萬狩が早々に煙草を揉み消してしまうと、歩き出した彼の後ろから、シェリーもついてきた。

「なんだ。クッキーでも欲しいのか」

 彼は言い、すっかりポケットに入れ慣れてしまった犬用のクッキーを取り出した。シェリーは彼の掌に置かれたそれを一口で食べ、萬狩は、手についた彼女の涎をズボンで拭う。

「先に言っておくが、俺のピアノは全然なってないぞ。聞いていられなかったらどこかで寝ろ、いいな」
「ふわ」

 歩きながら返事をした老犬を、萬狩はチラリと見やった。向かう先は、勿論、グランドピアノのある部屋だった。

「……おい。ふわふわとした声じゃなくて、『ワン』と犬らしく鳴いてみろ」
「ふわん」

 シェリーは、上機嫌にそう答えた。

 萬狩が楽譜を抱えてグランドピアノの前に構えると、彼が予想した通り、シェリーはその足元に腰を落ち着けた。こういうのも悪くないなと、彼はそう思ってピアノに向きあった。

 それから数分後――

 シェリーが大きな欠伸を一つして、尻尾と耳を項垂らせたまま部屋を出ていった。萬狩は悔しい思いで「あのやろう」と呻いた。


        ※※※


 週に二回、ピアノ教室へ通う事が続いた。この歳で習い事かと萬狩は恥ずかしく思ったものの、仲西と仲村渠は、彼を嗤ったりはしなかった。

 内間の夫から話を聞いたらしい仲西は、翌週の月曜日、開口一番に「ピアノを習い始めたんですね」と興奮気味に言った。「すごいですねぇ、いいですねぇ」と瞳を輝かせ、「僕も通おうかなぁ」と実に楽しそうに言う。

「大学時代の友人がピアノをやっていたんですけど、まぁ憧れはしたけど出来なかったんですよね。でもアキ姉ちゃんに習ったら、先輩に嫉妬されるかなぁ……」
「信用されていない後輩だな」

 仲西が語る『アキ姉ちゃん』とは、幼馴染でピアノ講師の内間であり、今は職場の先輩の妻だ。