」
「ホント、これじゃまるであたしらが悪者になっちゃうー」

 立ち尽くす「私」に、いつもの実行グループの2人が騒ぎ立てる。「私」が何も言わないせいで、間が持たなかったのだろう。


 ーーー笑うんだよ、一色真理愛。


 私は、心の中で彼女に言う。


 ーーーいつも見てるんだから、わかるでしょう?


 早くしないと、追い打ちかかるよ、と他人事のように思いながら、私は踵を返す。
 

「ご、ごめんなさい。ぼーっとしてた私が悪いの。バケツも私が片づけるね…」


 数歩進んだ私の耳にも届いたその声は、まるで私の心の声が聞こえたかのように確かに笑っていた。