「大人向けの、小さなピアノ教室なんですよ。お子さんに教えたいからと通う父親もいれば、なんとなく弾いてみたいと通う人もいるらしいのです。週に二回のセットであれば、受講料金は一ヶ月分が三千円ほどですし、一回ずつの使用に関しては、当日に払って利用するシステムもあるらしいので、体験がてら少し通ってみてもいいと思うのですけれどねぇ」
「……まぁ、検討はしておこう」
「まずは話を聞いてみるのもいいかもしれませんよ。今度、名刺をもらってきますから」

 仲村渠はそう言い、ようやく席を立った。時刻は、午前十時十七分になっていた。

 シェリーはいつものように、客人が帰るのを萬狩と共に玄関先で見送った。仲村渠老人が運転する、動物病院名のプリントがされた白い軽自動車が斜面を下って見えなくなり、萬狩が中に戻ろうとした時、老犬が珍しく彼の先へ回り込んで立ち塞がった。

「ん? なんだ」

 すっかり癖になった独り言を呟けば、シェリーが踵を返した。少しだけ歩くと、また立ち止まって、もう一度萬狩を振り返り「ふわ」と鳴く。

「ついて来いって事か? すっかり慣れた家の中で、迷子にはならないさ」

 リビングへ入ろうとすると、シェリーがもう一度「ふわん」と今度は強めに鳴いた。萬狩は不思議に思いながら、導かれるままに彼女の揺れる尾を眺めながら後を追った。

 辿り着いた先は、グランドピアノのある部屋だった。萬狩は「賢い犬め」と恨めしそうにシェリーを見降ろした。

「お前、俺と獣医の話を理解しているって感じだな。――まぁ、そんな事はいいんだ。さっきも言った通り、俺はピアノなんて弾けないぞ」

 萬狩が話し聞かせている間にも、シェリーは、グランドピアノのそばで横になってしまった。