酒井は、自身の掌に置かれた、犬用のクッキーの入った小袋を長い間見つめた。嫌がっているのだろうかと不安を覚えた萬狩は、しかし、次の酒井の言葉を聞いて「え、なんだって」と聞き返していた。

 そっと眉を寄せた酒井が、もう一度、独り言のような声量で呟いた。

「サチエさんが生きていた時、私があげていたメーカーのクッキーです。うちの犬も、よく気に入って食べていました」

 酒井は、思い出すようにそう言った。

 萬狩は困惑した。酒井のその独白は、きっと無意識なのだろう。しかし、萬狩は酒井の前では、彼らの関係性を知らない事になっているのだ。前家主の名をこぼした弁護士に、萬狩は、どう答えていいのか分からないでいた。

 しばらく、二人の間に沈黙が流れた。冷たい冬風が数回ほど吹き抜けて、枯れ葉が風に待っていく様子を、萬狩が目で追い掛け始めた頃、酒井がようやく顔を上げた。

「残りのものも、一緒に火葬してやりましょう」

 酒井は、静かな口調でそう断言した。

 どうやら、この弁護士は常に不機嫌なのではなく、もとより感情表現が顔に出ないタイプなのだろう。呆けつつそう推測していた萬狩は、彼がクッキーを持っていない方の手を出すのを見て、慌ててそれを取りにキッチンへと走った。

 気難しい弁護士は、考え込むように眉間の皺を深くして彼を待っていた。愛想はまるでないが、萬狩から犬用クッキーの在庫を受け取ると、慣れたように会釈を一つして、黒塗りの車に乗り込み去っていった。

 老犬と過ごした痕跡のなくなった家の中を、萬狩は一人、改めて見て回った。こんなにも広い家だっただろうかと思うほど、室内はどこか伽藍としている印象を受けた。

 思い出を語る古い最後の住人を失くしたグランドピアノが、物寂しげに居座っている空間で、萬狩は、しばらく何をするわけでもなく過ごした。これらどうようか、まるで思い浮かばなかった。