契約書にサインをし、一月分の受講料を支払った後で、まずは曲選びから始めた。

 どんな楽曲が弾きたいのかと内間に問われ、萬狩は、自宅にグランドピアノがあるので、それを利用出来るような、初心者でも習得しやすいものはないかと相談した。

 内間は、少しだけ驚いたように目を見張り、それから「あの、もし間違っていたら御免なさい」と前置きして続けた。

「もしかして、サチエさんのお宅に新しく住んでいる人ですか?」
「えッ、知っているんですか」

 萬狩が思わず尋ね返すと、内間は慌てたように「違うんです」と言った。

「お名前までは知りませんでした。ただ、サチエさんの事は、私の母が知っていましたし、この辺で自宅にグランドピアノを置いているのって彼女の家だけなんですよ。そちらでお世話になっている仲西君から、最近ちらりとお話を聞いた事があったから、もしかしたら、と思って」

 内間は、話を聞いた事があるだけで詳しくは知らないのだと、控えめに言葉をしめた。

 萬狩は、しばらく返す言葉を失っていた。仲村渠の知り合いの娘なので、ある程度横繋がりがある事は想定してはいたものの、まさか、ここで仲西の名前が出てくるとは思わなかった。

「君は、彼とは知り合いなのか?」
「はい。町内会で活動をしていた頃からの幼馴染なんです。私の夫の、仕事先の後輩でもあります」
「なるほど……」

 つまり、情報源は仲西だけでないのだ。彼女は、夫からも噂を聞かされているのだろう。

 一体どこまで繋がるんだ。海に囲まれた小さな島とはいえ、限られたこの地域に集中し過ぎていやしないか?

 そんな萬狩の困惑を見て取ったのか、内間が可笑しそうに言った。

「住民の少ない部落だから、皆ほとんど顔見知りなんですよ」