萬狩は、仲西から聞いた、老人獣医との出会いの話を思い出した。

「心臓が止まっても、聴覚や感覚は生きていると……?」
「そうです。不安でたまらないような、真っ暗闇を想像してごらんなさい。死とは、穏やかにゆっくりと進むものです。だからこそ、伝える事を恐れないで下さい。声と温もりを、完全に死んでゆく者のために伝えてあげるのが、見送る者に出来る唯一の事でもあるのですよ、萬狩さん」

 仲村渠は、静かに言葉を切った。これまでに見送った大事な人との最期でも思い出したのか、皺だらけになった自身の小さな手を見降ろした。

 その時、シェリーが「ふわん」と上機嫌に鳴いた。

 仲村渠が気付いて顔を向け、途端に暖かく微笑んで、彼女の頭を撫でた。シェリーは得意げに、付き合いの長い老人獣医の手に頭を押しつけた。

「本人の前でする話ではありませんでしたね。すみません、シェリーちゃん」
「ふわ、ふわぁ」
「おい。せめて返事をするか、欠伸をするか、どっちかにしろ」
「ふふふ、構いませんよ、萬狩さん。今日は、はしゃぎ疲れているのでしょう。長居をしてしまった私が悪いのです」

 仲村渠は、シェリーの頭にキスを一つ落とした。それから萬狩を振り返り、慣れたように会釈をした。

「今日は、素敵な時間をありがとうございます。仲西君の言葉を借りるならば、『また花火で楽しみましょう』」
「おい、俺は流されないぞ。あいつは花火だと限定していなかっただろう」
「あらら、バレちゃいましたか」
「そんなに鼠花火が好きなのか?」
「私もこんな歳ですが、心は少年のままですからねぇ。少年は、みんな鼠花火に夢中なのですよ」

 それでは、さようなら、と仲村渠は自身の車で帰っていった。

 萬狩は、すっかり見慣れてしまった仲村渠の車が傾斜を下っていくのを見届けた後、シェリーと共に家の中に戻った。