「立場」は読んで字のごとく、立っている場所。

 当然のように、立場が違えば見える景色が違う。
 たった1段登った階段の上からでも見える景色は違う。

 そのことから、その人が置かれている境遇や地位、その人の観点などを意味する。
 よく、相手の立場になって物事を考えろとか言うけれど、行ったこともない山の頂上から見える景色を想像しろといわれているようなもの。

 そう、結局人は、その場所に立ってみないことにはなにもわからないし何も始まらないのだ。
 想像は、所詮想像で。経験の1割にも及ばない。
 そのことを、人は理解しているようでいて、全くわかっていないのだ。

 そして、それは、他ならぬ自分にも当てはまることなのだけれど…。


 今、こうして、ここに立って初めて、私はその「立場」からの景色がどういうものなのかを経験した。


 そして初めて、やっと、ようやく、それを「思い知った」のだった。


「やだ、ごめぇん、躓いちゃってー」
「吉田さん、ずぶぬれだけどだいじょーぶー?」

 謝罪と心配の言葉とは相反してとても楽しそうな表情を浮かべる目の前のクラスメイト。その顔が、自分に向けられているのだと、理解するのに少し時間がかかった。

 掃除の時間、掃き掃除をしていた私は、雑巾を洗った汚れた水の入ったバケツを突然ぶちまけられた。腰から下がびしょ濡れになってしまってスカートが足に張り付く。雑巾独特の埃の生臭さがぷんぷんして一瞬吐き気がした。

 もちろん、躓いたわけでは決してない。それは、明らかに意図的なもの。

 彼女たちから向けられる悪意に、私は立ち尽くすしかなかった。自らのうっぷんを晴らすかのように嘲笑うその目、大きく開かれた口、ちっとも悪いと思っていない心のこもっていない言葉。そのどれもが、鉛のように重く私にのしかかって、思考を停止させた。


ーーーと、その時、数ある視線の中、一つの視線にひかれるように私は目を向ける。

 「私」が、いた。
 廊下の窓からこちらを見ている、「私」と目が合う。
 無表情なその顔から、感情は読み取れない。
 彼女は私で、私は彼女だ。
 数日前、私と彼女は中身がすっぽりと入れ替わってしまったのだった。

「あれー、あたしら謝ってるのにー、なんもないわけ?」
「ホント、これじゃまるであたしらが悪者になっちゃうー」

 耳ざわりな声に、思考が戻された。
 下手に出ていれば、調子に乗りやがって、と彼女たちは言っている。
ふざけるな、と口から出そうになる。沸き起こってきた怒りを私は慌てて押さえつけて、代わりに得意の笑顔の仮面を顔に貼り付けた。

ーーーーいつも「私」がしているように。

「ご、ごめんなさい。ぼーっとしてた私が悪いの。バケツも私が片づけるね…」
「よろしくねー」

 満足げに笑いながら彼女たちは去っていく。

 私は…、吉田紘子(よしだひろこ)じゃない…。

私は、一色真理愛(いっしきまりあ)なのに。


 廊下に目をやると、さっきまでいた「私」の姿はもうなかった。
 



 一色真理愛は、いわゆるカースト上位に位置する人間だ。

品行方正、才色兼備の超優等生。更に父親はこの学園の理事長と旧知の仲で、多額の寄付をしている。

 そして、3年生になった今、事実上、彼女は頂点に君臨したと言っても過言ではなかった。
 彼女と同じクラスになって、そんな恵まれた境遇にある彼女の見る景色とはどんなに素晴らしいものなのだろうか、と思いを馳せたことは幾度もある。

 さぞ、色鮮やかに煌めき輝いているのだろう、と。

 そして、その後には必ず自分の姿を思い返してみじめな気持ちになった。

 私、吉田紘子は、物心ついた時から父のいない母子家庭に育ち、いわゆるシングルマザーの代表的な貧困家庭だった。工場勤務の母の稼ぎでは、高校進学どころか、3食満足に食べることも難しいくらいだった。

 それでも、どうしても高校を卒業したいと思った私は、中3の時の担任にこの学園に設けられた奨学生枠を紹介されて、必死で勉強して入学を果たした。

 この奨学生枠というのは貧困家庭のための救済措置の一つで、学費のみならず教科書代や制服代、はたまた学食での昼食代も免除という夢のような待遇だった。

 しかし、私立の女子高で、そこそこ裕福な家庭でないと入れないようなこの学園において、奨学生枠の生徒は「学園の品位を損なう」「ブランドを汚す」「恥さらし」というレッテルを貼られて、いじめのターゲットになっていた。

 もともとこの制度は、学園のボランティア事業の一環として学園側も「仕方なく」設けられた背景があり、入学後の奨学生枠の生徒に関して、休学しようが自主退学しようが知らん顔を決め込んでいた。
 そんな、奨学生枠で入った私はこれまでずっといじめに耐えてきた。

 だって、私には、ここ以外選択肢がないんだから。

 中卒で働くなんて、まっぴらごめんだ。
 学歴なんて意味がない?

 そんなのは、学歴や才能を持っている人の戯言だ。

 せめて、高校だけは卒業したい。

 その先は、きっと、どうとでもなる。
 私は、そう信じて「今」を耐えていた。

 そんな矢先だった。

 前触れなんて、何もない。

 目が覚めた私の目に映ったのは、見慣れない装飾の壁紙が貼られた天井。


 ここ、どこ…、まだ夢か…。

 やわらかなクッションを背中に感じながら、私はもう一度目を閉じる。

「真理愛さん、宇和島です。朝食の用意は出来ていますが」

 ノックと一緒にドアの向こうから届いた声に、飛び跳ねた心拍と一緒に体も飛び起きた。

「真理愛さん?起きてますか?…入りますよ?」

 まりあって、誰。
 見渡す室内は、やっぱり自分の家ではなくて、見たこともない部屋だった。
 返事を待たずに開かれた扉から顔を出した女性は、中肉中背の50代くらいのおばさん。

「おはようございます。返事もなくて、てっきり体調が悪いのかと…。学校はどうされます?行きますか?」

 宇和島と名乗っていた彼女は、今初めて会ったというのにごく自然と私にそう聞いてきた。

「えっと…、あの…」

 言葉を選んでいる私の視界の端に何かがすっと動いたような気がして振り向く。

「っ!?」

 振り向いた私の目に映った、その姿に息が止まった。

 一色真理愛…!

 彼女は、驚いた顔でこちらを見つめていた。
 あまりの衝撃に手で口を覆うと、シンクロするかのように彼女も同じ動作をしたので、それが鏡だと気づくのにそう時間はかからなかった。

 私が、一色真理愛になっている…?

「やっぱり、体調がよろしくないのでは…?」

 鏡を見ながら顔を触り、手を見つめ、怪しい動きをする私を体調不良のせいだと納得したのか、学校には私のほうから連絡しておきますね、と言う宇和島さんを慌てて引き留めた。

「だ、大丈夫…だから」
「そう、ですか。では、下でお待ちしていますね」

 ドアが閉められて、訪れる静寂。

「…夢…?」

 そうだ、これは夢なんだ。

 一色真理愛の世界はどんなものだろうか、と想像を膨らませたために見た夢。

 ならば、夢から覚めるまでの間、堪能しようじゃないの、と私は勢いよくベッドから飛び降りた。


 それからは、まるでおとぎ話のヒロインにでもなったような気分だった。クリーニングされ、皺ひとつない制服に袖を通し、広い家の中を迷いながら階下に降りれば、モダンシックなリビングテーブルに用意された豪華な朝食が私を待っていた。

 私が椅子に座ると宇和島さんが、温めなおしたスープと出来立てのトーストを運んできてくれたので私は手を合わせる。

「いただきます」

 ただ半分に切られただけのハムは、私の知るスーパーのハムではなかったし、スープも粉末スープではなかった。山形の食パンもシャキシャキのレタスも、お皿の上に置かれたそのどれもが、私がいままで食べたものとは比べ物にならない程美味しかった。

「ごちそうさまでした」

 本当は、おかわりしたい程だったけれど、豆鉄砲をくらったような顔の宇和島さんに気づいて自粛した。

 普段の一色真理愛は、どんな感じなんだろう…。

 そんなこと私が知るはずもなく。

 宇和島さんに急かされるように送迎の車に乗れば、あっという間に学園に到着したのだった。

 そして、来客用のロータリーで降りた私を待ち受けていたのは、「私」の姿をした誰か。

「…吉田さん…よね…?」

 あ、これ、夢じゃないんだ…。

 声をかけられた瞬間、なぜかそう思った。さっきまで、夢だと思っていたけれど、これは現実だ、と確信した。

 私なのに私じゃない彼女は人目を気にしながら近づいて来る。その歩き方でさえ、私ではないと感じるほど、優雅に見えた。

「一色さん…?」
「うん…」

 一色真理愛と会話をしたのは初めてだった。

 3年で初めて一緒のクラスになったのだからそんなにおかしなことではない気もするけれど、私と彼女では会話もしたことがないほど本当に住む世界が違ったのだ。

 しかも、私の声で会話をすることになるなんて、とても不思議。自分の声は人にはこんな風に聞こえるのか…と、どこか違和感すら感じた。

 家でも、学校でも。
 名実ともに、別世界の住人だった。

「驚いた…、朝起きたら知らないところに居て…。こんな漫画みたいな話、まさか自分に起こるなんて…」
「うん…、私も、今の今まで夢かと思ってた…。一色さんて、本当にお嬢さまだったんだね、お手伝いさん居てびっくりした」
「私、母親いないし、父親は仕事でほとんど家にないから…。それより、どうしたら良いのかしら。もとに戻るまでお互い学校休む?」
「え!それは困る!知ってると思うけど、私奨学生枠だから!」

 出席日数が足りなければ即援助は打ち切り、退学処分だ。

「ま、まぁ、それはうちの父から学長に口添えしてもらえばなんとかなると思うのだけど…。問題は口実よね…」
「でも…、元に戻るまでって、いつ?」
「そんなの、私に聞かれたって困るわ」
「そうでしょ?いつになるかもわからないのに…、私は、あなたと違って勉強だってちゃんとしなきゃなの。成績も落とせない。休んでてテストの前日とかにもとに戻ってテスト受けろって言われたって困る!」
「だ、だから、それは学長に言ってなんとかーーー」
「そんなの、なんの保証もないじゃない!」

 いざ学長に話したとして、それを学長が聞き入れるかどうかなんてその時にならなきゃわかったものじゃない。そんな危ない橋は、渡れない。

「何よ、私が言うことが信じられないっていうの?第一、あなたの体で学校に来て、私になんのメリットがあるのよ」

 一色真理愛の言っている意味が、重くのしかかる。

 そりゃそうだ。

 学園のいわば女王様がいじめの標的になどなったって、メリットなんかあるわけないのだ。

「ーーー学校来ないっていうなら、この体好きにさせてもらうわよ」

 そっちがそう出るなら、こっちだって。人質みたいなものなんだから。

「どういう意味」
「そのまんまの意味。私の体で学校来ないなら、私はあなたの体で好き勝手やらせてもらう」

 私には、失うものなんてないんだから。

「そうね、売春とかどう?あなたの体だからどうなっても構わないし」

 目の前の私の顔がみるみる青ざめてくるのを見ながら、私は心の中でも笑っていた。バカね、そんなこと出来るわけないのに、本気にして。

「…わかったわ、来ればいいんでしょ、来れば。少しの間だと思って我慢するわ…。だからあなたもバカな真似は謹んで頂戴よ」
「一色さんが学校来て授業受けてくれさえすれば、文句はないから」

 約束よ、と互いに深くうなずいた。

 そして、手短にお互いの身の回りのことを話して、スマホを交換。連絡先も交換して毎日必ず報告し合うことを約束した。


 私と一色真理愛の二人だけの秘密の日々は、こうして幕を切った。




 吉田紘子は、いわゆるいじめの格好の的だった。

 数年前に設けられた、学園の奨学生枠で入学してきた通称「貧乏生」。あだ名は名前にちなんで貧子(ひんこ)

 3年で、初めて奨学生枠の生徒と一緒のクラスになったけれど、こんなにもひどいいじめを目にするのは初めてだった。

 これまでの2年間も女子特有の人間関係のもつれによるいざこざはあったけれど、漫画でしか見たことがないような陰湿かつ大胆ないじめは目にしたことがなかった。

 よくもまぁ、ここまでできるな、と関心すら覚えるほどだ。

 しかし、これほどまでにいじめを助長している理由を、私は知っている。

 それは、吉田紘子が笑うからだ。

 何かをされても、愛想笑いを浮かべて「ごめん」と謝るのだ。酷い時には、自分が悪かったと言って。だから相手も図に乗るのだとどうしてわからないのだろうか。

 正直、いじめられるほうもほうだ。
 なぜ、抵抗しないのか、理解に苦しむ。

 抵抗が無理だとしても、相手を肯定するのは、違うと思う。

 もう少し、いじめに合わないように注意するとか、どうにかなるものじゃないのかと。

 けれど、そんな思考も次の瞬間には消え去っていく。

 だって、私には関係のない話だから。


 そう、全く関係のない話だった…今までは。


 吉田紘子と別れたあと、私は先に教室へと向かう。昇降口から教室までのたった数分の距離、すれ違う人から「私」に注がれる視線に、足元が竦んだ。

 クラスメイト以外の生徒からも、蔑みを含んだ遠慮のない視線が向けられて、私は知らないうちに冷や汗をかいていて、鞄の持つ手に自然と力が入る。

 なにこれ…人のこんな視線、私知らない。

 これほどまでに、違うものなの…?

 普段の私に向けられるそれとは、明らかに違うその視線は、侮蔑と嘲笑、嫌悪などがぐちゃぐちゃに混ざった負のエネルギーに満ちていた。

 嫌だ…、帰りたい。

 今すぐ、家に帰りたい。

 朝からショッキングなことばかりで、頭が追いついていないところにこれだ。まだ教室にもたどり着いていないのに、すでにどうにかなりそうだった。


 その日は、幸いにも何事もなく1日を終え、帰路につく。

 今朝来た道を戻り、ボロアパートの錆びた階段を登り、鍵を開けた。

「おかえりー」

 玄関から見える台所に立つ「お母さん」が、こちらをにこやかな顔で見ていた。

「た、ただいま」

 ーーーー母親の、「おかえり」は、なんてあたたかいんだろうか。

 その言葉は、「私」に向けられたものではないとわかっているのに、疲弊しきった体と頭にじんわりと染みわたる。あたたかい優しい何かが広がっていく。それと同時に鼻の奥がツンとした。

 ダメだ、泣きそう。

「お母さん、もう仕事いかなきゃだから。ごはんあっためて食べてね」
「うん、わかった。いってらっしゃい」

 エプロンを外しながら早口に言う「お母さん」から逃げるように私は奥の部屋へ向かう。後ろ手でドアを閉め、背中を預けて耳を澄ますと、しばらくして玄関ドアが閉まり鍵がかかる音が聞こえてきた。

 彼女、吉田紘子の母親は工場勤務で、これから夜勤の出勤だった。週に何度か夜勤の日があり、その日は夕方に家を出て翌日の昼過ぎに帰宅する。だから、夜勤明けの日は吉田紘子が夕飯の買い物をして帰宅し、夕飯も作らなければならないらしい。

「はぁ…」

 人知れずため息がこぼれる。今日で何度目だろうか。

 目が覚めてから、怒涛の1日がようやく終わろうとしている今、私はとても不思議な気分だった。

 私は、今まで、お金に不自由のない暮らしをしてきたし、自分を不幸だと思ったことは正直なかった。小さいころに母親を亡くしたせいか、母親の記憶もほとんどないため「寂しい」という感情は無かった。

 母親がやることは全てお手伝いさんの宇和島さんがしてくれたし、欲しいものはなんでも手に入った。


 ーーーーそれが、今朝、吉田紘子の家で目を覚ました私は、自分が手にするはずだった「日常の幸せ」を目の当たりにしてしまった。

 朝起きて、母親と挨拶を交わし、朝食をともにして、「いってらっしゃい」と送り出してもらう。

 それが、なんて尊いものなんだろう、と学校への道すがら私はかみしめていた。

 慈しみに溢れた、私を見つめる「お母さん」の視線。

 それは、宇和島さんの視線とは、全くの別物だった。

 母親の「おかえり」は、学校でのあの視線を受けて疲れ果てた心と体を癒してくれた。すさんで毛羽立った心を優しく撫でるように…。

 例え、貧しくとも、私には二度と手に入れることのできない、幸せがここにはある。

 知らぬが仏。

 知らないほうが良い事って、あるんだ…。

「うぅ…、っ」

 耐えていた涙が頬を伝い、床にシミを作った。

 私なのに、私じゃない。
 涙を流したのは、私。

 でも、この涙は、吉田紘子の涙だ。

 悲しむことさえ、容易にはさせてくれないのか。

 体と心がちぐはぐなこの奇妙な現状。

 今日眠りにつけば、朝には私の体に戻っているかもしれない。

 きっとそうだ、そうに違いない。

 私はそう信じて、「お母さん」が用意してくれた質素な食事を済ませ、シャワーを浴びるとすぐに眠りについたのだった。



 一色真理愛の世界は、とても寂しかった。

「ただいまー」

 帰宅してそう言っても、広い吹き抜けの玄関に声がこだまするだけ。

 家に帰っても、一色真理愛は一人だった。

 テーブルには、ラップされた夕食が置かれている。宇和島さんが作ってくれたものだ。彼女は、朝早く家に来て朝食や洗濯、掃除をして夕食をこしらえたら帰ってしまう。

 私はいつも夕食を温めなおして広いダイニングテーブルで一人で食べる。

 テレビもないその部屋では、カチャカチャと食器のあたる音だけがやけに響いて、とてもむなしい。私は部屋に持って行って食べるか、スマホで何かを見ながらして食べるのが日課になっていた。

「ごちそうさまでした」

 もちろん、返ってくる言葉があるはずもないのだけれど、習慣化したものは無意識下ではやめられない。

 父親は、一色真理愛が言った通りほとんど家には帰らないようで、私が一色真理愛になって既に数日が経つが会ったことがない。

 それは、私には救いでしかないけれど、彼女にとってはどうなんだろうか…。

 これでは、家族がいないも同然だ。

 こんなに広い家にたった一人で住んで、彼女は寂しくないのだろうか。

 少なくとも、私にはとても寂しい環境だった。

 そして、彼女は学校でも「寂しい」人だった。

「真理愛さん、おはよう」
「おはよう」

 この人、誰だっけ…。

 登校すると、名前を知らなかったり、思い出せなかったりするクラス内外の生徒に代わる代わる挨拶をされた。

 そして、私は気づく。

 彼女に集まる生徒は皆、同じ目をしているのだ。

『この人に、媚び売っておけばとりあえず大丈夫だわ』

 話しかけてくるヤツみーんな、顔にそう書いてあった。


ーーーーわかりやすいし、あからさまだ。


 どうせやるならもっと上手くやれよと言ってやりたい。

 そうか、女王さまの世界も、色々あるんだね。

 今までの一色真理愛には感じたことのない「哀れみ」が私の胸に確かに生まれた。

 愛想を振りまいて、ホント関心するよ。

 それに関しては、こうなる前からもずっと思っていたことだった。

 3年になって初めて同じクラスになったこの学園の女王さまは、いつもその綺麗な顔に綺麗な笑みを浮かべてにこやかにクラスメイトに接していた。

 人を選ばず誰とでも嫌な顔せず話す一色真理愛を見ているうちに、もしかしてこの人なら、いじめにあっている私を見て助けてくれるかもしれないーーーと、かすかな希望すら描いてしまったほどだ。

 希望は希望でしかなく、世の中はそんなに甘くなかったのだけど。

 クラスメイトに嫌がらせを受けている私を、彼女は無表情に一瞥しただけで、すぐに視線をそらした。

 結局、女王さまも同類ってことか、とかすかな希望は粉々に打ち砕かれ、私は更に暗い所へと落とされた気分だった。

 いじめる奴はもちろん有罪だけど、私からすれば、黙って見ている他のクラスメイトだって同罪も同然だった。

 もはやこの学園の権力者でもある彼女は、クラスで起こっているいじめなど簡単に止めることができるはずなのに、傍観者を決め込んでいた。


 一色真理愛は、私を助けられるのに、助けないのだ。

 私は、それが許せなかった。

 理不尽な怒りだとわかっている。助けるも助けないも彼女の自由ではあることも。

 それでも、宿題を忘れて困っているクラスメイトには手を差し出すのに、いじめられているクラスメイトには見て見ぬふりを貫き通す。

 その、差がなんなのか、理解できなかった。

 だから、入れ替わった日の朝、彼女が学校を休もうと言い出した時、カッと頭に血が上って売春してやる、なんて脅し文句が出てしまった。

 自分がいじめられるとなった途端、逃げるのか、と。

 そんなのは、虫が良すぎる。


 ーーーーだから、「私」は今も「見ている」。


 ざまあみろ。

 自分が、いじめを止めておけば、入れ替わった今だって、ひどい目に合わずに済んだのに。

 今、私の目の前でいじめを受けている一色真理愛にそう言ってやりたかった。

「やだ、ごめぇん、躓いちゃってー」
「吉田さん、ずぶぬれだけどだいじょーぶー?」

 掃除から戻った私の目に映ったのは、腰から下がずぶぬれになって立ち尽くす「私」。その傍に転がるバケツと濡れた床。そして少し離れたところから「私」を嘲笑う2人。

 水をかけられたのだなとすぐにわかった。

 物々しい雰囲気の教室に入れずに廊下から見物するギャラリーを見て、あぁ、「私」がやられてるんだなと思いながら私もそのギャラリーに加わり、ことの次第を見ていた。

 「私」が、ふと顔を上げ、私を見た。

 その目は、私に何かを求めているのかもしれないけど、私には読み取れない。

「あれー、あたしら謝ってるのにー、なんもないわけ?」
「ホント、これじゃまるであたしらが悪者になっちゃうー」

 立ち尽くす「私」に、いつもの実行グループの2人が騒ぎ立てる。「私」が何も言わないせいで、間が持たなかったのだろう。


 ーーー笑うんだよ、一色真理愛。


 私は、心の中で彼女に言う。


 ーーーいつも見てるんだから、わかるでしょう?


 早くしないと、追い打ちかかるよ、と他人事のように思いながら、私は踵を返す。
 

「ご、ごめんなさい。ぼーっとしてた私が悪いの。バケツも私が片づけるね…」


 数歩進んだ私の耳にも届いたその声は、まるで私の心の声が聞こえたかのように確かに笑っていた。



 吉田紘子の世界は、あたたかさに溢れていた。
「あー、美味しかった!ごちそうさま!いつもありがとね、紘子」
 夜勤明けの「お母さん」は夕方起きてくると、私が作った夕飯を完食してそう微笑んだ。その言葉と笑顔を向けられた私は、なんて返せばいいのか一瞬戸惑う。
「う、うん、どういたしまして」
 これで正しかったのかは不明だけど、私の胸の内はとてもあたたかい。
 こんなにも、裏表のない感謝をされたのは、いつぶりだろう…。
 当たり障りのない友人関係、あからさまに私に気を使う教師陣。それもこれも、全部父親のせいだった。
 私をこの学園に入れて安心したいがために学園の株を買い占めて筆頭株主になどなったせいだ。
 どこでどう話が回るのか、私が入学した時には周りの生徒たちは皆そのことを知っていたし、そのせいで私は周りからどことなく恐れられているような、そんな扱いを受けてきた。
 私のご機嫌を損ねないように、顔色を窺って、表面上の付き合いしかしない。
 すれ違うだけで、名前も知らない人から挨拶をされたりする。
 どんな人にもずっと笑顔で当たり障りなく接していたら、いつしか恐れられることもなくなったけど、その代わりに私と「知り合いになっておいて損はない」といった魂胆みえみえで接してくる人が増えた。
 それでも私は、誰にでも笑顔で接することを徹底していた。
 そんななんの味気もない学校生活には、正直うんざりだった。
 こんなにも心のこもった「ありがとう」を、やっぱり私は知らない。
 誰かのためにしたことで感謝されることが、こんなに嬉しいことなんだ。
 吉田紘子の世界は、知らないことだらけだ。
 ふと、そんな風に思った。
 今日の学校でのいじめだってそうだ、と私は振り返る。
 制服に水をかけられて立ち尽くす視界の端に感じた「私」の視線は、確かに交わったのに、彼女は逸らした。

ーーーー助けてよ!

 吐き気と一緒に喉までこみ上げてきた悲鳴は、声にはならずに飲み込まれる。
 そんなこと、言えない。
 だって、私は今までただ傍観してきただけだから。
 助けなかったのに、助けてなんて、虫のいいこと言えない。
 助けようなんて、考えもしなかったのだ。なんて薄情なのだろう、私は。そして、自分が彼女の立場に立たされて初めて「薄情」だと考えていることこそに「薄情」さを感じていた。
 そして、理不尽に責め立てられて、沸き起こる怒りをなんとか押さえつけた私の記憶の端に、いつもの吉田紘子の笑顔が浮かんできたのだった。

ーーーそうだ、彼女はこんなとき、笑って謝るんだ…。

 得意の愛想笑いを顔に貼り付けてみれば、いじめた人達は満足そうに去っていった。
 きっと、これが手っ取り早いからなのだろうけど、やっぱり気分の良いものではなかった。
「今日、ジャージで帰ってきたみたいだけど、制服どうしたの」
 食べた食器を下げ終わったお母さんが、私の向かいに腰を下ろしてそう聞いてきた。両肘をテーブルに乗せて、こちらに身を乗り出している。その顔は、やはりどこかパーツパーツで吉田紘子を思わせるつくりをしていた。
「…掃除の汚い水入ったバケツ片づけてたら、転びそうになって浴びちゃった」
 吉田紘子から、いじめの事は母親には絶対に言うなとキツく言われていた私は、嘘にならない程度に事実を述べておく。
「どんくさいわねぇ、気を付けなさいよ。クリーニング出す?」
「明日も学校あるし、洗って乾かせば大丈夫」
 今日のあの騒ぎのあと、スマホには吉田紘子から『制服は手洗いしてよ。クリーニングに出すお金なんてないから』とメッセージが入っていたのだ。まぁ、よく気が回ること。関心しながら、不思議と嫌な気持ちにもならず了解の旨だけ返しておいた。
「まだ高校生の紘子に気を使わせちゃって、本当ごめんね」
 笑って応えた私に、申し訳なさそうに眉尻を下げるお母さん。
「気にしないで、こんなの全然平気だから」
 あぁ、「お母さん」って良いな。
 見返りのない愛情と感謝と心配をくれるお母さん。
 クラスメイトの口から出てくるお母さんは、いつも疎ましく思われていて、「うちは居なくて良かった」なんてのんきに思っていたけれど。
 もし、私のお母さんが生きていたら、こんな感じだったのだろうか。
 もしもの話ほど、無駄なことは無いのに、そんなことを考えてしまう自分がなんだかおかしかった。
 今さら、母親を恋しがるなんて。笑っちゃう。
 そうか、これが吉田紘子が笑う理由なのかもしれない。
 ふとそんなことを思った。
 母親にいらぬ心配をかけないようにと私に言う彼女の顔は真剣そのものだったのを思い出す。笑って自分さえ我慢してその場を抑えれば、それで良いと思っているのだろうか。
 そんなことは、私が詮索したところでわかるはずもないのに、なぜだか私は、吉田紘子のことをもっと知りたいと思っていた。

 私は、ずっと恵まれていないと思っていた。

 県内きってのお嬢様校に入学してから、自分はなんと不遇なのだろうかと打ちのめされたのを、今でも鮮明に覚えている。

 学校から支給されたかわいいと評判の制服は、今まで触った事のないほどなめらかな手触りだったし、指定のローファーも鞄も本革で高級な光沢を帯びていた。自分では到底用意できるはずのないそれらを手にしたとき、ほんの少しだけ「お嬢さま」気分を味わえた気がした。

 けれども、そのお嬢様気分も、入学した瞬間に打ち砕かれる。

「今度の休み、ホームパーティやるから来てね」
「パパがあたしのご機嫌取りに〇エベのバッグ買ってきたんだけど、ダサくてママにあげた。次の休みに自分で選んでくるわー」

 もう、笑うしかないってこういうこと言うんだって。

ーーーー世の中は、なんて理不尽なんだ。

 スーパーで200円のお菓子を買うのを躊躇ってる私と彼女たちの差は比べるまでもなく、まさに天と地。
 同じ15歳なのに、どうしてこんなにも違うのだろう。

 私が、何をしたっていうのだろう。

 神様なんて信じてないし、世の中を恨んだところで何も始まらないのは、わかっていたけれど、そんな疑問が浮かんでは消えていった。

 最終的には、私がこの学園の制服を着て、彼女たちと一緒にこの学園に通っていることでさえ烏滸がましいのではと感じてしまっていた。事実、私が学費も無しに通えているのは、彼女たちが多額の学費を学園に払い、延いては寄付金を払ってくれているからなのだと自分に言い聞かせることで落ち着いた。

 そう、最初のうちは。

 入学して1か月くらいが経った頃から、話についていけない私が奨学生枠だという噂が広まったと思ったらソレは始まった。

 通称、『貧乏狩り』と呼ばれるソレは、奨学生枠の生徒をターゲットとしたいじめだ。もはや伝統行事と化しているそれは、生徒も教師たちが口を出さない程度に上手く加減するものだから教師たちも見て見ぬふりを決め込んでいた。私も最初こそ、担任に何度か相談をしたけれど、なあなあに流そうとする担任に嫌気がさして諦めた。

 結局、私が我慢するしかないのだ。

 けれど、裏を返せば、私が我慢さえすれば良い、と割り切ることが出来た。

 もともと、この奨学生枠が取れなければ高校には通えなかったのだ。ここ以外どこにも逃げ場など無い私は、割り切るしか、残された道はないということを知っていた。

 希望なんてものは端から無かったし、それが不幸中の幸いだったのかもしれないとすら思う。

 早々に諦めがついた私は、無の境地を決め込んで、いじめがこれ以上悪化しないようにだけ最善を尽くした。

 その中で見出したのは、とにかく笑顔で謝るという技。

 へらへらと笑って、私が悪かったのだ、ごめんなさい、と言うのがその場を収集させるのに一番手っ取り早かった。お嬢さまたちもそれで憂さ晴らしが出来て満足してくれている。
 
 ーーーーばかばかしい。

 自分よりも財力も身分も、待っている未来すら格下の奨学生枠の生徒に当たって鬱憤を晴らすだなんて、なんて低俗なのだろう。それこそ、人として私よりも下だということに気づかないのだろうか。

 なんて、可哀そうなお嬢さまたち。

 彼女たちを哀れみの目で見るようになるのに、そう時間はかからなかった。


 一色真理愛と入れ替わって早1週間が過ぎていたある日。

「ちょっと、貧子、自販でいちごオレ買ってきて欲しいんだけど」

 休み時間になるや否や、一人のクラスメイトが「私」にそんなことを頼んできた。いや、命令してきた。長年呼ばれて来たあだ名を耳にすると、どうしても反応してしまいそうになるのを何とか抑えられるくらいには、慣れてきたと言える。

 そして、一色真理愛の「味気ない」世界にも、だいぶ慣れてきた。

「あ、あたしもお願いー、カフェオレね」
「私リンゴ!おつりはあげるから、よろしくー」

 五月雨式に数人から言いつけられた「私」は、それぞれからお金を受け取ったあと、とんでもないことを口にした。

「一色さん…、一緒についてきてくれないかな?」

 教室のドア付近の私の席の前で立ち止まったと思ったら、そんなことを言ったのだ。
 周りも何事かと息をのんだのがわかるほど空気が一変した。

 ーーーーこいつ、私を巻き込みやがった…。

 思わず舌打ちしそうになる。

 いや、違う、巻き込んだのは、私じゃなくて一色真理愛か…、なんで、また…。

 疑問に思いながら、私は考える。

 「私」ならどうしただろうか…。

 シカトしているかもしれないし、あの仮面のような笑顔で頷いてくれたかもしれない…。

 あ…
 そうか…

 私、今まで「助けて」と言葉にしていなかった…。

 宿題を忘れたあのクラスメイトは確かに言葉にして一色真理愛に助けを求めていた。それは、大きな、大きな違いだ。
 一色真理愛が助けてくれなかった、なんて、八つ当たりも甚だしい。

 「助けて」と彼女に言っていたら、彼女は助けてくれたかもしれないのに…。

 ぱぁ、と思考がクリアに透き通り、そんなことを思った。どんよりと立ち込めていた雨雲が風に押し流されて散り散りになって隙間から光が差し込んでくる様だった。

 そうだ、「私」なら助けられるのだ。

 与えなければ、与えられない。

 ならば、与えれば良い。

「ーーー良いわよ。行きましょ」

 椅子から立ち上がり、私は「私」の後を追う。その足取りは予想以上に軽やかだった。