萬狩は己の平穏のため、一連の出来事をなかった事にする決意を固めた。男が仲西青年より年下だろうが、少し年上だろうが真実は知らないままでいい。

 とりあえず、俺は速やかに理髪店を出るべきだ。

 タイミング良く東風平が戻ってきて、整髪剤を手に萬狩の髪を手早く整えた。萬狩は短く礼を言うと席を立ち、そのまま支払いを済ませよそうと、後ろポケットに入れていた財布を手に取ったのだが――

「ま、ままま待って下さい! えと、えぇと、そのッ……ピアノ教室のおじさん!」

 瞬間、理髪店内が一瞬、ざわりと震えた。

 萬狩は、胃腸の調子が更に悪くなるような倦怠感を覚え、諦めたように小男を振り返った。

 互いに名前を知らないとはいえ、もう少し言葉を探せなかったのだろうか。これではまるで、俺がピアノ教室を経営しているおじさんみたいじゃないか?

「……何か?」

 萬狩は若干の苛立ちを滲ませながら、そう言葉を返した。

 すると小男は何を思ったのか、カット席の椅子から半ば身を乗り出す勢いで「後で少し、お時間を頂けませんかッ」と懇願したのだ。

 店内にいた客と、特に中年の女性スタッフが、何かよからぬ勘違いをしたように目を見開いた。

 萬狩は片手で顔を覆い、とうとう項垂れた。

        ※※※

 萬狩がちょうど昼食時間ぴったりに帰宅すると、緑のエプロンを着用した仲西青年が、キッチンから顔を覗かせて「お帰りなさい」と言った。

 食卓には既に、氷水とソーメンが入ったボールが置かれており、二人分の取り皿と、ポン酢や山葵、千切りにされたキュウリと卵焼きとハムも用意されていた。

 疲れていた事もあって、萬狩は短く「ただいま」と諦め気味に答えて食卓についた。内心、ここは俺が一人で暮らしている家のはずだが、と最近の決まり文句を唱えていた。