これまでの自分からは想像もつかないほど、それは穏やかで暖かい日々だった。家族として愛していたのだと、萬狩は、「少しだけ、もう少しだけお前の飼い主でいさせてくれ」と、声を押し殺して泣いた。

 どれぐらいの時間が経ったのか分からない。

 窓から差し込んだ日差しの熱に気付いて、萬狩は、急速に老いた男のように、ゆっくりと顔を起こした。

 これから、自分がするべき行動を思い起こす。

 萬狩は重い手を持ち上げ、もう必要のなくなったストーブの電源を落とした。

        ※※※

 動物病院が開店した時間に連絡すると、仲村渠は、受話器越しに『お疲れ様でした』と悔やむような声でそう言った。萬狩は冷静だったが、自分の声の方がひどい自覚はあったし、それをハッキリと口にしてこない仲村渠(なかんだかり)には救われた。

 仲村渠の方から弁護士へと連絡がされ、朝の九時にやってきた業者によって、萬狩宅にあったペット用品は全て持ち出された。

 午前十時前には、ペット葬儀屋が、シェリーを迎えにやってきた。

 動物用の木箱を抱えた中年の男が、シェリーに一度合掌をし、白い布の詰められた木箱へと丁寧に収めた。亡くなった場所には、線香が一本上げられた。

 業者の男は「それでは」と立ち去ろうとしたが、萬狩の神妙な視線に気付くと、玄関先で足を止めて「あの」と控えめにこう言った。

「お顔を見るのは、これが最後となります。もう一度、お顔を拝見されますか?」

 その言葉が胸に突き刺さり、萬狩は、大きく息を吸い込んで首を左右に振った。

 そんな事を言われて、情のある老犬の顔を見たならきっと、萬狩はみっともなく泣いてしまうだろう。もう十分、彼女との別れの時間を過ごしたのだ。萬狩はその男に「大丈夫だ」と答え、見送った。