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 そんな数々の変化とともに日々を過ごし、気がつけば九月も中旬に差し掛かったある土曜日のこと。

 この日は父が料理修行で店をあけるためお店の休業が前もって決まっており、またコンビニのアルバイトも入っていない日だったので、久しぶりにお寺の和尚さんに会いに行こうと父の作ったおはぎを手土産に持って家を出た。

 お寺までの道のりはバスを乗り継ぎ約一時間。慣れ親しんだ停留所でバスを降りると、清々しいほどに透き通った秋晴れの空が上空を心地良い青に染め上げていて、無意識に深呼吸を繰り返す。みずみずしい空気が身体の細部にまで行き渡り、自分の中で新鮮な英気が養われるような気持ちになった。

 そうしていまだ枯れない木槿が両脇を彩る小道を進み、誰もいない寂れた公園を通り過ぎる。やがてお香の匂いが鼻腔を掠めてきた頃、お寺の門が見えてきた。

 今日は法要があるのだろうか。普段はあまり通らない車が脇を掠めていき、お寺の駐車場に停車する。

 門をくぐって敷地に入ると中庭に喪服を着た女性や男性が立っているのが見え、やはりこれから法要が行われるだろうことを確信した。

 縁側の窓と障子は閉まっているため中が見えないが、物音がしているのでどうやら本堂内にも人が集まりはじめているようだった。

(和尚さん、今日は忙しいだろうな……。お手紙添えて、お土産だけ置いて帰ろう)

 宿坊でお世話になっていた間にも当然こういったことが日常的に行われていたので、邪魔にならないよう配慮して玄関先に手土産だけ置いて帰ろうと思った――その時、

「……あれ。七瀬さん?」

 聞き覚えのある声がしてどきっとする。振り返ると、制服姿の設楽先輩が玄関先に立っていた。

「えっ。設楽先輩?」

「すごい奇遇。よく会うね」

 心底驚いたといったように目を瞬いている設楽先輩。

 そういえば以前も、この近くの公園にいる先輩を見かけたっけ。

「先輩の方こそ土曜日なのに制服着てるってことは……法要でしょうか?」

「……あ、うん。まぁ……」

 微かに苦笑を滲ませる先輩。いや、無理に微笑んだといった方が的確だろう。

「あ、えーっと、あの、お忙しいでしょうし、私はこれで失礼しますので詳しくはまた学校で……」

 先輩が唇を噛み締めて目を伏せたため、あまり深く詮索しない方が良いだろうと判断し、慌てて玄関先から離れて通り道を開けようとしたのだが、

「あ、ちょっと待って七瀬さん」

 すぐさま先輩に引き止められた。

「……はい?」

「ごめん七瀬さん。今、時間ある?」

「え?」

「法要が始まるまでまだだいぶ時間があるし、ちょっと話したいことがあって……」

 思いもよらない言葉にどきりとする。

 といっても、少女漫画のように期待で胸をときめかせたわけではない。どちらかというと何かよからぬことを告げられる前兆のような、そんな漠然とした緊張が走った感じだった。

 もちろん断る理由なんてないので二つ返事で了承すると、先輩は「家族と話してくるからちょっと待ってて」といって一旦本堂の方へ向かい、すぐさま戻ってきた。そしてそのまま裏庭まで歩みを進めると、若々しい緑の中に備え付けられたベンチに腰をかける。

 本堂に面している中庭とは打って変わり裏庭は静かで、聞こえてくるのは空を飛び回る小鳥の囀りか、いまだ鳴りを潜めない蝉の鳴き声ぐらい。

 張り詰めた緊張感を壊さないように先輩の隣へそっと腰を下ろすと、彼が紡ぐ言葉を待った。

 しばしの沈黙ののち、ようやく先輩は口を開く。

「急にごめん。夏休みにこの近くの公園で偶然会った時、夏祭りをドタキャンした理由は落ち着いたら話すって言ったの覚えてる?」

「あ、はい。確かにそう仰ってましたよね」 

 あれはまだ私がお寺の宿坊にお世話になっている時の出来事だ。当時の背景を思い返しながらそう答えると、先輩は小さく頷いてみせた。

「やっと少しは気持ちが落ち着いたっていうか……いや、実際気持ちの整理なんて永遠につかないと思うんだけど、今なら話せそうだから話すね」

「はい」

「夏祭りに行く予定だったあの日――一緒に行くはずの連れが、事故に遭って病院に運ばれたんだ」

「え……」

 鉛のように重たい言葉を後悔と共に吐き出すよう、そう呟く先輩。

 まさかそんな出来事があったなんて思いもよらなかった私は、後頭部を殴られたような衝撃を受けた。

 すぐにはかけるべき言葉が見つからず黙していると、先輩は果てしなく広がる青空をぼんやり見つめてからその先を続ける。

「トラックの居眠り運転が原因の衝突事故で、病院に運ばれた時にはもうほとんど手遅れだったみたい。本当は七瀬さんにも神崎さんにも、すぐにそのことを告げるべきだったんだけど……どうしてもその事実を認めたくなかったっていうか、気持ちが追いつかなくて。今まで言えずにいてごめん」

「そ、そんな! 謝らないでください。お友達の身にまさかそんな大変なことがあっただなんて思いもしなくて……不躾に理由を聞いてしまったりしてこちらこそすみません」

 慌てて先輩の謝罪を打ち消す私。

 ――ああそうか。それで先輩、ここ最近アルバイトを休みがちだったり、学校で会ってもどこか元気がないように見えたのかと心のどこかで納得する自分がいた。

 しかしそれと同時に自分の無粋さにも後悔を募らせていると、先輩はやや力なく微笑んでから気丈に言った。

「それがね、『友達』じゃないんだ」

「え?」

「一緒に行く予定だった相手、俺の『弟』なの」

「なっ……」

 静かに告げられたその事実に言葉を失う。

 先輩は目を瞑り、弟の面影を偲ぶよう穏やかな声色で続けた。

「俺が誘ったんだ。あいつ、七瀬さんのことずっと見てたから。きっと喜ぶだろうと思って誘ったのに、まさかこんなことになるなんて思ってもなくて……」

「え……? ちょ、ちょっと待ってください……見てた……? どういうことですか?」

 先輩の言葉に理解が追いつかなくて、戸惑うようにその意味を尋ねる。

 私に視線を移した先輩は儚げに苦笑して、その問いに答えを重ねた。

「七瀬さんは知らなくて当然だよ。俺の両親はガキの頃に離婚してて……俺が母方に、弟が隣町に住む父方に引き取られて育てられたから、俺らとは通ってた学校も違うし、あいつには七瀬さんに接触する機会もほとんどなかったはずで、本当に一方的に見てたような感じだから。だから、夏祭りに誘われた時、申し訳ないと思いつつも二人を引き合わせるいいチャンスだと思って、神崎さんに七瀬さんを呼んでもらえるよう頼んだんだ」

 思ってもみなかった暴露に心の底から喫驚し目を泳がせる。

 でもその反面、それでやっと腑に落ちたというか……それまで抱えていた閊えがすうっと溶けていくような気持ちになった。

 私が設楽先輩に指名され夏祭りに誘われた理由。

 私が先輩にふられた理由。

 フラれてもなお、私が先輩に親切にされていた理由。

 その答えが、今の先輩の言葉の中に全て含まれていた気がする。

 でも――。 

「そう……だったんですか……。ごめんなさい、私、自分のことを意識してくれてる人がいただなんて、そんなの全然気づかなくて……。謙遜とかではなく、私、本当に今まで人付き合いも悪かったし、全然目立たなかったし、誰かに想われるようなことなんて何一つなかったんですが、一体何がきっかけだったんでしょうか?」

 その点だけがどうしても分からず、戸惑うように設楽先輩に視線を投げる。

 すると先輩はそんな私に気遣ってか、ぽん、と私の頭を撫でた。

「自分が見ている世界と、他人が見ている世界は違う。七瀬さんは自分に自信がないみたいだけど、優しくて、思いやりがあって、健気で。俺は充分、人を惹きつける力があると思ってるよ」

「先輩……」

 ここまでまっすぐに、人から褒められたことなど今までなかった。

 ずっと自分に自信がなかったから、自分のことが嫌いでたまらなかった。

 でも、そんなふうに思ってもらえていたことが素直に嬉しくて。

 これもきっと成外内の神様のおかげなんだなって、心から感謝の気持ちが溢れた。

「やめてくださいよ……。先輩にそんなこと言われたら調子に乗っちゃうじゃないですか」

「いいよ乗っても。もっと自信持ちなよ。あいつのためにも、俺のためにもさ」

「……? 先輩のためにも?」

 何気なく付け足された一言に目を瞬く。

 しかし先輩は、静かに微笑んだだけでそれ以上は語らず「それよりも」と、会話の流れを戻した。

「『きっかけ』……か。俺の口から話していいものか迷うけど、今はもう俺しか話せる人間がいないし、俺が知ってる範囲でその話をしようと思うんだけど……その前に、一応あいつに報告してからでもいいかな?」

 先輩が本堂の方を指さしつつ、こちらの返事を窺う。

 やはり、今日の法要はその弟さんのためのものだったようだ。

「もちろんです。まさか焼香台に上がるだなんて思ってもいなかったのでこんな私服で申し訳ないんですけど、できれば私もご焼香させてもらえれば……」

 申し出を快く引き受けると先輩は安堵したように表情を緩めて頷き、じゃあと腰を上げた。

 それに倣って腰を上げた私は、先輩と共に中庭に戻って玄関をくぐり、屋内に上がる。長い廊下をまっすぐ進むと、途中で先輩の親族らしい喪服の方とすれ違った。会釈を交わし、たどり着いた襖の前で軽く呼吸を整える。この奥が本堂だ。

 襖に手をかけた先輩はしばし俯いて想いを巡らせていたようだけれど、やがて顔を上げ、こちらを振り返ると気丈に振る舞うように言った。

「今日はあいつの四十九日なんだ。極楽浄土に行く前にどうしても七瀬さんに会わせてあげたかったから。ついてきてくれて、本当にありがとう」

 そんな顔をして、そんなことを言わないでほしい。

 ぷるぷると首を振り、精一杯励ますようそっと微笑んで見せる。

 そんな私の心意気を汲み取るように、先輩は襖を開けた。

 ふわりと漂うお香と檜の匂い。

 たくさんの花に囲まれた祭壇に、所狭しと並べられた和菓子に果物に、故人が好きだったのだろうスポーツ飲料にサッカーボールに侍が描かれたゲームソフトや今人気の歴史漫画。

 私とさほど変わらない年端の青年が遺骨となってそこに安らかに眠っているのだと思うとひどく心が痛んだが、現実と向き合うよう祭壇の最上段に掲げられた遺影にしっかり目を向ける。

(――……え?)

 写真の中の青年と目が合った瞬間、瞠目し、言葉を失う。

 目を疑うように隣にいる設楽先輩を見上げたが、先輩は儚げに微笑んでいるだけ。

 早る心音を落ち着かせるように今一度遺影を凝視したが、やはり見間違いようもなく、もはや頭が真っ白になるだけだった。

「名前は影亮(えいすけ)。俺の双子の弟なんだ」

 設楽先輩の言葉が頭の中にこだまする。

 そこには……――設楽先輩と瓜二つの顔なのに、目は茶色、髪は金髪の、いつの日にか見た成外内の神様の素顔が、遺影の中で微笑んでいたのだ。