自分の役割を終えた古賀がやって来て、遠慮がちに腰を屈めてシェリーの頭を撫でた。そして、思い出したように萬狩に話を切り出した。

「あの、そういえば萬狩さんは、ピアノ教室を辞めてしまったんですか……?」
「一曲だけ習おうと思って通っていたからな」
「そうなんですか……。ご自宅にピアノがあるみたいだから、そうなのかな、とは思っていたんですけど」

 古賀は重々しい身体を持ち上げると、萬狩の向かいの席に腰かけた。

 緊張しているのか、古賀はテーブルに置かれた缶のお茶、オレンジジュース、発泡酒に何度か視線を向けた後、缶のラベルの向きを揃え、その際指についた水滴をパーカーの裾にこすりつけたりした。

 萬狩は、それに気付かない振りをした。視線を落とすと、こちらを見上げているシェリーと目が合い、しばらく見つめ合った。

 一人と一匹の視線は絡み合うが、それだけの事だった。萬狩は必要でなければ彼女を撫でる事はなかったし、彼女も、萬狩にそれを求めなかった。

 ああ、怖いな、と萬狩は初めてその感情を認めた。

 俺は恐れているのかと、自分の弱さを思って沈黙する。

「萬狩さんは、うまく弾けるようになりましたか?」

 そう問われ、萬狩は顔を上げた。ぎこちなく笑う古賀の顔を見て、数秒遅れてピアノの事かと理解した。

「素人が鍵盤を叩くんだ。俺はもとより音楽の才はないし、そんなに進歩はない。――お前の方はどうなんだ。恋人に告白はしたのか?」
「うッ、それは、まだ……。仲西さんにも言われたんですけど、それでもやっぱり無理でして…………」
「そういえば、あいつにも相談したんだったか」
「二回目に彼の家にお邪魔した際に、もう一度アドバイスを頂けたんですけど、その、なんというか……」

 古賀が、そこで悩ましげに語尾を濁した。