*
一色真理愛は、いわゆるカースト上位に位置する人間だ。
品行方正、才色兼備の超優等生。更に父親はこの学園の理事長と旧知の仲で、多額の寄付をしている。
そして、3年生になった今、事実上、彼女は頂点に君臨したと言っても過言ではなかった。
彼女と同じクラスになって、そんな恵まれた境遇にある彼女の見る景色とはどんなに素晴らしいものなのだろうか、と思いを馳せたことは幾度もある。
さぞ、色鮮やかに煌めき輝いているのだろう、と。
そして、その後には必ず自分の姿を思い返してみじめな気持ちになった。
私、吉田紘子は、物心ついた時から父のいない母子家庭に育ち、いわゆるシングルマザーの代表的な貧困家庭だった。工場勤務の母の稼ぎでは、高校進学どころか、3食満足に食べることも難しいくらいだった。
それでも、どうしても高校を卒業したいと思った私は、中3の時の担任にこの学園に設けられた奨学生枠を紹介されて、必死で勉強して入学を果たした。
この奨学生枠というのは貧困家庭のための救済措置の一つで、学費のみならず教科書代や制服代、はたまた学食での昼食代も免除という夢のような待遇だった。
しかし、私立の女子高で、そこそこ裕福な家庭でないと入れないようなこの学園において、奨学生枠の生徒は「学園の品位を損なう」「ブランドを汚す」「恥さらし」というレッテルを貼られて、いじめのターゲットになっていた。
もともとこの制度は、学園のボランティア事業の一環として学園側も「仕方なく」設けられた背景があり、入学後の奨学生枠の生徒に関して、休学しようが自主退学しようが知らん顔を決め込んでいた。
そんな、奨学生枠で入った私はこれまでずっといじめに耐えてきた。
だって、私には、ここ以外選択肢がないんだから。
中卒で働くなんて、まっぴらごめんだ。
学歴なんて意味がない?
そんなのは、学歴や才能を持っている人の戯言だ。
せめて、高校だけは卒業したい。
その先は、きっと、どうとでもなる。
私は、そう信じて「今」を耐えていた。
そんな矢先だった。
前触れなんて、何もない。
目が覚めた私の目に映ったのは、見慣れない装飾の壁紙が貼られた天井。
ここ、どこ…、まだ夢か…。
やわらかなクッションを背中に感じながら、私はもう一度目を閉じる。
「真理愛さん、宇和島です。朝食の用意は出来ていますが」
ノックと一緒にドアの向こうから届いた声に、飛び跳ねた心拍と一緒に体も飛び起きた。
「真理愛さん?起きてますか?…入りますよ?」
まりあって、誰。
見渡す室内は、やっぱり自分の家ではなくて、見たこともない部屋だった。
返事を待たずに開かれた扉から顔を出した女性は、中肉中背の50代くらいのおばさん。
「おはようございます。返事もなくて、てっきり体調が悪いのかと…。学校はどうされます?行きますか?」
宇和島と名乗っていた彼女は、今初めて会ったというのにごく自然と私にそう聞いてきた。
「えっと…、あの…」
言葉を選んでいる私の視界の端に何かがすっと動いたような気がして振り向く。
「っ!?」
振り向いた私の目に映った、その姿に息が止まった。
一色真理愛…!
彼女は、驚いた顔でこちらを見つめていた。
あまりの衝撃に手で口を覆うと、シンクロするかのように彼女も同じ動作をしたので、それが鏡だと気づくのにそう時間はかからなかった。
私が、一色真理愛になっている…?
「やっぱり、体調がよろしくないのでは…?」
鏡を見ながら顔を触り、手を見つめ、怪しい動きをする私を体調不良のせいだと納得したのか、学校には私のほうから連絡しておきますね、と言う宇和島さんを慌てて引き留めた。
「だ、大丈夫…だから」
「そう、ですか。では、下でお待ちしていますね」
ドアが閉められて、訪れる静寂。
「…夢…?」
そうだ、これは夢なんだ。
一色真理愛の世界はどんなものだろうか、と想像を膨らませたために見た夢。
ならば、夢から覚めるまでの間、堪能しようじゃないの、と私は勢いよくベッドから飛び降りた。
それからは、まるでおとぎ話のヒロインにでもなったような気分だった。クリーニングされ、皺ひとつない制服に袖を通し、広い家の中を迷いながら階下に降りれば、モダンシックなリビングテーブルに用意された豪華な朝食が私を待っていた。
私が椅子に座ると宇和島さんが、温めなおしたスープと出来立てのトーストを運んできてくれたので私は手を合わせる。
「いただきます」
ただ半分に切られただけのハムは、私の知るスーパーのハムではなかったし、スープも粉末スープではなかった。山形の食パンもシャキシャキのレタスも、お皿の上に置かれたそのどれもが、私がいままで食べたものとは比べ物にならない程美味しかった。
「ごちそうさまでした」
本当は、おかわりしたい程だったけれど、豆鉄砲をくらったような顔の宇和島さんに気づいて自粛した。
普段の一色真理愛は、どんな感じなんだろう…。
そんなこと私が知るはずもなく。
宇和島さんに急かされるように送迎の車に乗れば、あっという間に学園に到着したのだった。
そして、来客用のロータリーで降りた私を待ち受けていたのは、「私」の姿をした誰か。
「…吉田さん…よね…?」
あ、これ、夢じゃないんだ…。
声をかけられた瞬間、なぜかそう思った。さっきまで、夢だと思っていたけれど、これは現実だ、と確信した。
私なのに私じゃない彼女は人目を気にしながら近づいて来る。その歩き方でさえ、私ではないと感じるほど、優雅に見えた。
「一色さん…?」
「うん…」
一色真理愛と会話をしたのは初めてだった。
3年で初めて一緒のクラスになったのだからそんなにおかしなことではない気もするけれど、私と彼女では会話もしたことがないほど本当に住む世界が違ったのだ。
しかも、私の声で会話をすることになるなんて、とても不思議。自分の声は人にはこんな風に聞こえるのか…と、どこか違和感すら感じた。
家でも、学校でも。
名実ともに、別世界の住人だった。
「驚いた…、朝起きたら知らないところに居て…。こんな漫画みたいな話、まさか自分に起こるなんて…」
「うん…、私も、今の今まで夢かと思ってた…。一色さんて、本当にお嬢さまだったんだね、お手伝いさん居てびっくりした」
「私、母親いないし、父親は仕事でほとんど家にないから…。それより、どうしたら良いのかしら。もとに戻るまでお互い学校休む?」
「え!それは困る!知ってると思うけど、私奨学生枠だから!」
出席日数が足りなければ即援助は打ち切り、退学処分だ。
「ま、まぁ、それはうちの父から学長に口添えしてもらえばなんとかなると思うのだけど…。問題は口実よね…」
「でも…、元に戻るまでって、いつ?」
「そんなの、私に聞かれたって困るわ」
「そうでしょ?いつになるかもわからないのに…、私は、あなたと違って勉強だってちゃんとしなきゃなの。成績も落とせない。休んでてテストの前日とかにもとに戻ってテスト受けろって言われたって困る!」
「だ、だから、それは学長に言ってなんとかーーー」
「そんなの、なんの保証もないじゃない!」
いざ学長に話したとして、それを学長が聞き入れるかどうかなんてその時にならなきゃわかったものじゃない。そんな危ない橋は、渡れない。
「何よ、私が言うことが信じられないっていうの?第一、あなたの体で学校に来て、私になんのメリットがあるのよ」
一色真理愛の言っている意味が、重くのしかかる。
そりゃそうだ。
学園のいわば女王様がいじめの標的になどなったって、メリットなんかあるわけないのだ。
「ーーー学校来ないっていうなら、この体好きにさせてもらうわよ」
そっちがそう出るなら、こっちだって。人質みたいなものなんだから。
「どういう意味」
「そのまんまの意味。私の体で学校来ないなら、私はあなたの体で好き勝手やらせてもらう」
私には、失うものなんてないんだから。
「そうね、売春とかどう?あなたの体だからどうなっても構わないし」
目の前の私の顔がみるみる青ざめてくるのを見ながら、私は心の中でも笑っていた。バカね、そんなこと出来るわけないのに、本気にして。
「…わかったわ、来ればいいんでしょ、来れば。少しの間だと思って我慢するわ…。だからあなたもバカな真似は謹んで頂戴よ」
「一色さんが学校来て授業受けてくれさえすれば、文句はないから」
約束よ、と互いに深くうなずいた。
そして、手短にお互いの身の回りのことを話して、スマホを交換。連絡先も交換して毎日必ず報告し合うことを約束した。
私と一色真理愛の二人だけの秘密の日々は、こうして幕を切った。
一色真理愛は、いわゆるカースト上位に位置する人間だ。
品行方正、才色兼備の超優等生。更に父親はこの学園の理事長と旧知の仲で、多額の寄付をしている。
そして、3年生になった今、事実上、彼女は頂点に君臨したと言っても過言ではなかった。
彼女と同じクラスになって、そんな恵まれた境遇にある彼女の見る景色とはどんなに素晴らしいものなのだろうか、と思いを馳せたことは幾度もある。
さぞ、色鮮やかに煌めき輝いているのだろう、と。
そして、その後には必ず自分の姿を思い返してみじめな気持ちになった。
私、吉田紘子は、物心ついた時から父のいない母子家庭に育ち、いわゆるシングルマザーの代表的な貧困家庭だった。工場勤務の母の稼ぎでは、高校進学どころか、3食満足に食べることも難しいくらいだった。
それでも、どうしても高校を卒業したいと思った私は、中3の時の担任にこの学園に設けられた奨学生枠を紹介されて、必死で勉強して入学を果たした。
この奨学生枠というのは貧困家庭のための救済措置の一つで、学費のみならず教科書代や制服代、はたまた学食での昼食代も免除という夢のような待遇だった。
しかし、私立の女子高で、そこそこ裕福な家庭でないと入れないようなこの学園において、奨学生枠の生徒は「学園の品位を損なう」「ブランドを汚す」「恥さらし」というレッテルを貼られて、いじめのターゲットになっていた。
もともとこの制度は、学園のボランティア事業の一環として学園側も「仕方なく」設けられた背景があり、入学後の奨学生枠の生徒に関して、休学しようが自主退学しようが知らん顔を決め込んでいた。
そんな、奨学生枠で入った私はこれまでずっといじめに耐えてきた。
だって、私には、ここ以外選択肢がないんだから。
中卒で働くなんて、まっぴらごめんだ。
学歴なんて意味がない?
そんなのは、学歴や才能を持っている人の戯言だ。
せめて、高校だけは卒業したい。
その先は、きっと、どうとでもなる。
私は、そう信じて「今」を耐えていた。
そんな矢先だった。
前触れなんて、何もない。
目が覚めた私の目に映ったのは、見慣れない装飾の壁紙が貼られた天井。
ここ、どこ…、まだ夢か…。
やわらかなクッションを背中に感じながら、私はもう一度目を閉じる。
「真理愛さん、宇和島です。朝食の用意は出来ていますが」
ノックと一緒にドアの向こうから届いた声に、飛び跳ねた心拍と一緒に体も飛び起きた。
「真理愛さん?起きてますか?…入りますよ?」
まりあって、誰。
見渡す室内は、やっぱり自分の家ではなくて、見たこともない部屋だった。
返事を待たずに開かれた扉から顔を出した女性は、中肉中背の50代くらいのおばさん。
「おはようございます。返事もなくて、てっきり体調が悪いのかと…。学校はどうされます?行きますか?」
宇和島と名乗っていた彼女は、今初めて会ったというのにごく自然と私にそう聞いてきた。
「えっと…、あの…」
言葉を選んでいる私の視界の端に何かがすっと動いたような気がして振り向く。
「っ!?」
振り向いた私の目に映った、その姿に息が止まった。
一色真理愛…!
彼女は、驚いた顔でこちらを見つめていた。
あまりの衝撃に手で口を覆うと、シンクロするかのように彼女も同じ動作をしたので、それが鏡だと気づくのにそう時間はかからなかった。
私が、一色真理愛になっている…?
「やっぱり、体調がよろしくないのでは…?」
鏡を見ながら顔を触り、手を見つめ、怪しい動きをする私を体調不良のせいだと納得したのか、学校には私のほうから連絡しておきますね、と言う宇和島さんを慌てて引き留めた。
「だ、大丈夫…だから」
「そう、ですか。では、下でお待ちしていますね」
ドアが閉められて、訪れる静寂。
「…夢…?」
そうだ、これは夢なんだ。
一色真理愛の世界はどんなものだろうか、と想像を膨らませたために見た夢。
ならば、夢から覚めるまでの間、堪能しようじゃないの、と私は勢いよくベッドから飛び降りた。
それからは、まるでおとぎ話のヒロインにでもなったような気分だった。クリーニングされ、皺ひとつない制服に袖を通し、広い家の中を迷いながら階下に降りれば、モダンシックなリビングテーブルに用意された豪華な朝食が私を待っていた。
私が椅子に座ると宇和島さんが、温めなおしたスープと出来立てのトーストを運んできてくれたので私は手を合わせる。
「いただきます」
ただ半分に切られただけのハムは、私の知るスーパーのハムではなかったし、スープも粉末スープではなかった。山形の食パンもシャキシャキのレタスも、お皿の上に置かれたそのどれもが、私がいままで食べたものとは比べ物にならない程美味しかった。
「ごちそうさまでした」
本当は、おかわりしたい程だったけれど、豆鉄砲をくらったような顔の宇和島さんに気づいて自粛した。
普段の一色真理愛は、どんな感じなんだろう…。
そんなこと私が知るはずもなく。
宇和島さんに急かされるように送迎の車に乗れば、あっという間に学園に到着したのだった。
そして、来客用のロータリーで降りた私を待ち受けていたのは、「私」の姿をした誰か。
「…吉田さん…よね…?」
あ、これ、夢じゃないんだ…。
声をかけられた瞬間、なぜかそう思った。さっきまで、夢だと思っていたけれど、これは現実だ、と確信した。
私なのに私じゃない彼女は人目を気にしながら近づいて来る。その歩き方でさえ、私ではないと感じるほど、優雅に見えた。
「一色さん…?」
「うん…」
一色真理愛と会話をしたのは初めてだった。
3年で初めて一緒のクラスになったのだからそんなにおかしなことではない気もするけれど、私と彼女では会話もしたことがないほど本当に住む世界が違ったのだ。
しかも、私の声で会話をすることになるなんて、とても不思議。自分の声は人にはこんな風に聞こえるのか…と、どこか違和感すら感じた。
家でも、学校でも。
名実ともに、別世界の住人だった。
「驚いた…、朝起きたら知らないところに居て…。こんな漫画みたいな話、まさか自分に起こるなんて…」
「うん…、私も、今の今まで夢かと思ってた…。一色さんて、本当にお嬢さまだったんだね、お手伝いさん居てびっくりした」
「私、母親いないし、父親は仕事でほとんど家にないから…。それより、どうしたら良いのかしら。もとに戻るまでお互い学校休む?」
「え!それは困る!知ってると思うけど、私奨学生枠だから!」
出席日数が足りなければ即援助は打ち切り、退学処分だ。
「ま、まぁ、それはうちの父から学長に口添えしてもらえばなんとかなると思うのだけど…。問題は口実よね…」
「でも…、元に戻るまでって、いつ?」
「そんなの、私に聞かれたって困るわ」
「そうでしょ?いつになるかもわからないのに…、私は、あなたと違って勉強だってちゃんとしなきゃなの。成績も落とせない。休んでてテストの前日とかにもとに戻ってテスト受けろって言われたって困る!」
「だ、だから、それは学長に言ってなんとかーーー」
「そんなの、なんの保証もないじゃない!」
いざ学長に話したとして、それを学長が聞き入れるかどうかなんてその時にならなきゃわかったものじゃない。そんな危ない橋は、渡れない。
「何よ、私が言うことが信じられないっていうの?第一、あなたの体で学校に来て、私になんのメリットがあるのよ」
一色真理愛の言っている意味が、重くのしかかる。
そりゃそうだ。
学園のいわば女王様がいじめの標的になどなったって、メリットなんかあるわけないのだ。
「ーーー学校来ないっていうなら、この体好きにさせてもらうわよ」
そっちがそう出るなら、こっちだって。人質みたいなものなんだから。
「どういう意味」
「そのまんまの意味。私の体で学校来ないなら、私はあなたの体で好き勝手やらせてもらう」
私には、失うものなんてないんだから。
「そうね、売春とかどう?あなたの体だからどうなっても構わないし」
目の前の私の顔がみるみる青ざめてくるのを見ながら、私は心の中でも笑っていた。バカね、そんなこと出来るわけないのに、本気にして。
「…わかったわ、来ればいいんでしょ、来れば。少しの間だと思って我慢するわ…。だからあなたもバカな真似は謹んで頂戴よ」
「一色さんが学校来て授業受けてくれさえすれば、文句はないから」
約束よ、と互いに深くうなずいた。
そして、手短にお互いの身の回りのことを話して、スマホを交換。連絡先も交換して毎日必ず報告し合うことを約束した。
私と一色真理愛の二人だけの秘密の日々は、こうして幕を切った。