どうして俺は、こんなに頑張っているのだろう。

 ピアノに向きあうたび、奥歯を噛みしめて全神経を鍵盤と楽譜に向けている自分に気付き、萬狩は、いつも同じ疑問を繰り返し覚えていた。

 そのびに思い起こされるのは、彼が自宅でピアノを練習している時、足元に寝転がっている、あの老犬の姿だった。

「俺は、音楽なんて全然知らない素人なんです。出来ていないところがあったら、なんでも言って下さい」

 萬狩は、内間にそう言った。一曲だけでいいから、それを自分のものにしたいのだ、と。

 彼女は困ったように微笑み、それからこう言った。

「萬狩さんは、上達が早いから大丈夫ですよ。すぐに今よりも、もっと自然に弾けるようになりますよ」

 彼はプロの言葉に自分を励まし、その日は、彼女に付きっきりで指導してもらった。当初は気恥かしさもあってそんな事は出来なかったが、他に大勢の人の目がある訳でもないのだからと、最近は開き直る事にしていた。

 一時間ほど集中して練習に励んでいた萬狩だったが、やはり、ここ数日しっかりと飯が食えていないせいか、疲労感がやって来るのも早かった。

 固形物を胃に入れていないから、余計に胃の辺りがむかむかするのだろうか?

 一通り手直しが必要な個所を見てもらった後、萬狩は、早々にピアノ教室を後にする事にした。車に乗り込んですぐ、車内の冷房を強くかけた。蒸し暑さが去るのを待ちながら、しばらく身体を休める。

 ピアノに関しては、確認しながらであれば全部弾けるまでになっていた。これは素晴らしい成長じゃないかと、萬狩は、内臓の心地悪さを追い払うように自分を褒めてみた。

 しかし、やはり妙な焦燥感は消えてはくれなかった。仲村渠からもらったカロリーメイトを鞄に忍ばせていたので、車内が冷えてくれた頃に、時間をかけてそれを腹に収めた。