萬狩は、次の本を手に取って床に広げた。

 それがどんな曲であるのか分からないのに、譜面に記載されている音符や記号をシェリーと共に眺め、長い間それを読み進めた。

 ページをめくるたび、シェリーの尻尾が大きく揺れた。更にめくると、どこか懐かしむように、その目が楽しげに細められる。まるで小説を読むように、萬狩は、ゆっくりと楽譜のページをめくっていった。

 どれぐらいの時間が経ったのだろうか。茜色の日差しが弱まり、すっかり視界が悪くなった頃、萬狩は時間を思い出して顔を上げた。

 すると、同じ目線の高さから彼女と目が合った。

 シェリーはもう、譜面ではなく萬狩だけを見ていた。そういえば、いつからか尻尾が床を擦る音が聞こえなくなっていたなと、萬狩は遅れて気付いた。

 尻尾を振るのを止めた時から、シェリーは、ずっと萬狩を見つめていたのだろう。弱々しくなっていく西日を受けた彼女は、まるで静かに微笑んでいるようにも見えた。神々しくて、綺麗で、今にもどこかへ消えていってしまいそうな気がした。

 だから、萬狩はこう言った。

「シェリー」

 老犬が、それに答えるように「ふわ」と、落ち着いた声色で鳴いて、ゆっくりと尻尾を振った。

 ありがとう、と言われたような気がして、萬狩は、己の弱い心を振り払うように目を閉じ、彼女の頭を片手で大雑把に、ぐりぐりと撫でた。犬の撫で方なんて、彼は知らなかった。

 いつまで、どのくらいまで、俺達には時間が許されているんだ?

 萬狩は、到底太刀打ちのできない存在が、一人と一匹の生活に終わりを運ぶべく、近づいてくる気配を濃厚に感じていた。沈んでゆく夕日よりも儚く美しい、奇跡のような穏やかな日々の終わりが、もうすぐそこまで迫っている。

 抗えないから、それを受け入れなければならない事を、萬狩は知っていた。

 だから、彼は自分の心の叫びを押し殺して、崇める神の名も知らないまま「どうか俺に勇気を下さい」と声を押し殺し、背を屈めて顔を伏せ、口の中でそう唱えた。