あの時考えていたのは、なんだっただろうか。定時に会社を上がった後、一度家でスーツの上着とネクタイを外し、明るい夏の夕刻の空の下重い足を進めていた。この散歩という付き合いを、あと六回もしなければならないのかと、そんな事を考えていたような気もする。

 一人で出来るよと言い張っていた長男は、翌日も、夕刻までには宿題を済ませて、しっかり身支度を整え、行儀よく萬狩の帰りを待っていた。犬のトイレを掃除し、ご飯を用意して風呂も入れ、名前を呼んで「お手」「お座り」もやっていた。

 そこまで考えた時、萬狩は喉元に引っ掛かっていた一つの疑問の答えに見付けた。あの時、仲西青年が「お帰りなさい」と笑った顔が、彼らに重なった理由にようやく思い至れた。

 長男はあの日、犬と共に玄関先で、父親である萬狩を待っていた。萬狩が姿を見せると、黒い瞳に奇跡を詰め込んだような輝きをのせて「お帰りなさい」と言った。だから、萬狩も一周間は残業をしなかったのだ。

 面倒だという想いよりも、父親としては、同時にくすぐったいぐらいに嬉しかったのだと、萬狩は遅れてそう気付かされた。

「多分、一緒に散歩が出来て嬉しかったんだと思いますよ」

 不意に、仲西がそう言った。

 萬狩が思考を中断して彼を見ると、仲西は「僕の想像にすぎないんですけどね」と、遠慮がちに笑みを浮かべた。

 仲西青年は、迷うように視線を巡らせた後、記憶を手繰り寄せながらゆっくりと語り出した。

「僕は、小学三年生の頃に、怪我をした犬と出会ったんです。とても飼える環境じゃなくて、無人の小屋に隠して、少しだけ世話をした事があるんですよ」

 彼は、穏やかな声色でそう語り始めた。仲西の隣で丸くなっていたシェリーは、聞き耳を立てているようではあったが、顔は上げなかった。