「立場」は読んで字のごとく、立っている場所。
当然のように、立場が違えば見える景色が違う。
たった1段登った階段の上からでも見える景色は違う。
そのことから、その人が置かれている境遇や地位、その人の観点などを意味する。
よく、相手の立場になって物事を考えろとか言うけれど、行ったこともない山の頂上から見える景色を想像しろといわれているようなもの。
そう、結局人は、その場所に立ってみないことにはなにもわからないし何も始まらないのだ。
想像は、所詮想像で。経験の1割にも及ばない。
そのことを、人は理解しているようでいて、全くわかっていないのだ。
そして、それは、他ならぬ自分にも当てはまることなのだけれど…。
今、こうして、ここに立って初めて、私はその「立場」からの景色がどういうものなのかを経験した。
そして初めて、やっと、ようやく、それを「思い知った」のだった。
「やだ、ごめぇん、躓いちゃってー」
「吉田さん、ずぶぬれだけどだいじょーぶー?」
謝罪と心配の言葉とは相反してとても楽しそうな表情を浮かべる目の前のクラスメイト。その顔が、自分に向けられているのだと、理解するのに少し時間がかかった。
掃除の時間、掃き掃除をしていた私は、雑巾を洗った汚れた水の入ったバケツを突然ぶちまけられた。腰から下がびしょ濡れになってしまってスカートが足に張り付く。雑巾独特の埃の生臭さがぷんぷんして一瞬吐き気がした。
もちろん、躓いたわけでは決してない。それは、明らかに意図的なもの。
彼女たちから向けられる悪意に、私は立ち尽くすしかなかった。自らのうっぷんを晴らすかのように嘲笑うその目、大きく開かれた口、ちっとも悪いと思っていない心のこもっていない言葉。そのどれもが、鉛のように重く私にのしかかって、思考を停止させた。
ーーーと、その時、数ある視線の中、一つの視線にひかれるように私は目を向ける。
「私」が、いた。
廊下の窓からこちらを見ている、「私」と目が合う。
無表情なその顔から、感情は読み取れない。
彼女は私で、私は彼女だ。
数日前、私と彼女は中身がすっぽりと入れ替わってしまったのだった。
「あれー、あたしら謝ってるのにー、なんもないわけ?」
「ホント、これじゃまるであたしらが悪者になっちゃうー」
耳ざわりな声に、思考が戻された。
下手に出ていれば、調子に乗りやがって、と彼女たちは言っている。
ふざけるな、と口から出そうになる。沸き起こってきた怒りを私は慌てて押さえつけて、代わりに得意の笑顔の仮面を顔に貼り付けた。
ーーーーいつも「私」がしているように。
「ご、ごめんなさい。ぼーっとしてた私が悪いの。バケツも私が片づけるね…」
「よろしくねー」
満足げに笑いながら彼女たちは去っていく。
私は…、吉田紘子じゃない…。
私は、一色真理愛なのに。
廊下に目をやると、さっきまでいた「私」の姿はもうなかった。