幼い頃、おばあちゃんに言われたことがある。
「こばとちゃんは特別かわいいから、周りのお友達にうんと優しくしなさい。じゃないとやっかまれるよ」
まだ小さかったので、おばあちゃんの言葉の意味はよく分からなかったけれど、お友達に優しくしようと思った。
お母さんに言われたあの言葉は、子どもながらに嬉しかった。
「こばとちゃんはね、みんなに愛されるために生まれてきたのよ」
頭を撫でながら優しい笑顔で囁かれた言葉は、今でも宝物のように思っている。
一つ年上のお兄ちゃんからはこう言われた。
「こばとに何かあったら、必ずにいちゃんが守ってやるからな」
お兄ちゃんは王子様みたいにかっこよかったので、自分がお姫様になったような気持ちになった。
高校二年、夏。
どこで何を間違えたのだろう。何がいけなくて、こうなってしまったのか。
クラスのみんなが大好きだった。笑い声の絶えない明るい教室、仲の良いクラスメイト。学校に行くのはいつも楽しい。勉強は得意じゃないけれど、頭のいい子に教えてもらったり。スポーツも苦手だけど、運動部の子に励ましてもらって。そんな優しいクラスが大好きだった。
あのときまでは。
永瀬こばとは男好き。
黒板に白いチョークで書かれた落書きを見て、心がずしんと重くなる。その他にも口にしたくないような下品な悪口がたくさん書かれていた。
登校して一番にすることは、黒板を綺麗にすることだ。机の周りもひどいことになっているけれど、まずは一番目立つところから片づけなければならない。ブス、と書かれた文字を消すときに手が震えた。こばとは背伸びをして黒板の上から下まで綺麗にする。くすくすと後ろから聞こえる笑い声に、泣きたい気持ちになった。
それから自分の席に戻ると、机の上に置かれた花瓶を片付けるために廊下に出る。花瓶の水を流して、花はもったいないけれどゴミ箱へ。ごめんね、と心の中で謝った。
今日は珍しく机に落書きがされていない。いつもなら、黒板と机、どちらにも意地悪な落書きがされているのに。椅子に画鋲が置かれていないことを確認して、席に着く。またくすくすと笑い声が聞こえて、今度は何だろう、と身構える。カバンは登校してからずっと持ち歩いているので無事だし、他にいたずらされるとしたらロッカーだろうか。
そんなことを考えながら、カバンの中身を机にしまおうとしたときだった。
げご、と聞きなれない鳴き声と共に、緑色の物体が飛び出してくる。
「きゃああ!」
逃げるように大きくのけぞって、ガタンと椅子が倒れる。制服のスカートにくっついた緑色の正体は、カエルだった。真っ青な顔でスカートをバタバタ仰ぐと、男子がラッキーと呟く声が聞こえる。下着が見えてしまったのかもしれない。でもそんなことよりも、カエルを引き離すことに必死だった。
ぺた、と床に落ちたカエルは、ぴょこん、ぴょこん、と軽やかな足取りで教室を横切っていった。
へなへなとその場に座り込んだこばとに、クラスメイトが心無い言葉を投げかける。
「うわぁ、ぶりっ子」
「絶対今わざとスカートの中見せたよね」
「そこまでして男子に好かれたいの? 本当アバズレ」
わざとじゃないのに。
我慢していた涙が、ぽつりとこぼれ落ちる。その姿も面白いらしく、教室の中にはこばとを嘲る笑い声が響いていた。
「こばと、私好きな人がいるの。応援してくれるよね?」
二ヶ月前、クラスでも特別仲のいい女の子に、そんな言葉をかけられたのは記憶に新しい。
彼女の名前は松村あゆみ。こばととは対照的に少し派手なタイプで、スカート丈は膝上十センチ、金髪に、ピアスまで開けている女の子だ。見た目は近寄りがたいが、面倒見のいい性格をしていて、二年生になって一番にこばとへ声をかけてくれたのも彼女だった。
「もちろんだよ! あゆみちゃんの好きな人なら、こばと、応援するよ!」
「ありがとう。こばとはやっぱり優しいね」
誰にでも親切に。それがこばとのモットーだった。幼い頃祖母にもらったアドバイス。それから道徳の時間に習った、『人に親切にすると、いつか必ず自分に返ってくる』という教えを大事にしているのだ。
あゆみのように仲のいい友達はもちろん、クラスの中心にいるような男の子も、教室の隅で静かに漫画を読んでいるような女の子にも、こばとは平等に接した。毎日必ず全員に挨拶をしたし、出来る限りみんなと話そうと努力した。
派手なグループに属しているあゆみは、そんなこばとのことが理解出来ないようで、「あんなオタク連中放っておきなよ」と度々言われた。それでもみんなに話しかけ続けるこばとに、「まああんたはいい子ちゃんだもんね」と理解してくれたようだった。
あゆみは少しキツい性格をしているけれど、素直なところもある。美人で目立つタイプだし、男の子にももちろん言い寄られる。そんな彼女だが、彼氏を作ることはなかったので、てっきりまだ恋には興味がないものと思い込んでいた。そんななか告げられた「好きな人がいる」という情報は、こばとを笑顔にさせてくれた。
「あゆみちゃん、モテるのに全然彼氏作らないから不思議だったんだけど、好きな人がいたんだね」
友人が秘密を打ち明けてくれたこと。そしてそれが幸せな情報だったので、こばとは嬉しくなる。にこにこしていると、頭をぽすん、と叩かれる。
「モテるとか、こばとにだけは言われたくないわー。学校一のモテ女め」
学校で一番かどうかは分からないが、こばとが男子にモテるのは本当のことだった。誰にでも平等に、笑顔で話しかけているからか、自然と人に好かれるのだ。そのこと自体はこばとも嬉しいと思っている。みんなに好かれることは出来ないかもしれないが、せめて誰からも嫌われない人間でありたい。そう思っているからだ。
容姿に恵まれていることも、要因の一つなのだろう。生まれながらに色素の薄い髪と目。薄茶色のそれは、ハーフみたいでかわいいねとよく褒められた。お人形のように整った顔立ちも、人目を引いた。
こばとは自分がかわいいことを知っていたけれど、ひけらかすようなことは一切しなかった。容姿に恵まれたのは、両親のおかげ。努力で手に入れたものではないから、自慢したりしない。
だから、男の子に好きだと言ってもらえるのは嬉しいが、一目惚れだと言われるよりも内面を見てもらえる方が好きだった。
「こばと? 聞いてる?」
「えっ? あっ、ごめんね、ぼーっとしちゃってた」
「もう。こばとはすぐ自分の世界に入っちゃうんだから」
そうなのだ。気がつくとぼんやり考え事をしていて、人の話を途中から聞いていなかった、なんてこともある。気をつけなければ、と思うのに、無意識のうちにしてしまうのだからどうしようもない。
気を取り直してあゆみに、好きな人の話だよね、と笑いかけると、彼女は「実はね」と小声で囁いた。
「遼馬なの」
「……えっ? 遼馬くんって……サッカー部の?」
山田遼馬。二年生にして、強豪と呼ばれるサッカー部でレギュラーを取る実力を持ち、性格も朗らかで女子からの人気も高い。こばと達とは同じクラスで、よくあゆみと二人で話しているのを見かける。
美男美女のお似合いカップルだね、そう言えたらどんなによかっただろう。言葉に詰まってしまったのには、理由があった。
一週間前のことだ、遼馬に呼び出され、告白をされたのは。
『永瀬のこと一年のときからずっと見てて……誰にでも優しいじゃん。そういうところ、好きだなって。よかったら俺と、付き合ってくれない?』
いつも笑顔でいる彼の、初めて見る緊張した顔。日焼けした頰がほんのり赤く染まって見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
いつもなら、告白はその場でお断りしていた。外見を理由に好きだと言われることが多かったからだ。でも遼馬の告白は違った。こばとのことをちゃんと見てくれて、内面を好きだと言ってくれたのだ。
だからちゃんと考えようと思った。誰かに恋をしたことはないけれど、その気持ちが嬉しかったから。返事を一旦保留にさせてもらい、考える時間をください、とお願いしたのだ。
全身の血が足元に降りていくような、そんな感覚だった。あゆみの目を見ることが出来ない。どうしよう、とそればかりが頭の中を巡っていた。
「こばと?」
「あっ、うん。あゆみちゃん美人だし、遼馬くんはかっこいいし、お似合いだと思う」
無理矢理作った笑顔は、引き攣っていなかっただろうか。そのことだけが心配だった。
友人の好きな人が、自分を好きだった。そんな三角関係は、少女漫画の中だけに起こりうることだと思っていたのに。
「応援してくれるよね?」
こばとの顔を覗き込んで、あゆみが問いかける。
「うん、もちろん……!」
そう答えながら、こばとは背中に冷や汗が伝うのを感じていた。
それから、一週間後のことだ。
いじめは突然始まった。
朝いつも通りに登校して、教室に入った瞬間、違和感を覚える。ざわざわしていた教室が一瞬で静まり返ったのだ。どうしたのだろう、となんとなく嫌な予感に駆られながらも、おはようと挨拶をしようとしたそのときだった。
視界に飛び込んできた、自分の名前。
『永瀬こばとはヤリマン! 人の男を平気で盗る女』
黒板にでかでかと書かれたその文字に、足が震える。
ふいに遼馬と目が合うが、すぐに逸らされた。こばとの優しいところが好きだと言ってくれた彼も、結局こんな嘘の情報に踊らされてしまうような軽い気持ちだったのだ。そのことにショックを受ける。
なにこれ……、と呟きながら立ち尽くしていると、くすくすと笑い声が聞こえてくる。
呆然としながら声の方を見ると、親友だと思っていたあゆみがこちらを見てにやにやと笑っていた。
「あゆみちゃん……?」
こばとの言葉に、あゆみは返事をしない。それどころか大きな声で「誰か何か言った?」と言ってみせる。まるで誰もこばとの声なんて聞こえないよね、と言っているかのようで、ぞっとする。
「えっ、な、なんで……」
どうして突然態度が変わったの? 何か気に障ることをした? 黒板の落書きはまさかあゆみちゃんが書いたの?
聞きたいことはたくさんある。それでも宙に浮いた言葉は、誰に拾い上げられることもなく、そのまま消えていった。
「何か急に空気悪くなったから換気しよう」
こばとの方を睨み、窓を開けるあゆみ。
理由は分からない。確かなのは、あゆみに嫌われてしまったということだけだった。
クラスメイトからは、自然と無視されるようになった。教室内にヒエラルキーがあるとすれば、あゆみは最上位。その彼女がこばとのことを無視するようになったのだから、周りのみんなもだんだんそれに倣うようになっていった。
こばとと仲良くして、あゆみに目をつけられたくない。そう思う人もいるのだろう。
毎日必ずクラスメイト全員に挨拶をしていたこばとだが、無視が始まって三日目に心が折れてやめてしまった。おはよう、と勇気を出して笑いかけても、無視されるか、小声で迷惑そうに返されるかのどちらかだ。
こばとはあゆみと仲がよかったので、クラス内に序列があるとすれば、きっと上から数えた方が早かっただろう。しかし、彼女に嫌われたその日から、一転して最下位にまで転げ落ちてしまった。
みんなに嫌われないように、と努力をして、誰にでも平等に接してきたつもりなのに、あまりにも簡単に、世界は壊れてしまった。
「あんたさぁ、遼馬に告白されてたんだって?」
ぐい、と長い髪の毛を引っ張られて、あゆみに冷たい声を投げかけられる。痛みにぎゅっと目を閉じるが、聞いてんのかよ、とまた強く髪を引かれ、こばとは口を開くしかなかった。
「そうだけど、でも、あゆみちゃんのことを応援しようと思ったのは本当で……」
「は? 本当は心の中であたしのこと笑ってたんでしょ?」
「ち、違うよ! こばとはそんなこと」
思ってない、と言いかけた言葉は、強い衝撃によって遮られた。頰を叩かれたのだ、と分かったのは、じんじんとした痛みと熱のせいだった。
「前から思ってたんだけど、自分のこと名前で呼ぶの気持ち悪いよ。かわいいとでも思ってんの?」
前から思っていた、その言葉が何よりこばとを傷つけた。
仲良しだと思っていたのに。今回の遼馬の一件で、少し仲がこじれてしまっただけ。すぐに元通りになる、そう信じていたのに、裏切られたような衝撃だった。
「つーか、別に遼馬のこと好きじゃないんでしょ? それなのに返事を保留に、とか、ただのキープじゃん」
「しかもあゆみが山田のことを好きって知ってても返事しなかったわけでしょ?」
「何それムカつく。友情より恋愛を取るんだ? 男好きだもんね」
次々にぶつけられる言葉の暴力に、涙がこぼれ落ちる。こばとが声もなく泣いていると、また強く髪を引っ張られた。
「いたっ!」
「あたしはあんたのせいでもっと痛い思いしたんだけど?」
「そうだよね。あゆみはあんたみたいなブスとも仲良くしてあげてたのに、裏切られて可哀想」
裏切るつもりなんてなかった。あゆみの好きな人を知ったのは、遼馬に告白された後だったし、保留にしていた返事もちゃんとお断りしようと思っていた。でも、遅かったのだ。こばとがすぐに行動しなかったから、あゆみを傷つけた。あの場で遼馬に告白された旨を伝えていれば、何かが変わっていたのだろうか。そんなことを考えてももう遅い。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
何度も謝って、涙を流し続けた。こばとは自分を責めながら、少しずつ心がすり減っていくのを感じていた。
いじめは日に日にひどくなっていった。
親には言えなかった。いじめの原因は自分にある。こばとが遼馬にちゃんとお断りの返事をしていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。そう思ってしまったからだ。
何より、いじめられていると言うと、母を悲しませてしまう気がした。こばとのことを女手一つで育ててくれた優しい母。幼い頃に父を亡くしたけれど、母と兄がいてくれたから、寂しくなかった。愛情をかけて育てた娘が、学校でいじめられているなんて知ったら、母はどう思うだろう。悲しい、恥ずかしい、情けない。どんな感情であれ、こばとは自分が惨めになる気がした。
それでも誰にも相談出来ないままでいるのは苦しかった。びりびりに破かれた教科書、黒板や机に書かれる悪口、ゴミ箱に捨てられたローファーに、靴の跡がはっきり残ったカバン。どれもこばとを追い詰めるばかりで、救いは何もない。あんなに楽しかったはずの学校が地獄のようで、毎日俯きながら早く終わってほしいと願っていた。
兄がいじめに気がついたのは、一ヶ月ほど経ったある日のことだった。
雨の日に教室の窓から捨てられて、ぐちゃぐちゃになった教科書を手に持ち、兄がまっすぐな目でこばとを見つめる。
「こばと、正直に答えて。おまえ、いじめられてるの?」
いつも優しい表情をこばとに向けてくれる兄が、珍しくこわい顔をしていた。整った顔立ちの人の怒った顔は恐ろしい。しかし何よりこわかったのは、いじめのことを兄に知られて、幻滅されることだった。
足が震えて、手の指先が冷たくなる。心臓がばくばくとうるさいくらいに主張して、目の奥が熱くなる。唇を噛み締めて、何も言えないまま立ち尽くすこばとに、兄は小さくため息を吐いた。
ああ、呆れられてしまった。嫌われちゃったかな。もう死んでしまいたい。
そう考えた瞬間だった。ぐい、と強い力で抱き寄せられて、ぎゅっと兄の腕の中に閉じ込められる。
「あのなぁ、こばと。にいちゃんはいつだっておまえの味方だって言ったろ」
それは、ずっと昔のことだ。何かあったら守ってやるから、と王子様のような言葉をかけてくれた優しい兄。
変わっていなかった。思春期になって、背が伸びて、少し大人になって。ちょっとぶっきらぼうになったけれど、兄は変わらず優しいままだったのだ。
ぼろぼろと涙がこぼれて、兄の腕の中で泣きじゃくる。
ひとりぼっちだと思っていた世界は、一人じゃなかった。こばとの味方だと言って、抱きしめてくれる人がいた。その事実がたまらなく嬉しくて、こばとは涙が枯れるまで泣き続けた。
「…………で、いつからいじめられてるの」
涙も落ち着いた頃。兄の夏生は、ストレートに問いかけてきた。いじめ、という言葉が胸に刺さり、こばとは眉を下げる。
「……一ヶ月くらい前から……」
何でもっと早く言わないんだ、と怒られるだろうか。
びくびくしながら夏生の言葉を待っていると、兄は「一人でよく頑張ったな」と頭を撫でてくれた。その言葉にまた泣いてしまいそうになる。じわりと浮かんだ涙を夏生が指先で拭ってくれた。
「母さんには? 俺から言おうか?」
「……いやだ、お母さんには知られたくない」
「…………分かった。その代わり、俺にはちゃんと話して」
兄は優しかった。こばとが泣きながら語るいじめの経緯を、たまに頷きながら黙って聞いてくれた。
どんないじめを受けているのか、語るときには声が震えた。夏生が一番心配していたのは、性的な嫌がらせをされていないか、ということだったが、そんなことは考えてもみなかったのでぞっとしてしまった。
いじめの中心人物は間違いなくあゆみだが、その他のクラスメイトも無視をしたり、ときには暴言を浴びせたりしてくる。その中には当然男の子もいる。
もしも男子の中で、そういう物騒な発想の人がいたら?
無理矢理押さえつけられて、脱がされて、犯されそうになったら、こばとは抵抗出来るだろうか。
どうせいじめられているんだし、こいつになら何をやってもいいや、と考える人間がいてもおかしくはない。いじめっていうのはそういうものなんだよ、と夏生が言った。
性的な嫌がらせを受けていないことを再三確認された後、「こばとはこれからどうしたい?」と夏生に訊かれた。
「高校なんて、行きたくなければ行かなくていい。高卒認定試験を受ければ大学は受験出来るんだから」
不登校、ということだろうか。
そんなことを考える日が来るなんて、思いもしなかった。こばとは誰にでも優しく親切に接してきたし、学校でもうまくやれていると思っていたのだ。たった一人に嫌われたことで、世界が一変するなんて、想像もしなかったことだ。
「他にも転校っていう選択肢もあるけど」
俺の通ってる学校に来る? と訊ねられたが、夏生の通う進学校には、こばとの成績では入れる気がしない。
それに何より、逃げるみたいで悔しかった。
「ううん、今の学校で、もう少し頑張る」
「…………それでもいいけど。その代わり、二つ約束して」
夏生がまっすぐな目でこばとを見つめる。こばとが小さく頷くと、兄は言葉を続けた。
「一つ、もしもさっき言ったみたいに、性犯罪に関わるような嫌がらせがちょっとでもあったら、すぐに俺に言うこと」
「うん」
「二つ、もしも追い詰められて死にたいって考えるようになったら、そのときは絶対に学校を休むこと」
約束出来る? と兄に問いかけられて、こばとは頷いた。
どちらの約束も、こばとの未来を心配しているからこそ出てくる言葉だった。そのことが嬉しくて、ありがとう、とお礼を言うと、兄は困ったように眉を下げた。
「いや、お礼を言われることじゃないだろ。こばとが辛いときに気付いてやれなくてごめんな」
夏生の優しい言葉に、こばとはじわりと胸の奥が熱くなるのを感じた。
ひとりぼっちじゃないと分かると、少しだけ励まされる気がする。それでも、辛いものは辛い。同じ学校には兄の夏生はいないし、こばとに対するいじめはなくならなかった。
あるとき、担任の教師が「このクラスにいじめがあるという報告があった」と言って、匿名のアンケート用紙が配られた。いじめに関するアンケートと名付けられたそれには、クラスにいじめがあるか、加害者と被害者は誰か、具体的にどんないじめが行われているか、という質問項目が並んでいた。
こばとはすごく悩んで、白紙のまま提出した。自分がいじめられている、と告白するのは、なぜか恥ずかしいことのように思えたからだ。
それでも、誰かがこばとのために声を上げてくれた、という事実は、こばとの心を少しだけ優しくしてくれた。
しかし教師への密告は、こばとの気持ちを励ましてくれるのと同時に、あゆみの気持ちを逆撫でしたようだった。
「先生にチクったでしょ!」
「ち、ちがうよ……!」
「おまえじゃなければ誰が言ったんだよ。言ってみろよ!」
強い衝撃が背中に走る。後ろから蹴り飛ばされたのだと理解したときには、床に倒れ込んでいた。教室の隅で小さな悲鳴が上がったのが聞こえたけれど、こばとは起き上がれなかった。ずきずきと痛む背中に、涙を堪える。
ぐい、と制服を引っ張られて、無理矢理起こされると、あゆみが怒りに満ち溢れた表情でこばとを睨んでいた。
「なに? 先生に言えば解決すると思った?」
「ち、ちがうの、言ったのはこばとじゃ……」
「残念でした。あんたが死ぬまでずっと続くから!」
その言葉に目を見開く。このいじめは、クラス替えと共に終わると思っていた。でも、違っていた。卒業するまで、彼女はこばとを追い詰める気なのだ。そして、その結果としてこばとが死んでもいいと、本気でそう思っているのだ。
二年生が終わるまで我慢すればいい。そう思っていただけに、受けたショックは大きかった。
ごめんなさい、許して、と泣きじゃくるこばとを、嘲るようにあゆみは笑う。教室の中に響くのは、あゆみの笑い声だけではなかった。そこかしこから聞こえてくる嘲笑の声。
いじめがあります、と先生に伝えてくれたのは誰だったのだろう。その人は今、どんな気持ちでこばとのことを見ているのかな。
他人事のように考えながら、こばとは嵐が通り過ぎるのを耐え忍ぶのだった。
夏休みも近くなった暑い日。体操服の半袖を破られ、仕方なく体育の授業を長袖で受けることにした。先生からは熱中症になるから脱ぎなさいと叱られたが、ジャージの下はキャミソールしか着ていないので脱ぐことも出来ない。倒れても自業自得だからね! と体育教師に怒鳴られ、やるせない気持ちになる。
こばとを笑う声が聞こえてきたが、心が麻痺しているのか、はたまた痛みに慣れてしまったためか、あまり気にならなくなっていた。
それでも物理的な嫌がらせはやはり辛いものがあった。物を隠されたり、壊されてしまったりすると、学校生活に支障が出る。何より一番苦しいのは、痛みを伴ういじめだった。
体育の授業では、先生の見ていないところで、バレーボールを集中的にぶつけられたり、足を引っかけて転ばされたりする。休み時間にはこばとのことをおもちゃのように蹴り飛ばし、痛みにうずくまるこばとを笑い飛ばす。靴をうっかり靴箱に入れっぱなしにすると、必ず画鋲を入れられるので、持ち歩くことにした。一番辛かったのは、ふざけて首を絞められたときだった。本当に死んでしまうかと思ったし、苦しむこばとを笑いながら見ているあゆみ達を心からこわいと思った。
最初の変化に気がついたのは、その日の体育の終わりの時間だった。片付けを押し付けられて、後から教室に戻ると、クラスメイトはもうすでに次の教室に移動していた。次は理科室。グループでの実験は憂鬱だ。あゆみ達と同じ班にはならなくても、こばとがクラスで浮いた存在であることは確かなので、同じグループの子に気を遣わせてしまう。
理科の教科書とノートを取り出そうと机の中に手を入れ、こばとは目を丸くする。
ぼろぼろに破かれた教科書と、油性ペンで落書きされたノート。それはいつも通りだ。でもノートの間に、何かコピー用紙のようなものが挟まっていたのだ。
何も挟んだ覚えはないし、またあゆみからの嫌がらせだろうか。警戒しながらそっとノートを開くと、そこに挟まれていたのは、今日やる実験について書かれたページのコピーだった。
家で兄に勉強を教えてもらっているけれど、成績が落ちると母に怪しまれてしまう。教科書はぼろぼろでまともに読めない状態なので、教科書のコピーは本当にありがたかった。
「……でも、誰が入れてくれたんだろう……」
もしかして、先生にいじめがあると伝えてくれた人と、同じ人だろうか。あのときは結果として裏目に出てしまったけれど、こばとを助けようとしてくれたその気持ちは今でもこばとを励ましてくれている。
兄の夏生だけではない。誰かは分からないが、学校にも、こばとを支えてくれる人がいる。
もらった教科書のコピーをそっと抱きしめて、こばとはひとりぼっちの教室でぽつりと涙を流した。それは、久しぶりの嬉し涙だった。
コピーをもらったその日から、少しずつ変化が起こり始めた。
ある朝、教室に入ったときに、やけにクラスが騒がしいことに気がつく。普段は目立たないように俯いているこばとだが、そっと顔を上げると、いつもは黒板にでかでかと書かれている悪口が、書かれていない。
やめてくれたのかな、と一瞬期待したが、あゆみが「消したの誰だよ!」と怒り狂っているのを見て、状況を理解する。
あゆみが悪口を書くのをやめたのではない。クラスメイトの誰かが、こばとの悪口を消してくれたのだ。
じん、と胸の奥が熱くなる。また助けてくれた。きっと、教科書のコピーをくれた人と同じ人なのだろう。
表立って声をかけてくれたわけではないので、誰だかは分からない。でも、こばとに対するいじめを、良く思っていない人もいるという事実が何より嬉しかった。
それから、毎日誰かが黒板の悪口を消してくれるようになった。飽きもせず悪口を書き続けるあゆみと、放課後遅くまで残って、もしくは朝早く来てこばとの見えないところで消してくれる優しい誰か。
優しさは、どんどん目に見える形で広がっていった。破かれた教科書をテープで貼り直してくれたり、水に濡らされて読めなくなったノートのコピーをくれたり。
お弁当をゴミ箱に捨てられてしまった日は、いつのまにかカバンにパンが入っていたこともあった。さすがにこばともこれは予想していなくて、教室の中を見回してしまったけれど、こばとの様子を伺っているような生徒はいない。購買で売っているいちごジャムのコッペパン。もしかして、こばとのために買いに行ってくれたのだろうか。そう考えると嬉しくてたまらない気持ちになった。
学校は相変わらず憂鬱だったけれど、正体の分からない優しい誰かのおかげで、少しだけ息がしやすくなった気がした。ここにいてもいいんだよ、と言われているような気がして、勇気をもらえた。
その人は、こばとにとって王子様だった。
名前も性別も分からない。もしかしたら、女の子かもしれない。でも、こばとにはそんなこと関係がなかった。
いつも隠れてこばとを助けてくれる人。
字が綺麗で、丁寧にノートを取っているまじめな人。
教科書の修復の仕方が少しだけ下手だから、たぶんちょっと手先が不器用な人。
こばとに勇気をくれる、優しい人。
知っていることなんてほとんどない。だけど、確かにその人はこばとの王子様だ。
童話の中のお姫様のように、いつか助け出してもらえたら。そんなことを夢見ながら、こばとは誰かも分からないその人に想いを寄せた。
その日は猛暑日だった。汗がじわりと滲む朝、いつものように学校に行くと、こばとは言葉を失った。
『永瀬こばとはブス。男好き』
大きく黒板に書かれた文字に、心臓がきゅっと縮こまる。最近は誰かが消してくれていたから、見ずに済んでいた悪口。久しぶりに目にしたそれは、こばとの心を深く抉った。
なんで……もしかして、王子様にも見捨てられちゃったのかな。絶望ばかりのこの学校での、唯一の希望だったのに。
早く、自分で消さなきゃ。今までだってそうしてきたんだから、難しいことじゃない。
そう言い聞かせてみても、足は地面に貼りついたように動かない。
教室の入り口で立ち尽くすこばとの横を、すっと小柄な少女が通り抜ける。そのまますたすたと黒板の前まで歩いていった彼女は、あゆみ達から「何?」と声をかけられたのも無視をして、黒板消しを手に取った。そして。
「渡辺! お前何してんだよ!」
あゆみから怒声が飛んだ。それもそのはず。彼女は黒板に大きく書かれたこばとの悪口を消し始めたのだ。
ぱんぱん、と手を叩く音が教室に響く。静まり返った教室で、クラスメイトの視線は一人に集中していた。
彼女が、顔を上げた。
瞬間、こばとと視線が重なり合う。
「こばとちゃん!」
駆け寄ってきた少女が、小さな手をこばとに差し出す。
「行こう!」
どこへ、とは言わなかった。朝のホームルームはもうすぐ始まってしまう。
それでもこばとは、彼女の手を取り、小さく頷いた。目の奥が熱い。涙で目の前が滲んでいく。
ぐい、と見かけによらず力強い手で、彼女はこばとを連れ去った。教室を飛び出し、玄関を駆け抜けて、正門まで。そこまで辿り着いてようやく足を止めると、彼女は泣き笑いの表情を浮かべ、「あーっ、こわかった……!」と声を上げた。
その言葉を聞いた瞬間、堪えていた涙があふれ出して止まらなくなる。ぼろぼろと溢れる涙はそのままに、ありがとう、と何度もお礼を言った。握ってくれている手が震えていた。こばとがいじめられる現場をずっと見てきたのだ、こわくないわけがない。それでも助けてくれた。こばとの名前を呼んで、手を引き、あの狭い教室から連れ出してくれたのだ。
「ずっと気づいてたのに、助けられなくてごめんね、こばとちゃん」
彼女に呼ばれた名前は、ひどく優しい響きをしていた。ううん、と首を横に振り、涙を拭う。
「ううん……いいの。黒板とか、教科書とか、ノートのコピーとか、全部渡辺さんだったんだね」
渡辺由花。それが彼女の名前だ。クラスで一番小柄な女の子。まだいじめが始まる前、こばとが挨拶をすると、いつも笑顔で返してくれていた。小さいけれど姿勢が良くて、正義感の強い、優しい女の子だ。
彼女がこばとの王子様だった。男の子ではなかったけれど、確かに由花はこばとを助け出してくれた。正真正銘の、王子様だ。
由花の手をぎゅっと握り、こばとは震える声でお礼を言う。
「本当に嬉しかったの。だから、お礼を言わせて。味方をしてくれて、ありがとう」
黙って見ているだけでもよかったはずだ。その方が由花の身の安全は確保出来る。クラスの中での立ち位置も、中くらいに位置していたであろう由花が、最底辺のこばとに手を差し伸べる必要はなかったのだ。
それでも由花は味方をしてくれた。もしかしたら明日から、同じようにいじめられてしまうかもしれない。そんな危険をおかしてまで、こばとを救い出してくれた。
もしも明日、由花が嫌がらせをされそうになったら、今度はこばとが庇えるようになりたい。もともといじめられているこばとでは何も出来ないかもしれない。それでも、由花がこばとを助けてくれたように、こばとも彼女を守りたいとそう思った。
「お兄ちゃん、あのね。今日、初めてクラスの女の子がこばとのことを助けてくれたの。すっごくすっごく嬉しかった。渡辺由花ちゃんっていってね、友達になってくれたの。明日も一緒に学校に行こうねって約束をして。うん、だからこばと、頑張るよ」
ずっと心配をかけていた兄に、一番に電話した。授業中かもしれないと思ったが、意外にも兄はワンコールで電話に出て、こばとの話を優しく聞いてくれた。
『渡辺由花?』
「うん、由花ちゃん。背がちっちゃくて、猫みたいなまん丸な目で、かわいいんだよ」
かわいいけど、かっこいい。こばとの王子様なんだよ、という言葉は恥ずかしくて言えなかったけれど、いつか兄にも紹介したいと思う。
お友達で、王子様で、それから。
学校という狭い世界を、一瞬で変えてくれた人。
久しぶりに明日の学校が楽しみ、と思いながら、こばとは由花のことを思い浮かべ、心からの笑みを浮かべるのだった。
「こばとちゃんは特別かわいいから、周りのお友達にうんと優しくしなさい。じゃないとやっかまれるよ」
まだ小さかったので、おばあちゃんの言葉の意味はよく分からなかったけれど、お友達に優しくしようと思った。
お母さんに言われたあの言葉は、子どもながらに嬉しかった。
「こばとちゃんはね、みんなに愛されるために生まれてきたのよ」
頭を撫でながら優しい笑顔で囁かれた言葉は、今でも宝物のように思っている。
一つ年上のお兄ちゃんからはこう言われた。
「こばとに何かあったら、必ずにいちゃんが守ってやるからな」
お兄ちゃんは王子様みたいにかっこよかったので、自分がお姫様になったような気持ちになった。
高校二年、夏。
どこで何を間違えたのだろう。何がいけなくて、こうなってしまったのか。
クラスのみんなが大好きだった。笑い声の絶えない明るい教室、仲の良いクラスメイト。学校に行くのはいつも楽しい。勉強は得意じゃないけれど、頭のいい子に教えてもらったり。スポーツも苦手だけど、運動部の子に励ましてもらって。そんな優しいクラスが大好きだった。
あのときまでは。
永瀬こばとは男好き。
黒板に白いチョークで書かれた落書きを見て、心がずしんと重くなる。その他にも口にしたくないような下品な悪口がたくさん書かれていた。
登校して一番にすることは、黒板を綺麗にすることだ。机の周りもひどいことになっているけれど、まずは一番目立つところから片づけなければならない。ブス、と書かれた文字を消すときに手が震えた。こばとは背伸びをして黒板の上から下まで綺麗にする。くすくすと後ろから聞こえる笑い声に、泣きたい気持ちになった。
それから自分の席に戻ると、机の上に置かれた花瓶を片付けるために廊下に出る。花瓶の水を流して、花はもったいないけれどゴミ箱へ。ごめんね、と心の中で謝った。
今日は珍しく机に落書きがされていない。いつもなら、黒板と机、どちらにも意地悪な落書きがされているのに。椅子に画鋲が置かれていないことを確認して、席に着く。またくすくすと笑い声が聞こえて、今度は何だろう、と身構える。カバンは登校してからずっと持ち歩いているので無事だし、他にいたずらされるとしたらロッカーだろうか。
そんなことを考えながら、カバンの中身を机にしまおうとしたときだった。
げご、と聞きなれない鳴き声と共に、緑色の物体が飛び出してくる。
「きゃああ!」
逃げるように大きくのけぞって、ガタンと椅子が倒れる。制服のスカートにくっついた緑色の正体は、カエルだった。真っ青な顔でスカートをバタバタ仰ぐと、男子がラッキーと呟く声が聞こえる。下着が見えてしまったのかもしれない。でもそんなことよりも、カエルを引き離すことに必死だった。
ぺた、と床に落ちたカエルは、ぴょこん、ぴょこん、と軽やかな足取りで教室を横切っていった。
へなへなとその場に座り込んだこばとに、クラスメイトが心無い言葉を投げかける。
「うわぁ、ぶりっ子」
「絶対今わざとスカートの中見せたよね」
「そこまでして男子に好かれたいの? 本当アバズレ」
わざとじゃないのに。
我慢していた涙が、ぽつりとこぼれ落ちる。その姿も面白いらしく、教室の中にはこばとを嘲る笑い声が響いていた。
「こばと、私好きな人がいるの。応援してくれるよね?」
二ヶ月前、クラスでも特別仲のいい女の子に、そんな言葉をかけられたのは記憶に新しい。
彼女の名前は松村あゆみ。こばととは対照的に少し派手なタイプで、スカート丈は膝上十センチ、金髪に、ピアスまで開けている女の子だ。見た目は近寄りがたいが、面倒見のいい性格をしていて、二年生になって一番にこばとへ声をかけてくれたのも彼女だった。
「もちろんだよ! あゆみちゃんの好きな人なら、こばと、応援するよ!」
「ありがとう。こばとはやっぱり優しいね」
誰にでも親切に。それがこばとのモットーだった。幼い頃祖母にもらったアドバイス。それから道徳の時間に習った、『人に親切にすると、いつか必ず自分に返ってくる』という教えを大事にしているのだ。
あゆみのように仲のいい友達はもちろん、クラスの中心にいるような男の子も、教室の隅で静かに漫画を読んでいるような女の子にも、こばとは平等に接した。毎日必ず全員に挨拶をしたし、出来る限りみんなと話そうと努力した。
派手なグループに属しているあゆみは、そんなこばとのことが理解出来ないようで、「あんなオタク連中放っておきなよ」と度々言われた。それでもみんなに話しかけ続けるこばとに、「まああんたはいい子ちゃんだもんね」と理解してくれたようだった。
あゆみは少しキツい性格をしているけれど、素直なところもある。美人で目立つタイプだし、男の子にももちろん言い寄られる。そんな彼女だが、彼氏を作ることはなかったので、てっきりまだ恋には興味がないものと思い込んでいた。そんななか告げられた「好きな人がいる」という情報は、こばとを笑顔にさせてくれた。
「あゆみちゃん、モテるのに全然彼氏作らないから不思議だったんだけど、好きな人がいたんだね」
友人が秘密を打ち明けてくれたこと。そしてそれが幸せな情報だったので、こばとは嬉しくなる。にこにこしていると、頭をぽすん、と叩かれる。
「モテるとか、こばとにだけは言われたくないわー。学校一のモテ女め」
学校で一番かどうかは分からないが、こばとが男子にモテるのは本当のことだった。誰にでも平等に、笑顔で話しかけているからか、自然と人に好かれるのだ。そのこと自体はこばとも嬉しいと思っている。みんなに好かれることは出来ないかもしれないが、せめて誰からも嫌われない人間でありたい。そう思っているからだ。
容姿に恵まれていることも、要因の一つなのだろう。生まれながらに色素の薄い髪と目。薄茶色のそれは、ハーフみたいでかわいいねとよく褒められた。お人形のように整った顔立ちも、人目を引いた。
こばとは自分がかわいいことを知っていたけれど、ひけらかすようなことは一切しなかった。容姿に恵まれたのは、両親のおかげ。努力で手に入れたものではないから、自慢したりしない。
だから、男の子に好きだと言ってもらえるのは嬉しいが、一目惚れだと言われるよりも内面を見てもらえる方が好きだった。
「こばと? 聞いてる?」
「えっ? あっ、ごめんね、ぼーっとしちゃってた」
「もう。こばとはすぐ自分の世界に入っちゃうんだから」
そうなのだ。気がつくとぼんやり考え事をしていて、人の話を途中から聞いていなかった、なんてこともある。気をつけなければ、と思うのに、無意識のうちにしてしまうのだからどうしようもない。
気を取り直してあゆみに、好きな人の話だよね、と笑いかけると、彼女は「実はね」と小声で囁いた。
「遼馬なの」
「……えっ? 遼馬くんって……サッカー部の?」
山田遼馬。二年生にして、強豪と呼ばれるサッカー部でレギュラーを取る実力を持ち、性格も朗らかで女子からの人気も高い。こばと達とは同じクラスで、よくあゆみと二人で話しているのを見かける。
美男美女のお似合いカップルだね、そう言えたらどんなによかっただろう。言葉に詰まってしまったのには、理由があった。
一週間前のことだ、遼馬に呼び出され、告白をされたのは。
『永瀬のこと一年のときからずっと見てて……誰にでも優しいじゃん。そういうところ、好きだなって。よかったら俺と、付き合ってくれない?』
いつも笑顔でいる彼の、初めて見る緊張した顔。日焼けした頰がほんのり赤く染まって見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
いつもなら、告白はその場でお断りしていた。外見を理由に好きだと言われることが多かったからだ。でも遼馬の告白は違った。こばとのことをちゃんと見てくれて、内面を好きだと言ってくれたのだ。
だからちゃんと考えようと思った。誰かに恋をしたことはないけれど、その気持ちが嬉しかったから。返事を一旦保留にさせてもらい、考える時間をください、とお願いしたのだ。
全身の血が足元に降りていくような、そんな感覚だった。あゆみの目を見ることが出来ない。どうしよう、とそればかりが頭の中を巡っていた。
「こばと?」
「あっ、うん。あゆみちゃん美人だし、遼馬くんはかっこいいし、お似合いだと思う」
無理矢理作った笑顔は、引き攣っていなかっただろうか。そのことだけが心配だった。
友人の好きな人が、自分を好きだった。そんな三角関係は、少女漫画の中だけに起こりうることだと思っていたのに。
「応援してくれるよね?」
こばとの顔を覗き込んで、あゆみが問いかける。
「うん、もちろん……!」
そう答えながら、こばとは背中に冷や汗が伝うのを感じていた。
それから、一週間後のことだ。
いじめは突然始まった。
朝いつも通りに登校して、教室に入った瞬間、違和感を覚える。ざわざわしていた教室が一瞬で静まり返ったのだ。どうしたのだろう、となんとなく嫌な予感に駆られながらも、おはようと挨拶をしようとしたそのときだった。
視界に飛び込んできた、自分の名前。
『永瀬こばとはヤリマン! 人の男を平気で盗る女』
黒板にでかでかと書かれたその文字に、足が震える。
ふいに遼馬と目が合うが、すぐに逸らされた。こばとの優しいところが好きだと言ってくれた彼も、結局こんな嘘の情報に踊らされてしまうような軽い気持ちだったのだ。そのことにショックを受ける。
なにこれ……、と呟きながら立ち尽くしていると、くすくすと笑い声が聞こえてくる。
呆然としながら声の方を見ると、親友だと思っていたあゆみがこちらを見てにやにやと笑っていた。
「あゆみちゃん……?」
こばとの言葉に、あゆみは返事をしない。それどころか大きな声で「誰か何か言った?」と言ってみせる。まるで誰もこばとの声なんて聞こえないよね、と言っているかのようで、ぞっとする。
「えっ、な、なんで……」
どうして突然態度が変わったの? 何か気に障ることをした? 黒板の落書きはまさかあゆみちゃんが書いたの?
聞きたいことはたくさんある。それでも宙に浮いた言葉は、誰に拾い上げられることもなく、そのまま消えていった。
「何か急に空気悪くなったから換気しよう」
こばとの方を睨み、窓を開けるあゆみ。
理由は分からない。確かなのは、あゆみに嫌われてしまったということだけだった。
クラスメイトからは、自然と無視されるようになった。教室内にヒエラルキーがあるとすれば、あゆみは最上位。その彼女がこばとのことを無視するようになったのだから、周りのみんなもだんだんそれに倣うようになっていった。
こばとと仲良くして、あゆみに目をつけられたくない。そう思う人もいるのだろう。
毎日必ずクラスメイト全員に挨拶をしていたこばとだが、無視が始まって三日目に心が折れてやめてしまった。おはよう、と勇気を出して笑いかけても、無視されるか、小声で迷惑そうに返されるかのどちらかだ。
こばとはあゆみと仲がよかったので、クラス内に序列があるとすれば、きっと上から数えた方が早かっただろう。しかし、彼女に嫌われたその日から、一転して最下位にまで転げ落ちてしまった。
みんなに嫌われないように、と努力をして、誰にでも平等に接してきたつもりなのに、あまりにも簡単に、世界は壊れてしまった。
「あんたさぁ、遼馬に告白されてたんだって?」
ぐい、と長い髪の毛を引っ張られて、あゆみに冷たい声を投げかけられる。痛みにぎゅっと目を閉じるが、聞いてんのかよ、とまた強く髪を引かれ、こばとは口を開くしかなかった。
「そうだけど、でも、あゆみちゃんのことを応援しようと思ったのは本当で……」
「は? 本当は心の中であたしのこと笑ってたんでしょ?」
「ち、違うよ! こばとはそんなこと」
思ってない、と言いかけた言葉は、強い衝撃によって遮られた。頰を叩かれたのだ、と分かったのは、じんじんとした痛みと熱のせいだった。
「前から思ってたんだけど、自分のこと名前で呼ぶの気持ち悪いよ。かわいいとでも思ってんの?」
前から思っていた、その言葉が何よりこばとを傷つけた。
仲良しだと思っていたのに。今回の遼馬の一件で、少し仲がこじれてしまっただけ。すぐに元通りになる、そう信じていたのに、裏切られたような衝撃だった。
「つーか、別に遼馬のこと好きじゃないんでしょ? それなのに返事を保留に、とか、ただのキープじゃん」
「しかもあゆみが山田のことを好きって知ってても返事しなかったわけでしょ?」
「何それムカつく。友情より恋愛を取るんだ? 男好きだもんね」
次々にぶつけられる言葉の暴力に、涙がこぼれ落ちる。こばとが声もなく泣いていると、また強く髪を引っ張られた。
「いたっ!」
「あたしはあんたのせいでもっと痛い思いしたんだけど?」
「そうだよね。あゆみはあんたみたいなブスとも仲良くしてあげてたのに、裏切られて可哀想」
裏切るつもりなんてなかった。あゆみの好きな人を知ったのは、遼馬に告白された後だったし、保留にしていた返事もちゃんとお断りしようと思っていた。でも、遅かったのだ。こばとがすぐに行動しなかったから、あゆみを傷つけた。あの場で遼馬に告白された旨を伝えていれば、何かが変わっていたのだろうか。そんなことを考えてももう遅い。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
何度も謝って、涙を流し続けた。こばとは自分を責めながら、少しずつ心がすり減っていくのを感じていた。
いじめは日に日にひどくなっていった。
親には言えなかった。いじめの原因は自分にある。こばとが遼馬にちゃんとお断りの返事をしていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。そう思ってしまったからだ。
何より、いじめられていると言うと、母を悲しませてしまう気がした。こばとのことを女手一つで育ててくれた優しい母。幼い頃に父を亡くしたけれど、母と兄がいてくれたから、寂しくなかった。愛情をかけて育てた娘が、学校でいじめられているなんて知ったら、母はどう思うだろう。悲しい、恥ずかしい、情けない。どんな感情であれ、こばとは自分が惨めになる気がした。
それでも誰にも相談出来ないままでいるのは苦しかった。びりびりに破かれた教科書、黒板や机に書かれる悪口、ゴミ箱に捨てられたローファーに、靴の跡がはっきり残ったカバン。どれもこばとを追い詰めるばかりで、救いは何もない。あんなに楽しかったはずの学校が地獄のようで、毎日俯きながら早く終わってほしいと願っていた。
兄がいじめに気がついたのは、一ヶ月ほど経ったある日のことだった。
雨の日に教室の窓から捨てられて、ぐちゃぐちゃになった教科書を手に持ち、兄がまっすぐな目でこばとを見つめる。
「こばと、正直に答えて。おまえ、いじめられてるの?」
いつも優しい表情をこばとに向けてくれる兄が、珍しくこわい顔をしていた。整った顔立ちの人の怒った顔は恐ろしい。しかし何よりこわかったのは、いじめのことを兄に知られて、幻滅されることだった。
足が震えて、手の指先が冷たくなる。心臓がばくばくとうるさいくらいに主張して、目の奥が熱くなる。唇を噛み締めて、何も言えないまま立ち尽くすこばとに、兄は小さくため息を吐いた。
ああ、呆れられてしまった。嫌われちゃったかな。もう死んでしまいたい。
そう考えた瞬間だった。ぐい、と強い力で抱き寄せられて、ぎゅっと兄の腕の中に閉じ込められる。
「あのなぁ、こばと。にいちゃんはいつだっておまえの味方だって言ったろ」
それは、ずっと昔のことだ。何かあったら守ってやるから、と王子様のような言葉をかけてくれた優しい兄。
変わっていなかった。思春期になって、背が伸びて、少し大人になって。ちょっとぶっきらぼうになったけれど、兄は変わらず優しいままだったのだ。
ぼろぼろと涙がこぼれて、兄の腕の中で泣きじゃくる。
ひとりぼっちだと思っていた世界は、一人じゃなかった。こばとの味方だと言って、抱きしめてくれる人がいた。その事実がたまらなく嬉しくて、こばとは涙が枯れるまで泣き続けた。
「…………で、いつからいじめられてるの」
涙も落ち着いた頃。兄の夏生は、ストレートに問いかけてきた。いじめ、という言葉が胸に刺さり、こばとは眉を下げる。
「……一ヶ月くらい前から……」
何でもっと早く言わないんだ、と怒られるだろうか。
びくびくしながら夏生の言葉を待っていると、兄は「一人でよく頑張ったな」と頭を撫でてくれた。その言葉にまた泣いてしまいそうになる。じわりと浮かんだ涙を夏生が指先で拭ってくれた。
「母さんには? 俺から言おうか?」
「……いやだ、お母さんには知られたくない」
「…………分かった。その代わり、俺にはちゃんと話して」
兄は優しかった。こばとが泣きながら語るいじめの経緯を、たまに頷きながら黙って聞いてくれた。
どんないじめを受けているのか、語るときには声が震えた。夏生が一番心配していたのは、性的な嫌がらせをされていないか、ということだったが、そんなことは考えてもみなかったのでぞっとしてしまった。
いじめの中心人物は間違いなくあゆみだが、その他のクラスメイトも無視をしたり、ときには暴言を浴びせたりしてくる。その中には当然男の子もいる。
もしも男子の中で、そういう物騒な発想の人がいたら?
無理矢理押さえつけられて、脱がされて、犯されそうになったら、こばとは抵抗出来るだろうか。
どうせいじめられているんだし、こいつになら何をやってもいいや、と考える人間がいてもおかしくはない。いじめっていうのはそういうものなんだよ、と夏生が言った。
性的な嫌がらせを受けていないことを再三確認された後、「こばとはこれからどうしたい?」と夏生に訊かれた。
「高校なんて、行きたくなければ行かなくていい。高卒認定試験を受ければ大学は受験出来るんだから」
不登校、ということだろうか。
そんなことを考える日が来るなんて、思いもしなかった。こばとは誰にでも優しく親切に接してきたし、学校でもうまくやれていると思っていたのだ。たった一人に嫌われたことで、世界が一変するなんて、想像もしなかったことだ。
「他にも転校っていう選択肢もあるけど」
俺の通ってる学校に来る? と訊ねられたが、夏生の通う進学校には、こばとの成績では入れる気がしない。
それに何より、逃げるみたいで悔しかった。
「ううん、今の学校で、もう少し頑張る」
「…………それでもいいけど。その代わり、二つ約束して」
夏生がまっすぐな目でこばとを見つめる。こばとが小さく頷くと、兄は言葉を続けた。
「一つ、もしもさっき言ったみたいに、性犯罪に関わるような嫌がらせがちょっとでもあったら、すぐに俺に言うこと」
「うん」
「二つ、もしも追い詰められて死にたいって考えるようになったら、そのときは絶対に学校を休むこと」
約束出来る? と兄に問いかけられて、こばとは頷いた。
どちらの約束も、こばとの未来を心配しているからこそ出てくる言葉だった。そのことが嬉しくて、ありがとう、とお礼を言うと、兄は困ったように眉を下げた。
「いや、お礼を言われることじゃないだろ。こばとが辛いときに気付いてやれなくてごめんな」
夏生の優しい言葉に、こばとはじわりと胸の奥が熱くなるのを感じた。
ひとりぼっちじゃないと分かると、少しだけ励まされる気がする。それでも、辛いものは辛い。同じ学校には兄の夏生はいないし、こばとに対するいじめはなくならなかった。
あるとき、担任の教師が「このクラスにいじめがあるという報告があった」と言って、匿名のアンケート用紙が配られた。いじめに関するアンケートと名付けられたそれには、クラスにいじめがあるか、加害者と被害者は誰か、具体的にどんないじめが行われているか、という質問項目が並んでいた。
こばとはすごく悩んで、白紙のまま提出した。自分がいじめられている、と告白するのは、なぜか恥ずかしいことのように思えたからだ。
それでも、誰かがこばとのために声を上げてくれた、という事実は、こばとの心を少しだけ優しくしてくれた。
しかし教師への密告は、こばとの気持ちを励ましてくれるのと同時に、あゆみの気持ちを逆撫でしたようだった。
「先生にチクったでしょ!」
「ち、ちがうよ……!」
「おまえじゃなければ誰が言ったんだよ。言ってみろよ!」
強い衝撃が背中に走る。後ろから蹴り飛ばされたのだと理解したときには、床に倒れ込んでいた。教室の隅で小さな悲鳴が上がったのが聞こえたけれど、こばとは起き上がれなかった。ずきずきと痛む背中に、涙を堪える。
ぐい、と制服を引っ張られて、無理矢理起こされると、あゆみが怒りに満ち溢れた表情でこばとを睨んでいた。
「なに? 先生に言えば解決すると思った?」
「ち、ちがうの、言ったのはこばとじゃ……」
「残念でした。あんたが死ぬまでずっと続くから!」
その言葉に目を見開く。このいじめは、クラス替えと共に終わると思っていた。でも、違っていた。卒業するまで、彼女はこばとを追い詰める気なのだ。そして、その結果としてこばとが死んでもいいと、本気でそう思っているのだ。
二年生が終わるまで我慢すればいい。そう思っていただけに、受けたショックは大きかった。
ごめんなさい、許して、と泣きじゃくるこばとを、嘲るようにあゆみは笑う。教室の中に響くのは、あゆみの笑い声だけではなかった。そこかしこから聞こえてくる嘲笑の声。
いじめがあります、と先生に伝えてくれたのは誰だったのだろう。その人は今、どんな気持ちでこばとのことを見ているのかな。
他人事のように考えながら、こばとは嵐が通り過ぎるのを耐え忍ぶのだった。
夏休みも近くなった暑い日。体操服の半袖を破られ、仕方なく体育の授業を長袖で受けることにした。先生からは熱中症になるから脱ぎなさいと叱られたが、ジャージの下はキャミソールしか着ていないので脱ぐことも出来ない。倒れても自業自得だからね! と体育教師に怒鳴られ、やるせない気持ちになる。
こばとを笑う声が聞こえてきたが、心が麻痺しているのか、はたまた痛みに慣れてしまったためか、あまり気にならなくなっていた。
それでも物理的な嫌がらせはやはり辛いものがあった。物を隠されたり、壊されてしまったりすると、学校生活に支障が出る。何より一番苦しいのは、痛みを伴ういじめだった。
体育の授業では、先生の見ていないところで、バレーボールを集中的にぶつけられたり、足を引っかけて転ばされたりする。休み時間にはこばとのことをおもちゃのように蹴り飛ばし、痛みにうずくまるこばとを笑い飛ばす。靴をうっかり靴箱に入れっぱなしにすると、必ず画鋲を入れられるので、持ち歩くことにした。一番辛かったのは、ふざけて首を絞められたときだった。本当に死んでしまうかと思ったし、苦しむこばとを笑いながら見ているあゆみ達を心からこわいと思った。
最初の変化に気がついたのは、その日の体育の終わりの時間だった。片付けを押し付けられて、後から教室に戻ると、クラスメイトはもうすでに次の教室に移動していた。次は理科室。グループでの実験は憂鬱だ。あゆみ達と同じ班にはならなくても、こばとがクラスで浮いた存在であることは確かなので、同じグループの子に気を遣わせてしまう。
理科の教科書とノートを取り出そうと机の中に手を入れ、こばとは目を丸くする。
ぼろぼろに破かれた教科書と、油性ペンで落書きされたノート。それはいつも通りだ。でもノートの間に、何かコピー用紙のようなものが挟まっていたのだ。
何も挟んだ覚えはないし、またあゆみからの嫌がらせだろうか。警戒しながらそっとノートを開くと、そこに挟まれていたのは、今日やる実験について書かれたページのコピーだった。
家で兄に勉強を教えてもらっているけれど、成績が落ちると母に怪しまれてしまう。教科書はぼろぼろでまともに読めない状態なので、教科書のコピーは本当にありがたかった。
「……でも、誰が入れてくれたんだろう……」
もしかして、先生にいじめがあると伝えてくれた人と、同じ人だろうか。あのときは結果として裏目に出てしまったけれど、こばとを助けようとしてくれたその気持ちは今でもこばとを励ましてくれている。
兄の夏生だけではない。誰かは分からないが、学校にも、こばとを支えてくれる人がいる。
もらった教科書のコピーをそっと抱きしめて、こばとはひとりぼっちの教室でぽつりと涙を流した。それは、久しぶりの嬉し涙だった。
コピーをもらったその日から、少しずつ変化が起こり始めた。
ある朝、教室に入ったときに、やけにクラスが騒がしいことに気がつく。普段は目立たないように俯いているこばとだが、そっと顔を上げると、いつもは黒板にでかでかと書かれている悪口が、書かれていない。
やめてくれたのかな、と一瞬期待したが、あゆみが「消したの誰だよ!」と怒り狂っているのを見て、状況を理解する。
あゆみが悪口を書くのをやめたのではない。クラスメイトの誰かが、こばとの悪口を消してくれたのだ。
じん、と胸の奥が熱くなる。また助けてくれた。きっと、教科書のコピーをくれた人と同じ人なのだろう。
表立って声をかけてくれたわけではないので、誰だかは分からない。でも、こばとに対するいじめを、良く思っていない人もいるという事実が何より嬉しかった。
それから、毎日誰かが黒板の悪口を消してくれるようになった。飽きもせず悪口を書き続けるあゆみと、放課後遅くまで残って、もしくは朝早く来てこばとの見えないところで消してくれる優しい誰か。
優しさは、どんどん目に見える形で広がっていった。破かれた教科書をテープで貼り直してくれたり、水に濡らされて読めなくなったノートのコピーをくれたり。
お弁当をゴミ箱に捨てられてしまった日は、いつのまにかカバンにパンが入っていたこともあった。さすがにこばともこれは予想していなくて、教室の中を見回してしまったけれど、こばとの様子を伺っているような生徒はいない。購買で売っているいちごジャムのコッペパン。もしかして、こばとのために買いに行ってくれたのだろうか。そう考えると嬉しくてたまらない気持ちになった。
学校は相変わらず憂鬱だったけれど、正体の分からない優しい誰かのおかげで、少しだけ息がしやすくなった気がした。ここにいてもいいんだよ、と言われているような気がして、勇気をもらえた。
その人は、こばとにとって王子様だった。
名前も性別も分からない。もしかしたら、女の子かもしれない。でも、こばとにはそんなこと関係がなかった。
いつも隠れてこばとを助けてくれる人。
字が綺麗で、丁寧にノートを取っているまじめな人。
教科書の修復の仕方が少しだけ下手だから、たぶんちょっと手先が不器用な人。
こばとに勇気をくれる、優しい人。
知っていることなんてほとんどない。だけど、確かにその人はこばとの王子様だ。
童話の中のお姫様のように、いつか助け出してもらえたら。そんなことを夢見ながら、こばとは誰かも分からないその人に想いを寄せた。
その日は猛暑日だった。汗がじわりと滲む朝、いつものように学校に行くと、こばとは言葉を失った。
『永瀬こばとはブス。男好き』
大きく黒板に書かれた文字に、心臓がきゅっと縮こまる。最近は誰かが消してくれていたから、見ずに済んでいた悪口。久しぶりに目にしたそれは、こばとの心を深く抉った。
なんで……もしかして、王子様にも見捨てられちゃったのかな。絶望ばかりのこの学校での、唯一の希望だったのに。
早く、自分で消さなきゃ。今までだってそうしてきたんだから、難しいことじゃない。
そう言い聞かせてみても、足は地面に貼りついたように動かない。
教室の入り口で立ち尽くすこばとの横を、すっと小柄な少女が通り抜ける。そのまますたすたと黒板の前まで歩いていった彼女は、あゆみ達から「何?」と声をかけられたのも無視をして、黒板消しを手に取った。そして。
「渡辺! お前何してんだよ!」
あゆみから怒声が飛んだ。それもそのはず。彼女は黒板に大きく書かれたこばとの悪口を消し始めたのだ。
ぱんぱん、と手を叩く音が教室に響く。静まり返った教室で、クラスメイトの視線は一人に集中していた。
彼女が、顔を上げた。
瞬間、こばとと視線が重なり合う。
「こばとちゃん!」
駆け寄ってきた少女が、小さな手をこばとに差し出す。
「行こう!」
どこへ、とは言わなかった。朝のホームルームはもうすぐ始まってしまう。
それでもこばとは、彼女の手を取り、小さく頷いた。目の奥が熱い。涙で目の前が滲んでいく。
ぐい、と見かけによらず力強い手で、彼女はこばとを連れ去った。教室を飛び出し、玄関を駆け抜けて、正門まで。そこまで辿り着いてようやく足を止めると、彼女は泣き笑いの表情を浮かべ、「あーっ、こわかった……!」と声を上げた。
その言葉を聞いた瞬間、堪えていた涙があふれ出して止まらなくなる。ぼろぼろと溢れる涙はそのままに、ありがとう、と何度もお礼を言った。握ってくれている手が震えていた。こばとがいじめられる現場をずっと見てきたのだ、こわくないわけがない。それでも助けてくれた。こばとの名前を呼んで、手を引き、あの狭い教室から連れ出してくれたのだ。
「ずっと気づいてたのに、助けられなくてごめんね、こばとちゃん」
彼女に呼ばれた名前は、ひどく優しい響きをしていた。ううん、と首を横に振り、涙を拭う。
「ううん……いいの。黒板とか、教科書とか、ノートのコピーとか、全部渡辺さんだったんだね」
渡辺由花。それが彼女の名前だ。クラスで一番小柄な女の子。まだいじめが始まる前、こばとが挨拶をすると、いつも笑顔で返してくれていた。小さいけれど姿勢が良くて、正義感の強い、優しい女の子だ。
彼女がこばとの王子様だった。男の子ではなかったけれど、確かに由花はこばとを助け出してくれた。正真正銘の、王子様だ。
由花の手をぎゅっと握り、こばとは震える声でお礼を言う。
「本当に嬉しかったの。だから、お礼を言わせて。味方をしてくれて、ありがとう」
黙って見ているだけでもよかったはずだ。その方が由花の身の安全は確保出来る。クラスの中での立ち位置も、中くらいに位置していたであろう由花が、最底辺のこばとに手を差し伸べる必要はなかったのだ。
それでも由花は味方をしてくれた。もしかしたら明日から、同じようにいじめられてしまうかもしれない。そんな危険をおかしてまで、こばとを救い出してくれた。
もしも明日、由花が嫌がらせをされそうになったら、今度はこばとが庇えるようになりたい。もともといじめられているこばとでは何も出来ないかもしれない。それでも、由花がこばとを助けてくれたように、こばとも彼女を守りたいとそう思った。
「お兄ちゃん、あのね。今日、初めてクラスの女の子がこばとのことを助けてくれたの。すっごくすっごく嬉しかった。渡辺由花ちゃんっていってね、友達になってくれたの。明日も一緒に学校に行こうねって約束をして。うん、だからこばと、頑張るよ」
ずっと心配をかけていた兄に、一番に電話した。授業中かもしれないと思ったが、意外にも兄はワンコールで電話に出て、こばとの話を優しく聞いてくれた。
『渡辺由花?』
「うん、由花ちゃん。背がちっちゃくて、猫みたいなまん丸な目で、かわいいんだよ」
かわいいけど、かっこいい。こばとの王子様なんだよ、という言葉は恥ずかしくて言えなかったけれど、いつか兄にも紹介したいと思う。
お友達で、王子様で、それから。
学校という狭い世界を、一瞬で変えてくれた人。
久しぶりに明日の学校が楽しみ、と思いながら、こばとは由花のことを思い浮かべ、心からの笑みを浮かべるのだった。