萬狩は、両親や祖父の死も見届けなかったが、今ここに流れているような空気には覚えがあった。

 それは、彼の起業を助けてくれた先輩の、死の前の日を思い起こさせるものだった。あれは、まるで後日の死が嘘のようにも思えるほど、穏やかで平和な時間だった。

 あの時、萬狩には、先輩と過ごせた最後の時間の、夢や奇跡のように許された、別れまでの短い猶予に思えてならなかったのだ。

 シェリーに鼻先でズボンの裾をつつかれて、萬狩は我に返った。元気な犬らしく舌を出した彼女が、遊びの続きをねだるように「ふわん」と鳴いた。

 まだ数カ月、けれど、もう数カ月は共に暮らしてきたのだ。萬狩は、シェリーの事を、それなりにもう理解しているつもりだった。彼女は、いつも通りの日常を彼に求めていた。

 萬狩は短く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。やや乱暴に目頭を揉み解すと、いつものように彼女の名も呼ばず、触れず、――けれど、いつもより優しくビーチボールを転がした。

 シェリーのお遊びは、それから一時間ばかり続いた。彼女は飽きずに何度も、萬狩の足元にビーチボールを運び、庭を闊歩し、冬の風の匂いを嗅いだ。


 庭での時間を過ごした後、一人と一匹は軽い食事を摂り、少しの間リビングで休んだ。萬狩は本を読み、シェリーはストーブの前で優雅に座りこんだ。彼女は時折、普段のように萬狩にクッキーをねだり、彼はいつものように、ポケットから取り出して手渡しで与えた。

 日中も落ち着いた時間になると、萬狩は、いつものようにピアノの練習を行った。

 シェリーは寝そべる事もなく、礼儀正しく座って萬狩の手元を見つめた。まるで、そこから音が流れているのだと信じて疑わないような眼差しだった。