吉田紘子は、いわゆるいじめの格好の的だった。

 数年前に設けられた、学園の奨学生枠で入学してきた通称「貧乏生」。あだ名は名前にちなんで貧子(ひんこ)

 3年で、初めて奨学生枠の生徒と一緒のクラスになったけれど、こんなにもひどいいじめを目にするのは初めてだった。

 これまでの2年間も女子特有の人間関係のもつれによるいざこざはあったけれど、漫画でしか見たことがないような陰湿かつ大胆ないじめは目にしたことがなかった。

 よくもまぁ、ここまでできるな、と関心すら覚えるほどだ。

 しかし、これほどまでにいじめを助長している理由を、私は知っている。

 それは、吉田紘子が笑うからだ。

 何かをされても、愛想笑いを浮かべて「ごめん」と謝るのだ。酷い時には、自分が悪かったと言って。だから相手も図に乗るのだとどうしてわからないのだろうか。

 正直、いじめられるほうもほうだ。
 なぜ、抵抗しないのか、理解に苦しむ。

 抵抗が無理だとしても、相手を肯定するのは、違うと思う。

 もう少し、いじめに合わないように注意するとか、どうにかなるものじゃないのかと。

 けれど、そんな思考も次の瞬間には消え去っていく。

 だって、私には関係のない話だから。


 そう、全く関係のない話だった…今までは。


 吉田紘子と別れたあと、私は先に教室へと向かう。昇降口から教室までのたった数分の距離、すれ違う人から「私」に注がれる視線に、足元が竦んだ。

 クラスメイト以外の生徒からも、蔑みを含んだ遠慮のない視線が向けられて、私は知らないうちに冷や汗をかいていて、鞄の持つ手に自然と力が入る。

 なにこれ…人のこんな視線、私知らない。

 これほどまでに、違うものなの…?

 普段の私に向けられるそれとは、明らかに違うその視線は、侮蔑と嘲笑、嫌悪などがぐちゃぐちゃに混ざった負のエネルギーに満ちていた。

 嫌だ…、帰りたい。

 今すぐ、家に帰りたい。

 朝からショッキングなことばかりで、頭が追いついていないところにこれだ。まだ教室にもたどり着いていないのに、すでにどうにかなりそうだった。


 その日は、幸いにも何事もなく1日を終え、帰路につく。

 今朝来た道を戻り、ボロアパートの錆びた階段を登り、鍵を開けた。

「おかえりー」

 玄関から見える台所に立つ「お母さん」が、こちらをにこやかな顔で見ていた。

「た、ただいま」

 ーーーー母親の、「おかえり」は、なんてあたたかいんだろうか。

 その言葉は、「私」に向けられたものではないとわかっているのに、疲弊しきった体と頭にじんわりと染みわたる。あたたかい優しい何かが広がっていく。それと同時に鼻の奥がツンとした。

 ダメだ、泣きそう。

「お母さん、もう仕事いかなきゃだから。ごはんあっためて食べてね」
「うん、わかった。いってらっしゃい」

 エプロンを外しながら早口に言う「お母さん」から逃げるように私は奥の部屋へ向かう。後ろ手でドアを閉め、背中を預けて耳を澄ますと、しばらくして玄関ドアが閉まり鍵がかかる音が聞こえてきた。

 彼女、吉田紘子の母親は工場勤務で、これから夜勤の出勤だった。週に何度か夜勤の日があり、その日は夕方に家を出て翌日の昼過ぎに帰宅する。だから、夜勤明けの日は吉田紘子が夕飯の買い物をして帰宅し、夕飯も作らなければならないらしい。

「はぁ…」

 人知れずため息がこぼれる。今日で何度目だろうか。

 目が覚めてから、怒涛の1日がようやく終わろうとしている今、私はとても不思議な気分だった。

 私は、今まで、お金に不自由のない暮らしをしてきたし、自分を不幸だと思ったことは正直なかった。小さいころに母親を亡くしたせいか、母親の記憶もほとんどないため「寂しい」という感情は無かった。

 母親がやることは全てお手伝いさんの宇和島さんがしてくれたし、欲しいものはなんでも手に入った。


 ーーーーそれが、今朝、吉田紘子の家で目を覚ました私は、自分が手にするはずだった「日常の幸せ」を目の当たりにしてしまった。

 朝起きて、母親と挨拶を交わし、朝食をともにして、「いってらっしゃい」と送り出してもらう。

 それが、なんて尊いものなんだろう、と学校への道すがら私はかみしめていた。

 慈しみに溢れた、私を見つめる「お母さん」の視線。

 それは、宇和島さんの視線とは、全くの別物だった。

 母親の「おかえり」は、学校でのあの視線を受けて疲れ果てた心と体を癒してくれた。すさんで毛羽立った心を優しく撫でるように…。

 例え、貧しくとも、私には二度と手に入れることのできない、幸せがここにはある。

 知らぬが仏。

 知らないほうが良い事って、あるんだ…。

「うぅ…、っ」

 耐えていた涙が頬を伝い、床にシミを作った。

 私なのに、私じゃない。
 涙を流したのは、私。

 でも、この涙は、吉田紘子の涙だ。

 悲しむことさえ、容易にはさせてくれないのか。

 体と心がちぐはぐなこの奇妙な現状。

 今日眠りにつけば、朝には私の体に戻っているかもしれない。

 きっとそうだ、そうに違いない。

 私はそう信じて、「お母さん」が用意してくれた質素な食事を済ませ、シャワーを浴びるとすぐに眠りについたのだった。