『合唱の発表会があるんだ。僕がピアノを伴奏する事になって……。母さんは来られるっていうけど、父さんはどう?』
『行くよ、いつだ?』
『本当に大丈夫? ゴルフとか急な出勤とか、忙しいなら無理にとは言わないよ。疲れているのなら、僕は父さんには、家でゆっくりしていて欲しいとも思うんだ』

 彼は萬狩と話す時、落ち着かないように指先を遊ばせている事が多かった。子供なのに遠慮したような話しぶりであったなと、萬狩は今更になって気付いた。次男は礼儀正しさと思慮深さもあって、中学生に上がった頃からは、敬語が板についていた。

「――ああ、俺は最近、余計な事ばかり考えては、いつも過ぎ去った事ばかり思い出しているな」

 萬狩は、思わず天井を仰いだ。

 ここでは、自分に許された時間がありすぎるのだ。過ぎた日々はどうにもならないと知っているのに、萬狩は、らしくもなく思い出して考えてもいる。

 良くも悪くも、ここは、とても静かで心地が良い。

 暇すぎる事がいけないのだと思い立った萬狩は、仲村渠(なかんだかり)に連絡を取るため立ち上がった。その拍子に、シェリーの不思議そうな視線が自分に向けられるのを感じ、思わず見つめ返して断言した。

「いいか。俺は別に、お前のためにピアノを触ってやるわけじゃないからな。時間があり余り過ぎているだけなんだ」

 萬狩は「ふんっ」と顔をそむけ、肩を怒らせて歩き出した。

 今度は、シェリーはついて来なかった。萬狩が一度だけ振り返ると、そこには眠たげな欠伸を一つして顔を伏せる老犬の姿があったのだった。

        ※※※

 紹介されたピアノ教室は、国道から入った畑道を抜けたところにある、古い住宅街の一角にあった。先日に電話で確認した際、一曲だけ習う事も可能らしいと聞いて、萬狩は心を決めて車を走らせた。