「俺の手は、魔法の手じゃないぞ」
「ふわん」

 利口な犬は、きっとそれを分かっている。

 だから、彼女が今日に限って、目に焼きつけるように見つめているなど、自分の気のせいなのだと、萬狩はそう自身に言い聞かせた。彼の伴奏は相変わらずぎこちなくて、プロのように指先を鍛えているわけでもないから、長くは続けられもしない。

 普段と変わらない時間をピアノにあて、ほどなくして萬狩のピアノの練習は終了した。しかし、シェリーがその部屋から動こうとしなかったので、彼も退室はしなかった。

 萬狩は入居して初めて、前家主の時代からそのままになっている楽譜の棚の前に立ち、その中から一冊を引き抜いて手に取ってみた。

 彼が品もなくその場に腰を降ろせば、シェリーが興味心身に冊子の匂いを嗅ぎに来た。茶色くなった楽譜には、彼が見た事もないような音楽記号が並んでいて、まるで未知の譜面のように厳粛とした様子でページを埋めていた。

 ほとんどが外国曲のようだった。曲名は、横文字かカタカナで書かれていて、萬狩は、意味もなく曲名に目を通していった。

 シェリーが部屋を出るまでの間の時間潰しだと、そうページをめくっていた萬狩の手が止まったのは、知っている曲名を見付けた時だった。

「……『エリーゼのために』」

 萬狩は、思わず呟いていた。

 それは同じ曲であるはずなのに、全く違う高度な楽譜に見えるのは、印字された年月が違うせいなのか、上級者向け用に書かれているせいなのか、萬狩には判断出来なかった。

 前家主も、ここで彼が弾いていた曲と同じものを弾いていたのだろうか。そして、そこには一匹の犬がいて、いや、もっと古い時代には、先に他界したらしい猫も一緒だったのかもしれない。