隣近所も全員見知った仲、という事だろう。そうなると、ピアノ教室に通い始めたという萬狩の話は、仲村渠を口止めしたとしても、遅かれ早かれ仲西の耳に入るのかもしれない。

　そう想像して、萬狩は「なんだかなぁ」とぼやいた。

　しばらく内間と相談し、萬狩は比較的ゆったりとした曲で、彼自身も聞き慣れている『エーデルワイス』を練習曲に選んだ。昔、長男が小学校でリコーダーの授業が始まった頃に、自宅で練習していた事を思い出していた。

　萬狩は、「俺も歳をとったもんだ」と口の中でぼやいた。最近は、どこにいっても昔の事ばかり思い出しているような気がする。

　ピアノは、結局のところ指先が鍵盤を押す順番を覚え、慣れるまで練習あるのみらしい。

　まずは楽譜を読みながら曲の調子を教えてもらう事から始まった。始めに見本として彼女に弾いてもらったのだが、それがなかなか様になっていて、萬狩は思わず感心してしまった。

「確か、足で踏むところがあったと思うが、あなたはしないのか？」
「普段は使いますよ、曲の雰囲気がよく出るようになりますので。でも、萬狩さんはこれまでピアノを触った事がないとおっしゃっておりましたから、少し難しいと思います。ですから、まずは曲を弾けるように頑張りましょう」

　言われてみて、萬狩は「確かにそうだな」と思った。それを実演されてみたとしても、彼にその真似が出来るとは到底思えないし、返って苦手意識が増して心がくじけそうな気もする。

　萬狩は楽譜が読めなかったから、内間に丁寧に教えてもらい、そこにドレミの階音を書きつつ、実際に電子ピアノに触れた。

　両手で曲を奏でる事が、こんなにも難しい事だとは思わなかった。予想以上の苦戦ぶりに、指と頭を熱中させながら萬狩は顔を歪めた。