老犬がそばにいない時間は、萬狩にとって解放される時間でもあるはずだった。けれど、彼は一人である事に物足りなさも覚えていた。

 萬狩は大通りを軽く回った後、公設市場の中にある小さな店々を覗いていった。途中、生活用品の置かれている店を見付け、ちらりと立ち寄ってみると、十五枚、三十枚、五十枚セットの紙皿や紙コップが恐ろしいほど安かったので、割り箸の他にも薄手のタオルセットを購入した。

 建物と人が入り組んだ、どこか雑踏とした表通りを歩いていると、以前まで自分が暮らしていた都市の風景が思い出された。萬狩は、通り過ぎる人間と肩がぶつからないよう気を張って歩いた。

 しばらくそうやって歩いていた彼は、自分のペースで歩けない事や、熱気や飛び交う物音や、人の話し声などの煩さに苛立ちを積もらせた。

 強い日差しに疲労感を覚え、建物の影で一休みした際、萬狩はいつの間にか自分が眉間に深い皺を刻み、忙しなく歩いていた事に気付いて沈黙した。

 少し前まで、これが普通だったのだ。

 煩わしさに囲まれて、余裕のない心で狭い視野から世界を眺め、自分の事を考える時間なんて少しもありはしない日々を、当然のように過ごしていた。

 そこまで考えて、萬狩は、ふと、この土地にきてから元妻への嫌悪や苛立ちを忘れていた事を思い出した。国際通りに立ち並ぶアプレルショップのブランド名や、高級宝石店、時計店の看板を見ても、今は愚痴の一つだって思い浮かんではこなかった。

 どうしてかは分からない。

 強い女だったなと、そう思い返すばかりで激情はない。

 慣れない土地で、距離感のよく掴めない呑気な人間と、新しい家や老犬といった忙しさで、忘れてしまっていたのだろうか。