萬狩が長い電話を終えると、足元で座って待っていたシェリーが腰を上げた。彼が煙草を吸いに歩き出すと、彼女は尻尾を優雅に振りながら後ろからついてくる。

 出会い頭におぼつかないと思っていた彼女の足取りも、よくよく見れば、実はゆっくり歩いているだけなのだと萬狩は思い至っていた。

 他の犬を知らない萬狩の歩みも、自然とゆっくりとなる。

 萬狩は煙草を吸った後、楽譜を持ってグランドピアノのある部屋へと向かった。拙いながらも、今では全部の章を止まらずに弾けるまでになっていた。

 けれど彼は、流れるように弾きたいのだ。ピアノ教室は先月で受講を終了していたが、この部屋の雰囲気に相応しい音を出すべく、指がそれを覚えてくれるように今でもグランドピアノで練習を続けていた。

 ピアノ教室で習い続けるかは、まだ検討していない。どんなに焦ろうが、不慣れなものに対して身に習得させるには、相応の時間がかかるものだ。

 積み重ねが大事で、それに近道なんてありはしない。

「俺は、一曲しか弾けないぞ」

 ピアノを弾いている間、聞き耳を立てていたシェリーに、萬狩はそう声を掛けた。彼女は一度だけ顔を上げて「ふわ」と寝むそうに鳴いた。

 前の主人に比べれば、自分が全く話にならない程度の伴奏だという事は、萬狩も自覚しているつもりだ。けれど、こう見えて彼も必死で上手く演奏しようと心掛けてはいるのだ。

「ちぇっ。聞き飽きたからって、半分寝る事もないだろうに……」
「ふわぁ」

 そう小さく反論すれば、欠伸混じりの返事をされる始末だ。

 萬狩は憮然としながらも、睨みつけるように楽譜を凝視し、けれど真面目にピアノの鍵盤を叩き続けた。

 何が変わったのか、何が変わっていないのかは分からない。