◇
「今から二十年近く前の話になるかな。おじさんがサラリーマンとして働いていたある春の日、町で偶然再会した大学時代の友人から、とある会社を共同経営しないかっていうビジネスの話しを持ちかけられたんだ」
そうして始まった『月華亭』の成り立ち。
おじさんは遠くを見つめるようお店の外の景色を眺めたまま、過去の記憶を丁寧に辿る。
「当時の僕は、色々あって会社勤めに嫌気がさしていてね。脱サラして小さくてもいいから何か自分の店を持ちたいという夢を抱き始めていた時期だったから、その話は天から降ってきた好機に違いないと思って二つ返事で了承したんだ。……もちろん、友人への信頼があってこその結論だったんだけど」
「……はい」
「それからまもなく会社を辞めて、少ないけど退職金も手に入れて、それを出資金に回して入念に準備を進めて開店までは万事順調に進んでいたんだけど……」
言葉の終わりに苦笑を滲ませたおじさんは、当時を思い返してやるせなさを噛み締めるようにその先を続ける。
「あっさり騙されてしまったんだ。支度金はもちろん、貯めていたお金までほとんど持ってかれて逃げられたうえ、身に覚えのない借金だけは全て押し付けられてしまって。当然警察にも相談したけどやり口が巧妙だったから窓口でつき返されてしまってね。悔しかったけどそもそも僕自身にも甘くて未熟な部分があったから、高い勉強代を払わされたと思って無一文の状態から借金を返していくしかなかった」
思いのほか衝撃的な出発点に、思わず生唾を飲み込む。
いつどこで母が出てくるんだろうとはやる気持ちもあったが、それ以上におじさんがそんなどん底からどのようにしてこのお店を軌道に乗せたのだろうかと純粋に気になった。
相槌を打ちつつメモを取るふりをしていると、おじさんはさらに続けた。
「あいにくその頃は就職氷河期とも重なってね。サラリーマンに戻るのは難しかったから、何とか自分にできる仕事を起業して片っ端から挑戦したけど、なかなか生活は安定しなかった。毎日膨れ上がっていく借金を見るのは辛かったし、自分の愚かさを心から悔いたよ。本来なら――騙されてさえいなかったら、心に決めていた女性と結婚する約束だってあったはずだからね」
その言葉は鋭い槍のように、私の胸を突き刺した。
不審に思われないよう。過剰なリアクションと思われないよう。ゆっくりとおじさんの顔を見上げると、彼は静かに微笑んで言った。
「その心に決めていた女性の名前が『月華』さん。銀行の窓口で働いていて、人当たりがよく手際のいい優秀な銀行員さんだって巷の地元民……特におじいちゃんおばあちゃんには大人気の女性だったんだ」
「……」
間違いない、私の母だ。
私の母は元銀行員で、人伝で聞いた話だけれど親切な窓口業務には定評があり、おじいちゃんおばあちゃんにファンが多く、業務中に何度も振り込め詐欺を阻止したといったような逸話まで耳にしたことがある。
ただ名前が出てきただけだというのに、ずっと探していたパズルのピースを見つけた時のような感動がどっと押し寄せ、感極まって涙腺が緩みそうになるのをぐっと堪える。
おじさんはその続きを滔々と語り続けた。
「彼女は僕が店を持つことを応援してくれていたし、共同経営の話がうまくいってさえいれば、生活が安定したところで籍を入れようって話にもなってた。だけど、僕が騙されて借金を作ってしまったばっかりに距離を置かざるを得なくなったんだ」
「なんで……」
「おじさんはガラの悪い借金取りに追われるようになってしまったし、そいつらはお金のためなら手段を選ばなかったからね。彼女にまで被害が及ぶかもしれなかったし、もし何かあらぬ噂でも立ってしまったら、お金を扱う仕事をしている彼女の信用にまで関わる致命的な問題だったんだ」
「……」
「だから、すみやかに彼女の前から姿を消した。居所を伝えればきっと彼女は危険を冒してでも僕を手助けしにきてしまうだろうから、行き先も告げずにね」
「そんな……」
「ひどい話だろう? でもね、自分なりに彼女を守ろうと必死だったんだ。辛いけど何年かたって身の回りの清算ができた時、彼女にまだ特定の人間がいなければその時はまた一からやり直させてほしいってそう伝えようと固く決意して、後ろ髪を引かれる思いで家を出た」
辛そうにそう語るおじさんの瞳には、幾重にも重ねた後悔の色が滲み出ているようだった。
偽りのない真実――彼の表情からはそう感じてとれたし、それが事実であるならばやはり叔母から伝えられた『女を作って突発した』という話は偽りだったのかという憤りを覚える同時に、悲運を辿ったおじさんと母の経緯になんとも言えない感情がわいた。
「そんなことが……あったんですね……」
「ああ。どうしようもない未熟な人間だったんだよ、おじさんは。……でもやっぱり気になって仕方がなかったから、念のため、後になって新しい電話番号だけを書いた手紙を『もし何か困ったことがあればここにかけてくれ』って、彼女の元に送りつけたりもしたけど、きっと怒っていただろうし、彼女がそれを読んだかどうかすら分からない」
「……」
母は間違いなく読んでいた。
怒っていたかどうかまでは分からないが、信じて彼の帰りを待ち続けていたからこそ、手帳にその番号を記し、後生大事に持ち続けていた。
だから今、私がここにいるのだ。
「――その後、弁護士の先生に相談したりしながら長い年月をかけてようやく借金は返済できたんだけど、結局彼女からは一度も連絡がこなくてね。それでもおじさんは一日だって彼女を忘れたことがなかったから、返済の目処がたった頃に彼女の元を訪れたりもしたんだが……」
そこまで言って、おじさんは言葉を詰まらせた。
束の間、重い沈黙が流れたがすぐに気を取りなすよう小さく深呼吸をして、おじさんは真剣な眼差しで言葉を紡ぐ。
「住んでいたアパートの部屋は引き払われ影も形もなかった。長い年月が経っていたしそれは仕方のないことだと思ったが、偶然隣室の人に話を聞くことができて、そこで初めて、彼女が何年か前に交通事故で亡くなったっていう話を知ったんだ」
「……っ」
――そう。それは十数年前におきた、あの事故のこと。
「しかも彼女には小さな子どもがいて未婚の母だったっていうのを聞いて…… 。いてもたってもいられずすぐに行方を追ったけど全く足取りは掴めなかった。唯一、その後の調べでわかったことといえば、その子の名前が――『ツキノ』ということぐらいで……」
「……」
言葉が、出ない。
「これは完全におじさんのエゴイズムで推測なんだけど、子どもの年齢や時期的なものを考えても、そのツキノっていう子は、僕と月華さんの子だとしか思えないんだ。……いや、単なる勘違いかもしれないけど、それならそれでもいい。彼女は早くに両親を亡くしていて唯一の姉妹である妹とも不仲だと聞いていたから遺されたその子が無事に暮らしているかどうか心配で、可能ならもちろん引き取りたいと思ってるし、拒否されたなら付き纏うようなことはしない。でも、せめてその子が不自由なく暮らせるよう資金援助だけでもさせてもらいたいと思ってるんだ」
「……」
「血が繋がっていてもいなくても、大切な人の子どもはおじさんにとっても大切な宝だからね。だから――その時、ようやく軌道に乗り出していた弁当屋の名前を、思い切って『月華亭』に変えたんだ。いつかその子がこの店名に気を留めて、おじさんの存在に気づいてくれたらいいなって、そう思って」
そう言って、おじさんは首に下げていたボロボロの手作りお守り――『商売繁盛! 大吉&月華』と刺繍されている――を慈しむよう見つめた。
ああ、やっぱり。
きっとこの人は、間違いなく私のお父さんだ。
いつか叔母さんが言っていた父の名前は『大吉』だったし、きっと母は父の蒸発後に妊娠に気がつき、父に負担をかけないよう未婚を選んで一人で産んで育てていたのだろう。
私の母親はそういう人だった。
「もしその子が無事に成長していたとしたら、ちょうど君と同じくらいの年頃じゃないかな。だから、よかったら君にもこのお弁当をたくさん周りのお友達に広めて欲しいんだ」
「……」
「弁当の中身はどれも月華――その子の母親が好物だったものばかりだから、きっと、何かを感じ取ってくれるとそう信じてる」
おじさんは……いや、父は。
膝の上に乗せていたお弁当を、そっと私の手の上に託した。
父の優しさと愛情がたっぷり込められたお弁当はまだ温かく、冷え切った私の心を十二分に満たしてくれた気がした。
「……さてと、これがうちのお店の成り立ちなんだけど、長くなっちゃったね。記事にするかどうかは別として、これも何かのご縁だしお弁当の中身が口に合えばまたいつでもおいで。普段は一般販売していないけど、一つや二つぐらい特別に作ってあげるから」
にっこりと微笑んだ顔に刻まれる皺と愛嬌。
人が良さそうなその笑顔の裏にはきっと数々の苦難があったのだろう。ふさふさとした頭髪に入り混じる白髪を見て、そんなことを思った。
口を結んだまま小さく頷き、手の中のお弁当をじっと見つめる。
「ありがとう……ございます。あの、お金……」
「今日はいいよ。特別にご馳走してあげる」
「でも……」
「作りすぎちゃったやつだしね。気にしないで」
「……」
ぺこりと頭を下げる。本当はそれ以外に言いたいこと、聞きたいことがたくさんあったのに、何一つ口から出てこなかった。
長い間、『父』という存在から疎遠に暮らしていたためか、甘えるすべを知らずに生きてきたからなのか。
「よし、じゃあ店先までお送りするよ。あー、えっと。そういえば名前聞いてなかったね、なんて呼べばいいかな?」
たった一言、『私が月乃です』といえば済む話なのに。
それなのに、どうしてもその一言すら言い出せずに――。
「……です……」
「……うん?」
「つき……」
「……?」
「つき……、あ、いえ。み……つき……です」
相手の反応を知るのが怖くて、また一つ、どうしようもない嘘をつく。
「……そっか。ミツキちゃんか……」
おじさんは噛み締めるようにその偽名を反芻すると、しばし私の顔をじっと見つめた。
「……」
「……」
今ならまだ訂正できる。
やっぱり嘘です。私が『月乃』です。月華は私の母です。
それだけの台詞なのにどうしてなんだろう。
長い空白の年月があまりにも重く肩にのしかかって、どうしたって言葉が出てこなかった。
「じゃあ、そこまで見送らせてね」
「……はい」
情けない自分に嫌気がさして、俯き唇を噛み締めながら立ち上がる。
施設に入ったら自由に外出ができなくなってしまう。
施設に入らずとも、万一、一時保護の対象にならず叔母の家に連れ戻されるようなことになれば、報復から外出を制限されてもう二度と会えなくなってしまうかもしれないし、そもそも――。私は生まれ変わることを希望していて、神様との約束が果たされれば二度とここへは来られなくなってしまうかもしれない。
だからこそ、もっとおじさんと話がしていたかったし、ここを離れたくなかった。
「……」
それなのに、今さらなんて名乗り出たらいいのかわからなくて。
今回ばかりは『どうせ最後だから』なんて軽い気持ちで名乗りを上げることはできなかった。
「ありがとう……ございました」
「……気をつけてね」
背を向けたまま、俯いたまま、挨拶を交わしてゆっくりと歩き出す。
おじさんの見守るような視線が背中にささるけれど、振り返ることさえできずにお店から遠ざかっていく。
手の中のお弁当の温かさが身に染みて、自分の弱さに、不甲斐なさに、無性に情けなくなって目に熱いものが込み上げてくる。
溜め込んだ涙が落ちないよう、必死に歯を食いしばったその時――。
「あのっ!」
精一杯振り絞ったようなおじさんの声が耳に届く。
今振り返ったら、泣きそうな顔を見られてしまう。
だから振り返りはしなかったけど、足を止めて耳を傾けた。
おじさんは、「あ、えっと」とか、「その」とか。
まるで優柔不断な私みたいにもじもじ二言目を探していたけれど、やがて踏ん切りをつけるようにその先の言葉を続けた。
「あの、その、もし間違ってたらごめん。君……本当は、ツキノちゃんじゃないのかな」
「……っ」
さわりと吹いた爽やかな夏風に乗って、おじさんの柔らかな声が届いた。
「あ、本当にさ、間違いだったり、もし仮にそうだとしてもおじさんのこと許せないとか、今の生活が幸せだからぶち壊さないでほしいとか、そういう理由があるならこのまま無視してくれて構わないんだけど……その……」
「……」
「もし、本当にもし、君がツキノちゃんなら、どうか心から謝らせて欲しい」
私の背中に向かって、おじさんは切願するように訴える。
「今まで一人にしてごめん。君を、君のお母さんを、幸せにしてあげられなくて……本当にごめん」
「……」
「許して欲しいなんて言わない。でも、もし君に少しでもその気があるなら、いつでもおじさんのところに来てほしい。街角のしがない弁当屋だし質素な暮らししかさせてあげられないけど……今までできなかった分、精一杯、毎日を笑顔にしてあげられるようおじさん死ぬ気で頑張るから」
「……」
「だからっ……」
弾かれたように踵を返す。
私はこれでも一応年頃の高校生で、相手はいわば初対面に近いおじさんだ。
だからみっともない姿なんて見せるつもりはなかったし、年相応の言動ができると思ってた。それなのに、この時は本能で体が動いてしまったというか。後にも先にもこの時だけは世間体だとか恥じらいだとか見栄だとかそういった余計な感情から解き放たれて、自然とおじさんに……いや、父に向かって駆け出していた。
「お……とうさん!」
「……っ!」
両手を広げた父の胸元に飛び込む。
ずっとずっと探し続けていた父の大きな懐。
父は何も言わず全力で受け止めてくれたし、嗚咽を漏らす私の背中を宥めるように優しく撫で続けてくれた。
「ごめん……ごめん、本当にごめん……僕の……父さんのせいで寂しい思いさせて本当にごめんな……」
十七年間。ずっと抱えてきた父への想い。
誰にも聞けなくて、不安に脅かされながらも信じることを諦めずに閉じ込め続けてきたその膨大な思いは、幾重もの大粒の涙となって眦から溢れ地面に落ちていった。
父の謝罪は長らく続き、私は何度でも首を横に振る。
もう一人じゃない。
自分を必要としてくれている人が今確かにここに存在している。
その事実が、私を暗闇の淵から掬い上げる。
柔らかなひだまりのなか――そうして私と父は、悲願だった念願の対面を、しばし無言で噛み締め続けたのだった。
◇
父と対面を果たしたその日の昼下がり、再び手土産を持って成外内神社へ立ち寄った私は、早速神様にことの顛末を報告した。
《……ふむ。では、施設に行かずに済みそうなのだな?》
「はい。父がすぐにでも叔母夫婦と話し合いをしてくれるそうなので、それがまとまり次第、父の家に住もうかと思っています」
別れ際に父と話し合ってきた内容をそのまま伝えると神様は満足したように何度も頷き、さらに尋ねてくる。
《そうか。おぬしにとってはそれが最善だろう。しかし、話がまとまり次第……ということは、しばらくはまだ寺に世話になるつもりなのか?》
「ええ。正直、すぐにでも父の元へ行きたい気持ちもあるんですが、今日初めて会ったばかりでいきなり同居っていうのは、その……ハードルが高すぎるというか。やはり私もそれなりに年頃なので、ちょっと心の準備をしたくて……」
《ははん、なるほどな》
「もちろんその辺は父も配慮してくれてまして、気になるようなら血の繋がりを調べたり、身辺調査をしてもらって構わないとまで言ってくれてるんですが、さすがにそこまでする必要はないかなと。でも、叔母との話し合いが拗れた場合に証明があった方が有利に進められると思うので、念のため血のつながりだけは調べてもらうことになりました」
《ほう。それで、その結果が出るまでは寺にいるつもりというわけか》
「はい。早くて三週間くらいで結果が出るそうなので幸い夏休み中にはカタが付きそうですし、和尚さんにお話ししてその間はお寺にお世話になりつつ、時間のある時は父のお弁当屋さんを手伝おうかなと。……あ、もちろん、その間の滞在費は私……というか父が負担してくれるそうです」
そう補足すると、神様はふっと柔らかい笑い声を漏らし、
《三週間か……》
と、なぜかそこだけは神妙な声色でつぶやいた。
その一言に、はっとする。
三週間――。そもそも私は、神様と生まれ変わる約束をしているのに、そんな先の予定まで入れてよかったのだろうか。
神様は、願いは二度と取り消せないって言ってたし、力が弱ってるってとも言ってた。
三週間も持たないとか言われたらどうしよう……。
今さらながら自分の計画性のなさを猛省しつつ冷や汗をかいていると、
《ならば今しばらく、おぬしは閊えを祓う作業を続けなければならぬな》
「……!」
予想に反して神様は自ずとそんなことを仰った。
「は、はいっ。もちろんそれは忘れずに続けますっ」
意気揚々と答えると、神様は深く頷きゆっくりと天を仰ぐ。
《大なり小なり十七年分の閊えはそう簡単に祓えぬからな。ちょうどいい機会だと思って徹底的に清算してくるがよい》
深みのある声がふってきて安堵する。すぐさま大きく頷いて深く頭を下げた。
そこで別れを告げてこの日は帰路についたのだが、駆け足で石段を降りるときも、バス停でバスを待つときも、遅れてやってきたバスに乗ってゆらゆら揺られている間にも――どこか心の中に靄がかかったような気持ちが拭えなかった。
あんなに楽しみだった生まれ変わりの約束が、今では少し……いやだいぶ、楽しみではなくなってきてしまっている。
――一度引き受けた願いは二度と取り消せんのだぞ? よいのだな?
あの日の神様の声が蘇る。
どんなに望もうとも、もう二度と願いは取り消せないんだ――。
じわりと芽生え始める後悔。けれど今はその事実から目を逸らすしかなかった。
◇
それから五日ほどが過ぎたある夕暮れのこと。
その日は朝からアルバイト先で午前中のシフトをこなし――施設に入る必要がなくなったため辞めずに済んだのだ――、午後は父の弁当屋に赴き簡単な作業を手伝うといった忙しない一日を終えて帰路についた私だったのだが、お寺近くにある木槿が両脇を彩る細い小道を進んでいると、花壇奥の寂れた公園にある人影を見つけた。
夏休み中だというのに折目正しく制服を着こなし、隅にあるベンチに腰掛け、真剣に何かを考えるような眼差しでぼんやり足元を見つめて口元を強く引き結んだその人は……。
一瞬目を疑ったがやはり間違いではない。
――設楽先輩だ。
「え、先輩……?」
思わず声をあげ、歩みを止める。
設楽先輩ははっとするように顔を上げてから、こちらを見た。
「……っ! 七瀬さん?」
「お久しぶりです。こんなところでどうしたんですか?」
「あ、いや……ちょっと考え事してて……」
そう言って、酷使した目を労るような仕草で目頭をぐっと押さえ、苦笑する先輩。
いや、苦笑というか、無理矢理笑顔を作ったようにも見えた。
どうしたんだろう、少し様子が変だ。
どこか元気がないように見えるし、そもそも――先輩に会ったのはあのドタキャンになったお祭りの日以来で、あれ以降、先輩はアルバイト先でのシフトも欠勤が続いていた。
店長いわく家庭の事情らしいが、何かあったのだろうか。
「七瀬さんこそなんでこんなところに。家この辺なの?」
「いや、その、ちょっと色々ありまして……」
聞きたかったことを逆に尋ねられ、返答に詰まる。
一口にこの辺と言っても、公園の左側には墓地が広がっているし、右側には片手で数えるほどの一軒家と崩れかけのアパート一棟、それとお世話になっているお寺しか建っておらず、その先は行き止まりだ。
微妙に言葉尻を濁すと先輩はすぐに察してくれたようで、
「そう。じゃあ墓参りとかかな。いずれにしてもすごい奇遇だね。よかったらここ座って」
「あ、はい……」
手持ち無沙汰に突っ立っていた私に着席を促してくれた。
先輩の様子が気になっていたから私としては嬉しかったけれど、あまり顔色がいいようには見えないし心配だ。
「……」
「……」
おまけにしばらく続く沈黙。
元々口数が少ない人のなので仕方がないと言えばそうなのだが、なぜこんなところにいたのか説明がないってことは先輩にもそれなりに答えにくい事情があるのかもしれない。こちらからは簡単に聞けるような雰囲気でもないので、しばし無言の時を共有していると、
「――先週の祭りの日、急に行けなくなってごめん」
気を遣ってくれたのか、先輩が唐突に口を開いた。
「いえ、気にしないでください。っていうか先輩、妙に夏祭りのこと聞いてくるから変だと思ってたら、私の従姉妹の神崎陽菜と約束してたんですね。言ってくれればよかったのに……」
若干恨みがましい目をしてそう返すと、先輩は少し笑ったようだった。
「ごめんごめん。驚かせようと思って」
「驚いたなんてもんじゃないです。おかげで寿命が縮みましたよ」
「え、そんなに?」
「当たり前じゃないですかっ。だってまさか先輩と陽菜が……」
――付き合っていただなんて。
その言葉尻は吐き出す前に飲み込んだ。
口にするとなんだか現実味が増してしまい、余計にダメージが深刻化すると思ったからだ。
まさか同じ人に二度も失恋するなんて……。
先輩はどんより落ち込む私を怪訝そうに見つめてから首を捻った。
「俺と神崎さんが……どうしたの?」
「あ、いや。なんでもないです。今さら野暮ですよね」
「……?」
惨めになるのでこの話題はやめておこう。
目を瞬いている先輩を横目に口籠もりながらも気を取り直し、本題に戻る。
「それよりあの日、何かあったんですか? 陽菜が心配してましたよ」
喧嘩になってしまったとはいえ、陽菜だって気にしていたのは事実だ。
あの時彼女はナンパだのなんだのと騒いでいたけれど、きっとそれは本心ではなかったに違いないし、私はいまだ先輩にはそれなりの理由があったと思っている。
だからこそなんとはなしに尋ねたつもりだったのだが、やはりその件になると先輩はどこか浮かない顔で遠くを見つめた。
「うん。ちょっと、ね。それについては……今はまだごめん。落ち着いたら話すよ」
儚げに微笑む先輩の表情はどこか傷ましく私の目に映る。
明確な答えが得られなかったとはいえ、そこには精一杯の誠意が込められているようで、これ以上の追及は無意味に感じた。
「わかりました。無理はなさらないでくださいね。気が向いたら話してもらえればそれで構いませんので」
「ありがとう」
「いえ。私よりも陽菜の方が……」
「あ。そうそう。神崎さんといえば……」
「……?」
「昨日かな。たまたま町で彼女を見かけて、祭りの件を謝ろうと思ったんだけど……ちょっと様子が変だったんだよね」
「え?」
ふと思い出したようにそんなことを切り出した設楽先輩。
「変って……どうかしたんですか?」
「んー。なんだろ。本当になんとなくなんだけど、目は虚ろで、話しかけてもどこか心ここに在らずって感じで、まともに会話できなかった」
「え。陽菜が設楽先輩を相手に、ですか?」
「うん。しかもよくわからない男連れてた。一人か二人」
「……」
それは確かにおかしい。
今までの人生、散々陽菜から自慢話に近い恋話を聞いてきたけれど、彼女はなんだかんだ言って一途で、うまくいかなかった時なんかは愚痴りこそしてもすぐに男を乗り換えるだなんてことは決してしなかった。むしろしつこいぐらい執着するタイプである。
設楽先輩の件だって、一回ドタキャンされたぐらいで自棄になって他の男と街をほっつき歩くようなタイプでも決してないし、男友達に相談していたというパターンもないだろう。
なぜなら、『そういう相談は高確率で相手の庇護欲を刺激しちゃうから、男友達よりも女友達を相談相手に選んだほうが絶対にいい』と、本人が豪語していたからだ。
モテる彼女のことだからきっと何か経験則があるに違いないし、真に迫っていたことを記憶している。
つまり、やはり先輩の懸念は的を射ていて、どう考えても陽菜らしからぬ行動であることは確かなのだ。
「確かに変ですね、それ」
「でしょ? 気になったけど、『連れはただの友達』って言い張ってたし、ちょっと目を離した隙にいなくなっちゃったからそれっきりなんだけど……。もし顔を合わせてたり連絡取れてるなら、なにか変わった様子とかなかった?」
「あ、えっと。それが今、ちょっと喧嘩中でして……」
痛いところを突かれ、言葉尻を濁す。
うちの複雑な家庭の事情を気軽に話すわけにもいかず、
「でも、気に留めておきます。お祭りの件は仕方のないことですし、あまり気にされないでくださいね」
とだけ伝えると、先輩は目を細め、安堵するように「ありがとう」と言った。
正直、陽菜とはもう顔も合わせたくないとまで思っていたけれど、そんな話を聞いてしまうとなんとなく気になってしまうのは事実だ。
――と、その直後、先輩の携帯電話がメッセージの受信音を奏でる。
「……ごめん。バスが来たみたい」
「これから帰るところだったんですね」
「うん。七瀬さんはこれからお寺行くの?」
「あ、はい」
「そっか。じゃあまたね」
別れの挨拶を交わし、バス停に向かう先輩の後ろ姿を見送る。
夕焼けの緋を纏って細い道を行く先輩の後ろ姿は、どこか物寂しげに見えた。
あの祭りから七日――たった一週間だけど大きく変わった私を取り巻く環境。
いまだ先輩に対する未練は消えないけれど、落ち込むたび下を向くしかなかった私はもういない。数々の苦難や挫折が自分自身を強くしてくれていたのだと改めて知ったし、好きな人の幸せを心から願えるようにもなった。
全ては成外内の神様のおかげだ。
また明日、感謝の気持ちを込めて神様にお供物をしに行こう。
そんなことを考えながら前を向き、お寺への道を歩き出した。
◇
それからしばらく、私は細かな閊えを祓う作業を繰り返しながら父の店の手伝いやアルバイトに精を出す日々を続けていた。
父いわく神崎家との話し合いはやや難航しているそうで、家出から二週間が経った今でも私の籍は宙に浮いたままになっているのだが、お世話になっているお寺にはすでに父から諸々の連絡がいっており費用負担の話もついているため、現状、何不自由なく生活できている。
叔母がなぜ今になって私を引き渡さないよう抵抗しているのかそれは疑問だが、いずれにしても父は、理由はどうあれ突発して母や叔母に迷惑をかけている責任を強く感じているため、叔母には強く出られない様子だった。
平行線を辿る話し合いを静観しているうちにあっという間に日々は過ぎていき、夏休みも中盤から終盤に差し掛かっていたある昼下がりのこと。
父の店の手伝いを終えてバスで帰路についていると、信号待ちで停車したその数分の間に、窓の外に見知った顔を見つけた。
(あれは……陽菜?)
そこは商業施設が建ち並んでいる大通りで、交差点を右方向にまっすぐ行くと比較的大きな駅がある。
陽菜は見覚えのある派手な私服姿にマスクを付けて伏せ目がちに信号を渡っていて、その隣には彼女の肩を抱き寄せるようにして歩く、帽子を被った男性の後ろ姿がある。
まさかと目を疑ったけれど何度見ても間違いない。あれは明らかに陽菜だ。
陽菜については先日設楽先輩の話を聞いて以来ずっと気掛かりになっていて、何度か神崎家の近くまで様子を見に行ってみたりもしたけれど、さすがにドアを開ける勇気まではわかずこれといった接触がないまま今日に至っていた。
『次は成内北駅交差点前〜。お降りの方は降車ボタンをお押しください〜』
陽菜を目で追いかけているとタイミングを合わせたように車内アナウンスが頭上に流れた。
唇を噛む。戸惑いはあった。追いかけて行ったところでなんて声をかければいいのかわからないし、要らぬ世話だと邪険にされる可能性が高い。
でも、あれだけお祭りで設楽先輩とのデートを楽しみにしていた陽菜が先輩以外の男と街を歩いていること、そして覇気のない顔をしていたことがどうにも気がかりで、無意識に腕が伸びて降車ボタンを押していた。
***
陽菜の姿を見失わないようバスを降りる。どうやら彼女は駅方面に向かって歩いているようで、やがて二人は駅前の立体駐車場に入っていった。
二人は一階に駐車中の黒いワゴン前で足を止めると二、三会話を交わす。程なくして車の扉が開き、待機していたと思しき人が中から顔を出した。
「やっときたー! 遅かったじゃんー。陽菜ちゃんだっけ? 早く乗りなよー」
にこにこと胡散臭い笑みを浮かべ、気安く陽菜に向かって手を差し出した金髪男を見てぎょっとする。
(あ、あいつ……!)
忘れもしない、山川さんと一緒にいた時に絡んできた二人組の金髪男だ!
――ということは。もしやと思い慌てて物陰に隠れて目を凝らすと、
「わりーわりー。なんかトイレ行きたいとかいうからさあ、コンビニ寄ってたら無駄に時間食っちまってさあ〜」
あの語尾が間延びした喋り方……間違いない。帽子をかぶっていたせいで気づかなかったが、陽菜と肩を組んで歩いている帽子の男は、あの晩金髪男と一緒にいた坊主頭である。
(嘘でしょ……なんであいつらがこんなところに!)
まさかの再会にぞっとしたと同時に、一気に高まる危機感。
先日、私たちが絡まれた時もかなり強引に車でどこかへ連れ去ろうとしていた。
しかも大きな声を上げた途端にやましさを露呈するよう慌てて逃げていったところからして、奴らが不審人物であることは間違いないだろう。
急いであたりを見渡す。幸いなことにここは駅前ですぐ近く交番があり、人通りも多い。
ただし交番は大通りを挟んだ反対側にあるため、お巡りさんを連れてこようとも往復している間に車に乗り込まれ、走り去られてしまう可能性の方が高かった。
かくなるうえは……!
キッと顔を上げ、すぐそばにある駐車場の管理室に向かって走る。
「すみません、開けてください!」
「どうかしました?」
「友達が怪しい男たちに連れ去られそうなんです! お巡りさん呼んでください! 早く!」
「えっ⁉ わ、わかった!」
神様との約束通り無茶をしないようまずは管理室に助けを求め、中にいたおじさんが110番通報するのを目で確認してから、急いで陽菜がいる黒いワゴン車の近くまで戻る。
陽菜は車に乗ることを躊躇っているようだった。
いや、躊躇というよりあれは嫌がっているのだろう。あの晩の私たちと同じで強引に車の中に引き込まれそうになっている。慌てて近くにあった三角コーンを持ち上げ、震える足に喝を入れながらまっすぐに突っ込む。
「……だからあ、大丈夫だって。俺らの馴染みの店だしー、女の子もいっぱいいるからさあ。早く行こうぜ。車ですぐのところだか――」
「えいッッッ!」
気合のこもった掛け声とともに三角コーンを大きく振る。
ぶんっ、と音を立てたコーンは帽子を被った男の頭に見事にスポンっとはまり、陽菜の体が男から解放された。
「ふごっ‼」
「ちょっ、なっ」
「……⁉」
突然の急襲に慌てふためく金髪男と三角コーンをかぶった坊主頭の男。
「まっ、前が見えねえっ!」
「逃げるよ、陽菜!」
「え? つ、月乃⁉」
驚く陽菜の腕をとり、すばやく男たちから引き剥がす。
「お、お前! あの時の……!」
すぐさま金髪男が車から飛び降りて追いかけてこようとしたが、心の準備ができている人間とそうではない人間とでは明暗が明らかだった。
「てめぇ、あの時はよくも――」
「お巡りさんっ、助けてください! ここです、不審者はここですーー!」
「……っ!」
大通りに向かって張り上げた声が立体駐車場の壁にぶつかって跳ね返ってくる。
なんだなんだと振り返る大通りの通行人。半分威嚇のために上げた大声だったが、機転をきかせた管理室のおじさんがすぐ近くの交番から呼び込んでくれたのだろう、制服を着た本物のお巡りさん二人がこちらに向かって全速力で駆けつけてくる。
「げっ。マジかよ!」
「そこの男、止まりなさい!」
「む、お前は非公開捜査中の……」
「やべえ、逃げろ!」
「お、おい待てよ! 頭がはまって抜けな――」
「おっと、詳しい話は交番で聞かせてもらおうか」
お巡りさんたちの迅速な拘束術によりあっという間に身柄が拘束されていく二人を尻目に、私は陽菜の手を握ったまま駐車場を飛び出す。
背後で喚く二人組の男の声が聞こえた気がしたが、集まり出した野次馬の声、パトカーの音であっという間にそれも雑音の彼方にかき消されていった。
◇
無我夢中で走り続け、辿り着いた駅前公園の木陰でようやく足を止めて息を整える。
「ぜぇ……ぜぇ……」
「はぁ、はぁ……」
振り返るが追っ手はいない。どっとふき出る汗。運動部で持久力のある陽菜といえどもやはりそれなりに息が切れたようで、二人して公園の片隅でへたり込みしばし無言の時を費やす。
「なん、なの、もう……。なんで、月乃が、いるの……」
やがて切れ切れの息と共に吐き出される陽菜の愚痴。
今は八月の猛暑まっただなかだから、さすがに息苦しさと暑苦しさを覚えたのだろう、陽菜がマスクを外して汗を拭った。
「驚かせて、ごめん……たまたま、バスで、通りがかって……」
そう答えながらも、ふと、晒け出された彼女の口元にうっすら浮かんだ青痣が目が留まる。自然と顔を顰めてしまった私を見て、陽菜が慌てて右腕で顔を隠した。
「それ……」
「なんでもないし」
「そんなわけないじゃない」
「部活でちょっとぶつけただけだし、なんでもないって言ってんでしょ」
「なんでもなくないよ! 叔母さんに殴られたの?」
「……」
つい強い口調で問いただすと、陽菜は肯定を示すように黙り込んだ。
やはり叔母にやられたのだろう。一時期は私がその立場にいたため特に驚きはしなかったが、あの叔母が実の娘である陽菜にまで手を挙げるとは想定外だった。
「黙ってちゃわからないよ」
「うちを出て行った月乃には関係ないでしょ。ほっといてよ」
「ちょ、ちょっと待ってってばっ」
そっけなく言い放ってその場から立ち去ろうとする陽菜の腕を取る。
「……っ」
「確かに関係ないかもしれないし、正直今でも陽菜に対して腹が立ってる部分はあるけど……でも、それとこれは話が別でしょ! 陽菜があんなわけのわからない男と連むなんてどう考えても変じゃん。叔母さんと何かあったの?」
自分でも引くぐらいお節介な台詞だったし、私の変わりぶりに陽菜も驚いていた。
かつての自分ならこんなに堂々と他人に意見しようだなんて微塵も思わなかったはずなのに。
閊えを祓う作業で培われた精神か、今はただ、後悔したくない一心でまっすぐに陽菜を見つめると、彼女はしばし俯いて黙り込んでいたのだが……。
「あんたが……」
「……うん?」
「月乃が……出てくから……いけないんだよ……」
やがて声を震わせながらそう吐露した。
俯いた陽菜の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。
「陽菜……」
正直、今でも陽菜のことは憎い。叔母を嗾け、マウントを取り続けてきた十数年間。おかげでどれだけ私はストレスを溜め込み、時に死を意識するまで至ったか。
腹は立つが……陽菜については全部が全部、悪い思い出ばかりでもなかった。
小学生の頃、両親がいない境遇を馬鹿にされクラスの男子にいじめられていた時に助けてもらったこともあったし、進路についてはっきり意見が言えない私の代わりに、さりげなく叔母さんに提言してくれていたこともあった。
数は少ないけれどところどころ助けられたのも事実で、それを思い返すとあまりにも弱々しく肩を震わせて泣く彼女を、どうしたって蔑ろにはできなかった。
「やっぱり何かあったんだね」
「……ひっぐ」
「誰にも言わないから全部話して」
意を決してそう告げると、陽菜は一瞬驚いたようにこちらを見たけれど、抱え込んでいた想いが溢れ出したかのように止めどない涙を流しはじめ、思いのたけをぽつりぽつりと語り始めた。
私の家出により、叔母のストレスの捌け口が全て陽菜に向いてしまったこと。
毎日小言を言われ、時に暴力を振るわれたり、それまで私が一手に引き受けていた家事掃除洗濯も全て陽菜が負担する羽目になったこと。
また、私がいなくなったことで普段あまり家に帰らない父親からも愚痴をこぼされるようになり、元々不仲だった両親の仲がさらに悪化しつつあること。
「うちのパパとママ、あまりうまくいってなかったの知ってるでしょ……。ママ、今まではそのストレスを月乃にぶつけることでなんとかバランスを保ってたけど、それが崩れて私にも手を挙げるようになって。もちろんそれは自業自得だから仕方ないんだけど……でも、そんなママを見て、今度はパパが『自分の娘にまで暴力を振るうとはなんだ』って、家の中が荒れるようになっちゃって。私は自分が暴力を受けることよりも、パパとママが顔を合わせるたびに激しい口論をするのを見るのが何よりも耐えられなくて……」
「そう……」
そこまで聞いて、陽菜の言いたいことは大体理解ができた。
陽菜の父親――私にとっての叔父――は、もともと子ども嫌いな人らしく普段あまり家にも帰らず、まともに会話を交わしたことすらないような人だった。
そういう事情もあって私を引き取ることになった当時は散々叔母さんと揉め、『あんたのせいで夫婦仲が険悪になった』とまで言い聞かされてきた。
叔母さんがことごとく私を邪険に扱っていたのはきっとそのせいだろう。
どうしようもない事情だとはいえ迷惑をかけたのは事実だし、耳の痛い話だ。
「私が家にいると悪循環になっちゃうから、最近はなるべく家に帰らないようにしてたんだけど、友達の家にいてもすぐバレて友達の親にまで連絡回されるから、結局どこにも行けなくて……それで、街でうろうろしてる時にさっきの人たちに出会ったの」
「なるほどね……。あいつらと一緒にいたのは今回が初めてじゃないよね?」
「……うん。今日で三回目かな。一回目は夕方ごろ駅前で声かけられて公園で話して終わって、二回目は深夜だったんだけど駅近くのカフェでお茶して終わった。二回ともいい暇つぶしにはなったけど、奴ら、馴染みの店に行こうってしつこくて。断るのすごい大変だった」
「それはそうでしょう、よく二回も断れたね」
「私、ああいう奴らの扱いには慣れてるから」
そっけなく答える陽菜だが、言い寄る男が多く百戦錬磨の対応をしてきた彼女の言葉にはそれなりの説得力があった。
「だけど……三回目の今日はさすがに断れなかった。いや、断れなかったんじゃなくて、断らなかったっていった方が正しいかな。家のことで色々精神的に参っちゃってたからもうどうにでもなれって感じで……。でも、車に乗る寸前で、やっぱりよくないって気持ちが強くなって躊躇ってたら月乃が現れたからびっくりした」
小さく頷いて相槌を打つ。本当に間一髪だったというわけだ。
陽菜は一通りの経緯を話すと気持ちが少し落ち着いたようで、目元を拭いながら深呼吸を繰り返していた。
「そっか。そうだったんだね。それで陽菜が浮かない顔してた理由もわかったけど、それならどうして設楽先輩のところへは行かなかったの?」
「それは……」
別に嫉妬をしているというわけではなく単純に疑問に思ってそう尋ねると、陽菜は急に苦々しい表情になってそっぽを向いた。
「別にいいじゃんそんなの」
「よくないよ。彼氏なんでしょう? 先輩だったらきっと助けてくれたと思うし、暗い時間に町をほっつき歩くより遥かに安全だったと思うよ」
「……」
「それに、先輩、こないだ偶然町で会った時も陽菜のこと心配してたし、せめて連絡の一つくらいは……」
「え、うそ! そんなはずないって! だって光亮先輩、陽菜のことなんか微塵も……」
「……え?」
「あっ」
「ちょっと待って、『陽菜のことなんか微塵も』ってどういうこと? 付き合ってるんでしょ?」
「……」
引っかかった言葉に疑問を感じてそう尋ねると、陽菜はしばしむすっとした顔で何かを言い淀んでいたが、やがて観念したように暴露した。
「付き合ってない」
「へ?」
「私と光亮先輩、本当は付き合ってない。あれ……嘘だから」
「なっ、え、ちょっ……ええ? どういうこと⁉」
突然のカミングアウトに目を白黒させる。
陽菜はまるで悪びれる様子もなくむすっとした顔で私を睨んでいるのだが、わけがわからない。叔母さんや叔父さんのことは一旦脇に置き、陽菜の発言を胸中で咀嚼しようとしたが無理だった。どう頑張っても理解が追いつかない。
「ちょっと待って説明して」
「どうもこうもないし。もともと私が一方的に先輩を好きなだけで、夏祭りもしつこく何度も誘ってようやくOKもらえたってだけだし」
「ちょ、それならそう言ってくれたらよかったじゃん!」
「だって……。『彼氏』とでも言わないと格好つかないし、月乃に取られたら嫌だと思って……」
陽菜は恨みがましい目で私を見てぶつぶつ愚痴をこぼしているのだが、そもそもそこからおかしい気がする。
「わっ、私なんかが先輩に相手にされるわけないじゃない。買い被りすぎだよ!」
「買い被ってないし、その謙遜、なんか超むかつくんですけど」
「え、いや、謙遜っていうか……」
「頭いいくせに……なんで私が月乃を夏祭りに誘ったかわからないの?」
不満げにそう問われ首を傾げる。
夏祭りの日、確か陽菜は『今日友達みんな忙しくて月乃以外に頼れる人いなかった』と、そう言っていたはずだ。そこにはなんの疑問も持たなかったわけなのだが、そもそもそれ自体が嘘だったということなのだろうか?
適切な解答が浮かばず返事に詰まる。そんな私を横目に、陽菜は続けた。
「光亮先輩が指名したんだよ、月乃を。『従姉妹の七瀬さん、呼んでくれたら行ってもいい。こっちももう一人呼ぶから』って」
「……っ⁉」
耳を疑うようなその発言に絶句する。
「え、ちょちょちょちょっと待ってどういうこと⁇ なんでそうなるの⁉」
「それはこっちが聞きたいよ! そもそも私、二人のバイト先が一緒だったなんて全然知らなかったし。……でもまぁそれを聞いて、あらかた察しはついたけどさ」
「察し……?」
言われてみれば、陽菜に先輩とバイト先が同じことを告げた時、『どうりで』と言っていたっけ。彼女には何か思い当たる節があるのかもしれない。
狼狽えながらも努めて冷静に、自分なりの考えを伝えておく。
「いやでもさ、別に深い意味なんてないと思うよ? バイト先が一緒だから気を遣って呼んでくれたってだけな気も……」
「忖度しない光亮先輩のことだし、そんな理由ならわざわざ私を介さず直接月乃を誘ってるでしょ」
「そっ、それはそうだけど、でも、だって……」
「でももだってもないから!」
「うっ」
「私も気になってなんで月乃なのか聞いたけど、『面白そうだから』としか言わないし絶妙な感じではぐらかすから、どう考えても光亮先輩は月乃のことが好きとしか思えないんですけど⁉」
「いやいやいやそれはないって! て、っていうか私、一度先輩に告白してフラれてるから!」
「は⁉ なにそれマジで? まぁ光亮先輩モテるからそんなのは別に驚かないけど。いやでもそれ、照れてただけとか、月乃の勘違いとか、フった後にやっぱり好きになったとか色々あんでしょ⁉ 私そういう勘外したことないし、絶対そうとしか思えないから!」
「お、思い過ごしだよそれは……!」
「いーや、絶対そうだね」
必死の攻防戦も虚しく、陽菜は『光亮先輩は月乃が好き』という暴論でこの件を片付け、「なんでよりによって月乃なの、ちょーむかつく」と息巻いた。
(う、うーん……。それはないと思うんだけどなあ)
謙遜ではなく心底そう思ったけれど、もはやなにを言っても無駄そうなので無言で逡巡する。
密かに告白した時のことを思い返すが、照れているという感じではなかったし、答えも勘違いしようのないNOだった。
確かにフラれた後に仲良くなったのはあるけど……バイト先の先輩後輩としての範囲に過ぎないといえばそうだろう。
(……そういえば先輩、お寺近くの公園で会った時、陽菜のこと他人行儀に『神崎さん』呼びしてた。あの時は単にそれが先輩流なんだろうと思ってたけど、まさか本当に他人だったとは……)
妙に納得してしまう自分。いずれにせよ、陽菜と設楽先輩が恋人同士じゃなかったという事実に困惑を隠せず複雑な気持ちにはなったけれど、私がフラれたことは揺るぎのない事実だし、先輩も先輩なりに何か事情があって私を祭りに呼んだのだろうとそう結論づけることにする。
「と、とにかく! 設楽先輩を頼れなかった理由はわかったから、それについてはひとまずおいといて。どうせ今日は家に帰る気ないんでしょう?」
「……。帰る気あるならあんな奴らについていってない」
「そうだよね。じゃあ、今日のところは私もお世話になってるお寺にお邪魔させてもらう?」
「……え、でも」
「和尚さん、話せばわかる人だしきっと受け入れてくれると思う。もちろんずっとお世話になるわけにはいかないけど、このまま街をふらふらしてたってなにも解決しないし、一度腰を据えて今後のことを考えた方がいいんじゃないかな」
「……」
努めて冷静にそう告げると、陽菜は考え込むようやや黙り込んでから小さく頷いた。
今でも彼女に対して釈然としない気持ちはあるけれど、私のせいで陽菜の家族がバラバラになりかけているのは事実だし、これが私にできるせめてもの罪滅ぼしのつもりだった。
「じゃ、行こう。部屋、多分私と一緒になっちゃうけどいいよね」
「……泊めてくれるなら別になんでもいいし。大事になった困るから今日は帰らないってママには自分から連絡いれとく」
「うん、できるようならそれがいいと思う」
「一方的に連絡して返信は見ないようにするだけ。それぐらいならできる」
頷きを返すと、互いに目も合わさず立ち上がる。
傾き始めた太陽を見上げると、こめかみに滲んだ汗が吸い寄せられるように地面に流れ落ちていった。
陽菜は何かを言いたそうに口を開きかけたけれどそれが声になることはなく、無言で公園を後にし、バスに乗る。
――その日、陽菜は和尚さんのご厚意により無事にお寺に泊まることができ、生まれてはじめて従姉妹と二人並んで布団に入った。
消灯時間が過ぎても陽菜は長らく掛け布団に包まって泣いているようだったが、それが何に対する涙なのか、また、それに対してどんな言葉をかけていいのか皆目検討がつかず、結局なにも言えないうちにやがて彼女は安らかな寝息を立て始めた。
疲れていたのか、とても穏やかに眠ったようで一人静かに安堵する。
もし私が陽菜と本物の姉妹として血が繋がっていたら、私たちはもっと違った形で支え合っていけたのかな……なんて、そんな無意味なことをぼんやり考えながら、私も瞼を閉じ、陽菜の後を追うよう深い眠りについた。
◇
その翌日、陽菜は自ら専門の相談機関に連絡を入れ、早急に一時保護されることが決定し、その日の夕方にはお寺を出て行くことになった。
荷物をまとめ、出立しようとする陽菜を玄関先で呼び止める。
「待って陽菜」
「……」
「和尚さん驚いてたよ。出て行くのはもう少し気持ちが落ち着いてからでもよかったんじゃない?」
「いいの。長引けばママが荒れるだろうし、こういうのは早い方がいいでしょ」
「それはそうだけどさ」
「それに、これ以上月乃に迷惑かけるのもなんか癪だしね」
「別に迷惑だなんて……」
昨晩は布団の中で、そのことを考えていたのだろうか。
いずれにしても実の両親を然るべき場所に訴えるってすごく勇気のいることだと思うし、彼女はなんだかんだいって家族愛の強い人間だったから、きっと辛い決断だったに違いない。
「ママ……ちゃんと向き合ってくれるかな」
ふいに陽菜が、背を向けたままぽつんと弱々しい呟きを漏らした。
施設に入る陽菜はしばらくの間外出ができなくなり、叔母さんは陽菜を引き取るためさまざまな面談やカウセリングをはじめ家庭環境の改善に手を尽くさなければならなくなるらしい。
噂によると健全な家庭環境が徹底的に構築されない限り、叔母さんは陽菜を連れ戻せないようなのだが……。
「きっと大丈夫だよ。叔母さん、もともと陽菜のことをすごく可愛がってたし、今は歯止めが効かなくなってるだけだと思うから。距離をおけばきちんと自分の過ちに向き合ってくれるんじゃないかな」
あれだけ酷い仕打ちを受けた叔母を私がフォローするだなんてなんだかむず痒いけれど、嘘や偽りはなくそれが率直な感想だった。
「だといいけどさ……」
陽菜はまるでいじけている子どものようにそうぼやき、肩にかけた鞄を背負いなおした。
「……」
「……?」
そのまま数秒、無言で何かを考えるような素振りをみせる陽菜。
首を傾げていると、彼女はこちらを振り返ることなく言った。
「自分がやられる側に立って、初めてあんたの気持ちがわかった」
「え?」
「今まで全部……月乃に背負わせてごめん」
「陽菜……」
思いもよらない言葉に目を見開く。
まさかあの陽菜が謝罪の言葉を口にするだなんて思ってもみなくて、どう返せばいいか戸惑い返事に詰まる。
すると彼女は照れを隠すよう、いつもの口調で言った。
「あーあ、いいよねー月乃は。いざとなったら光亮先輩が優しくしてくれるし、優しそーな父親まで見つかってさ。なんか一気に立場が逆転しちゃったーって感じ」
「ちょっ。だ、だから設楽先輩はそんなんじゃないって! お父さんの方は……確かにほっとはしてるけど、まだ叔母さんとの話し合いが付いてないみたいだし、手放しで喜べないっていうか……だいぶ憂鬱っていうか……」
苦笑気味にそう告げると、陽菜は一瞬ちらりとこちらを見た。
なんだか意味深な視線に首を傾げる間もなく彼女は呟く。
「私が言ったって言わないでいてくれるなら、いいこと教えてあげる」
「え?」
「前にパパとママがお金のことで揉めてたことがあって、どうしても気になったから『私、部活やめてアルバイトしようか?』って後日ママに言ったことがあるんだよね。……もうだいぶ前の話だけど」
「……う、うん?」
「そうしたらママは『陽菜は気にしなくていい。いざとなったらあの子の金を使えばいいだけだから』なんて言い出すから、さすがにそれはまずいんじゃない? って言ったの。そしたらママ、なんて言ったと思う?」
「……」
「『うまくやれば大丈夫よ。今までだってバレなかったんだから』――って」
淡々とカミングアウトする陽菜に言葉を失う。
いや、絶句したのは『陽菜に』ではなく『叔母がした行為に』だ。
陽菜は私に背を向けたままどこか遠くを見つめ、冷徹な口調でその先を続けた。
「うちのママがなんでおじさんの話し合いに応じないか、なんでおじさんのことを『女作って蒸発した』って嘘までついて存在をかき消そうとしていたか、それでわかったでしょ。ママ、日常的に月乃の資産を不正に使い込んでたんだよ」
「そんな……」
「それって犯罪だし、親権が移って資産引き渡したら確実に使い込みがバレるから、それで必死になって『今さら月乃は渡さない』ってごねてるんだと思う」
「……」
「あーあ、言っちゃった。ずっとモヤモヤしてたからスッキリしたけど……でも、これで私は犯罪者の娘確定か。確実にパパには見放されるだろうし、友達も減るだろうな……」
言葉は強気なのに声には張りがなく、彼女の背中はひどく小さく萎んで見えた。
不憫に思う気持ちもあるが、自分自身叔母のした行為に受けたショックも大きく、何も言葉をかけられないでいると、
「まっ、私はもうママと一緒に一からやり直すって決めたし、あとはもう月乃の好きにして。これで借りはチャラだかんね」
陽菜はそこまで一気に言い切って、大きく息を吐き出してからこちらを見た。
目が赤い。だいぶ泣き腫らした後なのだろう。こんな陽菜を見るのは初めてだ。
「じゃあね。施設に引きこもるからしばらくは会えなくなるけど、光亮先輩によろしく。月乃になら譲ってもいいけど、変な女にとられでもしたら許さないからね」
「陽菜……」
彼女は最後まで素直じゃない口調と表情で私に別れを告げた。
相変わらずの誤解だ。否定ぐらいさせてくれたっていいのに陽菜は足早に寺を後にする。
颯爽と去っていく彼女の後ろ姿にはもう迷いがなかった。
――蝉の声にまぎれて蟋蟀の音が鼓膜を掠める八月の中旬。一度も振り返ることなく去りゆく従姉妹の背中を、ただ静かに見送った。
◇
それからさらに一週間が過ぎ、血の繋がりを調べる検査の鑑定結果が父の元に届いた。
私と父の親子関係は無事認められ、ほどなくして私と父は共同生活を開始する。
あれだけ長引いていた父と叔母の話し合いは、叔母の不正を公にせず不問とすることで無事終息にこじつけた。
額が比較的軽微だったことや、いずれにしても叔母夫婦にはそれなりの迷惑をかけたことは事実だったし、なにより陽菜への影響を鑑み、それが父と一緒に考え抜いた末の譲歩だった。
***
「……というわけで、このままごねていても時間だけが無駄に過ぎていってしまいますし、お金よりも時間を大事にしようってことで、父とそう判断したんです」
夏祭りの日から三週間が経ち、毎日のように通う成外内神社の境内にて、今日も今日とて狐顔の神様に近況を報告する。
《ふむ。悪くない結論だな。無事に落着して良かったではないか》
「はい。成外内の神様のおかげです。本当になんてお礼を言ったら良いのか……」
《私の力ではない。おぬし自身の努力が功を奏したのだ》
「神様……」
優しく撫ぜるような温かい言葉が私を包み込む。
思い切って背後を振り返ると、神様はいつものように石段の最上部に腰掛けて遠い空を見上げていた。
時刻は夕暮れ時。神様のお姿は妙に朱く透けて光り輝いているかのように私の目には映った。
ここへは毎日の所用を済ませた後に報告がてら来ることが多いので、大抵が夕方から夜にかけてになる。今日は晴れていた割にいつにも増して大気が潤い、染み入るような茜色が空に美しく映えていた時分だったので、余計に神様のお姿も背景に溶け込んで幻想的に見えたのかもしれない。
「あの、神様」
《……うん?》
長らく無言で同じ時を共有していた私たちだったが、ふと思い出して尋ねる。
「閊えを祓う作業なのですが……」
《ああ。滞りなく続けているか?》
「あ、はい。それはもちろん」
人間、生きていくには必ず誰かしらと関わりを持たねばならない。
他人と共存すれば自分の思うようにならないことなどままあるし、大なり小なり閊えは生まれ続けていく。
今までの私は、それと向き合うことなく逃げていた。だから溜め込んだ閊えに押し潰されそうになっていたわけで、成外内の神様に出会っていなければ『閊えは生まれ次第解消する努力が必要不可欠』という考えを持とうともしなかった。
考えを改めた今、思いつく限りの閊えを解消し、悲観的だった自分自身をも見つめ直して見違えるほどに生きやすくなったのだが……。
《なんだ? 何か思うことがあるなら申してみよ》
「えっと、その。これまでに何度も閊えを祓う作業を繰り返してきたので、今はもう何ももやもやすることがないっていうか……蟠りがあればすぐ対処するようになったので、もう禊をする必要がないように思うのですが」
《……》
「閊えを祓う作業はいつまで続ければ……」
もちろん、早く約束を果たして欲しいと催促しているわけではない。
以前より生きやすくなった今、むしろこのままあの『生まれ変わる』という約束自体がなかったことになってしまえばよいのにとさえ思っていた。
しかしそう問いかけた直後、石段の下から聞こえてきた声に会話を遮られる。
「七瀬さん。七瀬さん、いる?」
「……っ!」
まさかこんなところに人が来るなんて思っても見なかった私は、神様がいるのにどうしようなんておろおろしながら背後を振り返るが、神様は特に慌てる様子もなくその場でじっと佇み、声がした石段の方を見つめている。
ほどなくしてその方向から姿を現したのは、まさかの設楽先輩だった。
「あ、いた」
「えっ⁉ 設楽先輩⁉」
思いもよらない人物の登場に誰よりも動揺する私。
設楽先輩は神様の存在に気づいていないのか、そこかしこに蔓延る蔦を避けながらゆっくりこちらに向かって歩いてくる。
「(ど、どどどどうしましょう神様⁉)」
《……》
「(か、神様?)」
《ん? あー……気にせんでよい。信仰心のない者に私の姿は見えぬ》
「(え? そうなんですか⁉)」
《ああ……。だから、気にせず話せ》
慌てる私とは正反対に、落ち着いた声でそう仰る神様。
神様は妙に神妙な空気をまとって先輩をじっと見つめているんだけれど、そういえば以前に先輩の姿を顕現したことがあったな、なんて余計なことを思い出す。
「(わ、わかりました。じ、じゃあ……)」
ひそひそ話しているうちに先輩が私たちの目の前までやってきたため、私はこほんと咳払いをしながら居住まいをただし、貼り付けたような笑みを浮かべる。
「せ、先輩。どうしたんですか? こんなところで」
神様の目の前で『こんなところ』扱いはないよな……なんて、言ってから後悔する。
「七瀬さん、店に携帯忘れたでしょ」
「え? あっ……」
「俺、今日非番だったけどちょっと用があって店寄ったから。店長に、多分ここにいると思うから、通り道なら渡してくれって頼まれた」
なるほど、と手を打つ。そういえば確かに、今日の休憩中に店長と他愛もない雑談をしていて、帰り道にここへ寄るって話をしたんだっけ。
「そうだったんですね。わざわざすみません」
「いいよ別に。通り道だし」
そう言って先輩は、ポケットから取り出した私の携帯電話をこちらに差し出す。
ありがたく受け取ろうと手を伸ばした……のだが。
《あ、ちょっと待て!》
「えっ?」
「……?」
ふいに神様が声を張り上げたものだから、どきっとして手を引っ込める。
目を瞬きながら振り返ると、神様は少しバツが悪そうにぼそぼそと言った。
《その、触れたらその者にまで私の姿が視えてしまう可能性がある。神とは厳かなもの。神の尊顔をそうやすやすと不信者に拝ませるものではない》
「(そ、そうか、そうですよね……!)」
「……七瀬さん?」
「あっ。いえ、すみません。ただの独り言です……。あの、これ、ありがとうございます」
一人でぶつぶつ呟く私を怪訝そうに見る設楽先輩から携帯電話を受け取る。
もちろん、その手には触れることなく、そっと。
「渡せてよかった。にしても……足しげく神社に通うなんてマメだね」
「あ、いえ。ここの神様には本当にお世話になってるので」
「……そう」
胸を張ってそう答える私に、設楽先輩は笑みを滲ませる。
――どう考えても光亮先輩は月乃のことが好きとしか思えないし!
ふと、陽菜に言われた言葉が脳裏に蘇った。
そんなはずはないと分かってはいても、なんだか照れ臭くなってしばし目を泳がせていると。
「眼鏡」
「……え?」
「してないんだ」
私の顔をじっと見つめていた先輩が、急にそんなことを言い出した。
「あ、はい。ちょっと色々あって眼鏡が壊れてしまって……。せっかくなので気分を変えてコンタクトにしてみたんです」
それは紛れもなくあの二人組の男に絡まれた時の弊害で、もうだいぶ前から思い切ってコンタクトに変えていたのだけれど、しばらくアルバイトを休んでいた先輩とはしばらく会っていなかったため、考えてみればこの姿で対面するのは今が初めてかもしれない。
「……そう」
「なんか変ですかね」
「いや……悪くないと思う」
「えっ」
「別に眼鏡の七瀬さんも嫌いじゃなかったけど、それはそれでいいっていうか……」
「……っ」
「って、何言ってんだろ、俺。今のなし。忘れて」
先輩は心底しまった、といったように顔を赤らめると、こちらに背を向けるようふいっとそっぽを向く。
「じゃ、俺、用事あるし行くね」
「え? あ、はい! 本当にありがとうございます! わざわざすみませんでした」
せっかく会えたのにもう行ってしまうのか……と残念に思ったのは言うまでもない。
でも、何か用事があるみたいだし仕方ない。
先輩は背を向けたままひらひらと片手を振って、軽やかに石段を降りていく。
その去り姿を見ているだけで、ほうっと溜息が出てしまいそうだった。
《……》
「……って、あっ。すみません神様」
そんな私をじと目で見ていた――厳密には眉一つ動かない狐顔なのでそう見えただけだけど――神様に、慌てて向き直る。
神様はゆるりと首を振ると、今度は設楽先輩が降りてった石段の方をじっと見つめたまま言った。
《あの男が、今なお好きなのだろう》
「えっ。あっ、いや、そのっ……」
《隠さずともわかる。正直に申せ》
「うぅ……はい。大好き……です」
相手は神様だ。どうせ隠していてもバレてしまうだろうと思って正直に告げたはいいが、自分の気持ちに正直になりすぎて、今さらながら耳まで顔が熱くなった。
《……》
「あっ。引かないでください神様! 分かってます、不釣り合いなのは分かってますっ。でも、想うのは自由だか――」
《良いと思う》
「へ?」
神様の独り言のような呟きに耳を疑う。
目を瞬きながら神様を見ると、
《悪くない。きっと、あやつならおぬしを幸せにできるだろう》
断言するように、神妙な声でそう仰せになった。
「えっ⁉ ちょ、なななな……何を仰って……!」
《……。忘れたか、私は縁結びの神ぞ》
「そ、それはそうですけど、でもっ」
妙に先輩のことを凝視してるから一体何を言い出すのかと思えば、願っても見ない太鼓判が飛んできて狼狽える。
そりゃあ先輩に対する私の想いを真摯に受け止め認めてもらえたことは嬉しいが、神様に断言されるとなんだか大事になってしまいそうで嬉しいやら申し訳ないやら畏れ多いやら。
《よし。そろそろ仕上げ時だしな。ここは一つ私があやつとおぬしの縁を……》
「し、仕上げ時⁉ まままままま待ってください神様っ! いいです、いいですってそんな! 私、一度振られてますし、それにっ」
《ああ、知っておる。見ておったからな》
「え。見てたんですか⁉」
《うむ。偶然、おぬしのバイト先のコンビニ裏でな》
「神様がコンビニ行くんですか⁉」
《冗談に決まっておるだろう。それはともかく、本当に好きなんだったら一度フラれたくらいでそう簡単に諦めるもんではないぞ》
「そ、それはそうですけど、でも、先輩の気持ちを神様の力で動かしたりなんかしたら先輩にも悪いですし」
《いや、私はだな、あやつの気持ちを動かすのではなく、二人の縁を……》
「あの、それはっ、その、でも、お気持ちだけで本当に充分ですから!」
《……》
「もし……少しでも可能性があるのなら、できれば自分の力で振り向かせたいんです。そう前向きに考えられるようになったのは他でもない成外内の神様のおかげなんですよ」
せっかくの神様のご厚意に背くなんて、私は何て恩知らずなのだろう。
自分でもそう思ったが、その反面、感謝しているからこそ、お世話になっているからこそ、自分の力できちんと前を向いて歩いている姿を、神様に見て欲しかったのも事実だ。
それに――。
「気遣ってくださってることは本当に、本当に感謝しています。でも、神様、力が薄れてきてるって仰ってましたし、できるだけ余計な力を使って欲しくないんです。万が一にでも消えるようなことになってしまったら本当に困るので……」
ずっと心の底に引っかかっていた懸念を告げると、神様はようやく前屈みの姿勢をといて、《そうか……》と仰った。
しばしの沈黙。そして――。
《強くなったな》
柔らかい陽だまりのような声が降ってくる。
今、きっと、狐のお面がなければ優しく微笑まれたのだろうと、そう思いたくなるような穏やかな声だった。
「え……?」
《今のおぬしなら、もう、私がいなくても大丈夫だろう》
「そ、そんなことないです! 私は神様がいるから胸を張って生きていられるだけで」
《……まあよい。それよりも、せっかくだからあやつを追いかけなくてよいのか?》
「へ?」
《おぬしが今住んでいる家に向かうバス停と、あやつの家は同じ方向だ。用があると言ったってそこまで急いでいる風でもなかったし、追いかければ間に合うだろう。きちんとした礼がてら一緒に帰ったらどうだ?》
「……! でも……」
《大丈夫だ。余計な小細工はせん。自分の力で振り向かせるんだろう? だったら早いに越したことはない。あやつを狙っている女子はたくさんおるぞ》
「う……」
神様に激励され、背筋がしゃんと伸びる。
一度振られたとはいえ迷惑がられている様子はないのだし、確かに改めて礼をするぐらいなら……。
すっと前を向く。立ち上がり、ぎゅっと拳を握ってキッと石段を見る。
「そうですよね。迷惑にならない程度になら頑張ってもバチは当たりませんよね」
《ああ》
「私、行ってきます」
神様の方を振り返り、ぐっとガッツポーズを握って見せると、神様は満足したように大きく頷いた。
《――行ってこい》
大きくて温かな手に、そっと背中を押されたようだった。
神様に向かって一礼し、赤く染まった空に向かって歩みを進める。
まるで焦がれるような神様の視線を背中に浴びながら鳥居をくぐると、薄くあかりを灯し始めた街並みに向かって一気に石段を駆け降りる。
この時は、神様のその視線の意味など深く考えもせずに――色濃く刻まれた私の夏は終わりを迎えようとしていた。
◇
それから間もなく二学期が始まり、私にとっての学校生活は神様に出会う前のそれと大きく変わっていた。
まず、友達ができた。きっかけは山川さんだ。過日の一件以来、山川さんとよく話すようになった私は、彼女が私と同じ高校に通っていたことを知り驚いた。
というのも、私の通っている高校は普通科と商業科に分かれており、私や陽菜、設楽先輩は普通科に所属しているが、山川さんは商業科の生徒であるため学舎も異なり、校内で顔を合わせる機会がほとんどと言っていいほどなかったため知り得ずにいたのだ。
通う高校が同じで学年まで一緒とわかるや否や、彼女は昼休憩の時間になると気まぐれに私の教室までやってきて食堂へ行こうと誘ってくる。
私が喜んで席を立つと、クラスにいる長谷川さんという女子まで一緒に行きたいと席を立った。どうやら長谷川さんは山川さんと同じ中学校出身の馴染みの仲だったらしく、結果、山川さんと長谷川さんと私といった三人で食堂に通う機会が生まれ、自然とクラスでも長谷川さんと親密に接するようになった。
『七瀬さんて真面目そうだし近寄り難いイメージあったけど、悪い人じゃなさそうだしちょっと話してみたいってずっと思ってたんだよね』
そんな有難い言葉までかけてもらって天に昇るほど嬉しかったし、自分だけの世界に閉じこもって生きていたら、きっと一生聞くことのできなかった台詞なんだろうなと思うと密かに恐ろしくもなった。
また、二つ目の変化は、苗字が七瀬から父の姓である『綾原』に変わったことだ。
これは今後を見据え、私が父の戸籍に入ったがために生じた変化なのだが、混乱を避けるため、残り一年半ほどの高校生活の間は正式な書類以外七瀬姓を名乗ることで学校側には了承を得ている。
このささやかながら大きな変化を知る人物は、親しい山川さんと長谷川さん、そして――。
「……あれ。山川さんに七瀬さん。昼飯、一緒に食ってんだ?」
あれ以来今まで以上に会話する機会が増えた、設楽先輩だ。
「あっ。設楽先輩! こんにちは」
「あれ。設楽先輩じゃん。っていうか、長谷ちゃんもいるんですけど〜」
「……どうも長谷川です。気にせず話してください」
元バスケ部の先輩たちと一緒にやってきた設楽先輩は面識のない長谷川さんに小さく一礼すると、バスケ部の友人に「空いてるしここ座んね」と声をかけてから、私たちの近くに腰をかけた。
「へー。七瀬さんと山川さん、ずいぶん仲良くなったんだね」
「あ、はい。山川さんとも長谷川さんとも仲良くさせてもらってます」
「まぁ、色々あったしね。っていうか設楽先輩、バイト先じゃツッキーの方が先輩なんだからちゃんと敬語使わないと〜」
「ちょ、山川さんっ、そっ、そんな敬語だなんてっ」
「そういう新人の山川さんこそ敬語使わないとまずいんじゃないの。七瀬先輩、失礼だと思ったら容赦なく体育館裏に呼び出していいっすよ」
「うげ、やめてよ〜。男バスの先輩に言われると冗談に聞こえないんですけど〜」
「あーそういえば男バスって上下関係めっちゃ厳しいんだっけ。大変だね〜頑張って山ちん」
「わかってるね長谷さん……だっけ?」
「長谷川です」
「ちょっ。もう、三人揃ってやめてくださいよお……」
「あはは。ツッキーガチで焦ってるし!」
「なになに、俺らも混ぜてよ!」
男子バスケ部の先輩たちがこぞって話に割って入ってくると、ささやかな食事の時間はとても賑やかなひとときに変貌する。
バスケ部――それも、女子に人気の高い設楽先輩を中心としたグループ――の先輩たちと会話どころか食事まで共にするだなんて、今までなら考えられなかった光景だ。
設楽先輩のことももちろんだけれど、何より、山川さんや長谷川さんとこうして仲良く食事ができるようになったことは私にとって何よりも尊く、幸せな変化だと言える。
ただ……あの夏祭りの日以来、設楽先輩の元気が少しないように見えるのが、少し気がかりだった。
そしてもう一つ、山川さん、長谷川さん、設楽先輩との関係性の変化の他に変わったことといえば、成外内の神様だ。
「あれ……またいない」
夏祭りの日以来、寄れる日はできる限り神様のもとへ足を運び、杜の周辺を軽く掃除したりお供物をしたり日々の出来事を報告したりしているのだが、以前設楽先輩との仲を応援されてからというもの、神社に寄っても神様のお姿が見えない日が増えてきたように思う。
(なにかあったのかな……)
この日も、学校帰りに神様のもとへ寄ったがいくら待っても神様は現れなかった。
(どこ行ったんだろ)
杜の軒先にぶら下がる透明の小鈴をぼんやりと見上げながら漠然と思いを巡らせる。
(最近、会えたとしてもどこか浮かない空気が漂ってることが多いし、なんとなく覇気がなく見えるっていうか……)
指先で小鈴に触れると鈴は物悲しげにりんと音を立てた。
心の底に落ちてくるその儚げな音が、より一層焦燥感を掻き立てる。
(まさか消えたりしないよね? ただの気のせいだといいんだけど……)
単に忙しいだけなら良いのだが、以前神様は『信心を得られなければ力を失い、やがて消滅する』と仰っていたのがずっと心に引っかかっていた。
(また明日こよう。明日こそ会えるといいな)
何度も同じことを思って足を運んでは、神様に会えたり会えなかったり、一喜一憂して。
週を追うごとにその不安は顕著になっていき、結局、月が変わる頃になっても神様の異変が改善されることはなかった。
***
そんな数々の変化とともに日々を過ごし、気がつけば九月も中旬に差し掛かったある土曜日のこと。
この日は父が料理修行で店をあけるためお店の休業が前もって決まっており、またコンビニのアルバイトも入っていない日だったので、久しぶりにお寺の和尚さんに会いに行こうと父の作ったおはぎを手土産に持って家を出た。
お寺までの道のりはバスを乗り継ぎ約一時間。慣れ親しんだ停留所でバスを降りると、清々しいほどに透き通った秋晴れの空が上空を心地良い青に染め上げていて、無意識に深呼吸を繰り返す。みずみずしい空気が身体の細部にまで行き渡り、自分の中で新鮮な英気が養われるような気持ちになった。
そうしていまだ枯れない木槿が両脇を彩る小道を進み、誰もいない寂れた公園を通り過ぎる。やがてお香の匂いが鼻腔を掠めてきた頃、お寺の門が見えてきた。
今日は法要があるのだろうか。普段はあまり通らない車が脇を掠めていき、お寺の駐車場に停車する。
門をくぐって敷地に入ると中庭に喪服を着た女性や男性が立っているのが見え、やはりこれから法要が行われるだろうことを確信した。
縁側の窓と障子は閉まっているため中が見えないが、物音がしているのでどうやら本堂内にも人が集まりはじめているようだった。
(和尚さん、今日は忙しいだろうな……。お手紙添えて、お土産だけ置いて帰ろう)
宿坊でお世話になっていた間にも当然こういったことが日常的に行われていたので、邪魔にならないよう配慮して玄関先に手土産だけ置いて帰ろうと思った――その時、
「……あれ。七瀬さん?」
聞き覚えのある声がしてどきっとする。振り返ると、制服姿の設楽先輩が玄関先に立っていた。
「えっ。設楽先輩?」
「すごい奇遇。よく会うね」
心底驚いたといったように目を瞬いている設楽先輩。
そういえば以前も、この近くの公園にいる先輩を見かけたっけ。
「先輩の方こそ土曜日なのに制服着てるってことは……法要でしょうか?」
「……あ、うん。まぁ……」
微かに苦笑を滲ませる先輩。いや、無理に微笑んだといった方が的確だろう。
「あ、えーっと、あの、お忙しいでしょうし、私はこれで失礼しますので詳しくはまた学校で……」
先輩が唇を噛み締めて目を伏せたため、あまり深く詮索しない方が良いだろうと判断し、慌てて玄関先から離れて通り道を開けようとしたのだが、
「あ、ちょっと待って七瀬さん」
すぐさま先輩に引き止められた。
「……はい?」
「ごめん七瀬さん。今、時間ある?」
「え?」
「法要が始まるまでまだだいぶ時間があるし、ちょっと話したいことがあって……」
思いもよらない言葉にどきりとする。
といっても、少女漫画のように期待で胸をときめかせたわけではない。どちらかというと何かよからぬことを告げられる前兆のような、そんな漠然とした緊張が走った感じだった。
もちろん断る理由なんてないので二つ返事で了承すると、先輩は「家族と話してくるからちょっと待ってて」といって一旦本堂の方へ向かい、すぐさま戻ってきた。そしてそのまま裏庭まで歩みを進めると、若々しい緑の中に備え付けられたベンチに腰をかける。
本堂に面している中庭とは打って変わり裏庭は静かで、聞こえてくるのは空を飛び回る小鳥の囀りか、いまだ鳴りを潜めない蝉の鳴き声ぐらい。
張り詰めた緊張感を壊さないように先輩の隣へそっと腰を下ろすと、彼が紡ぐ言葉を待った。
しばしの沈黙ののち、ようやく先輩は口を開く。
「急にごめん。夏休みにこの近くの公園で偶然会った時、夏祭りをドタキャンした理由は落ち着いたら話すって言ったの覚えてる?」
「あ、はい。確かにそう仰ってましたよね」
あれはまだ私がお寺の宿坊にお世話になっている時の出来事だ。当時の背景を思い返しながらそう答えると、先輩は小さく頷いてみせた。
「やっと少しは気持ちが落ち着いたっていうか……いや、実際気持ちの整理なんて永遠につかないと思うんだけど、今なら話せそうだから話すね」
「はい」
「夏祭りに行く予定だったあの日――一緒に行くはずの連れが、事故に遭って病院に運ばれたんだ」
「え……」
鉛のように重たい言葉を後悔と共に吐き出すよう、そう呟く先輩。
まさかそんな出来事があったなんて思いもよらなかった私は、後頭部を殴られたような衝撃を受けた。
すぐにはかけるべき言葉が見つからず黙していると、先輩は果てしなく広がる青空をぼんやり見つめてからその先を続ける。
「トラックの居眠り運転が原因の衝突事故で、病院に運ばれた時にはもうほとんど手遅れだったみたい。本当は七瀬さんにも神崎さんにも、すぐにそのことを告げるべきだったんだけど……どうしてもその事実を認めたくなかったっていうか、気持ちが追いつかなくて。今まで言えずにいてごめん」
「そ、そんな! 謝らないでください。お友達の身にまさかそんな大変なことがあっただなんて思いもしなくて……不躾に理由を聞いてしまったりしてこちらこそすみません」
慌てて先輩の謝罪を打ち消す私。
――ああそうか。それで先輩、ここ最近アルバイトを休みがちだったり、学校で会ってもどこか元気がないように見えたのかと心のどこかで納得する自分がいた。
しかしそれと同時に自分の無粋さにも後悔を募らせていると、先輩はやや力なく微笑んでから気丈に言った。
「それがね、『友達』じゃないんだ」
「え?」
「一緒に行く予定だった相手、俺の『弟』なの」
「なっ……」
静かに告げられたその事実に言葉を失う。
先輩は目を瞑り、弟の面影を偲ぶよう穏やかな声色で続けた。
「俺が誘ったんだ。あいつ、七瀬さんのことずっと見てたから。きっと喜ぶだろうと思って誘ったのに、まさかこんなことになるなんて思ってもなくて……」
「え……? ちょ、ちょっと待ってください……見てた……? どういうことですか?」
先輩の言葉に理解が追いつかなくて、戸惑うようにその意味を尋ねる。
私に視線を移した先輩は儚げに苦笑して、その問いに答えを重ねた。
「七瀬さんは知らなくて当然だよ。俺の両親はガキの頃に離婚してて……俺が母方に、弟が隣町に住む父方に引き取られて育てられたから、俺らとは通ってた学校も違うし、あいつには七瀬さんに接触する機会もほとんどなかったはずで、本当に一方的に見てたような感じだから。だから、夏祭りに誘われた時、申し訳ないと思いつつも二人を引き合わせるいいチャンスだと思って、神崎さんに七瀬さんを呼んでもらえるよう頼んだんだ」
思ってもみなかった暴露に心の底から喫驚し目を泳がせる。
でもその反面、それでやっと腑に落ちたというか……それまで抱えていた閊えがすうっと溶けていくような気持ちになった。
私が設楽先輩に指名され夏祭りに誘われた理由。
私が先輩にふられた理由。
フラれてもなお、私が先輩に親切にされていた理由。
その答えが、今の先輩の言葉の中に全て含まれていた気がする。
でも――。
「そう……だったんですか……。ごめんなさい、私、自分のことを意識してくれてる人がいただなんて、そんなの全然気づかなくて……。謙遜とかではなく、私、本当に今まで人付き合いも悪かったし、全然目立たなかったし、誰かに想われるようなことなんて何一つなかったんですが、一体何がきっかけだったんでしょうか?」
その点だけがどうしても分からず、戸惑うように設楽先輩に視線を投げる。
すると先輩はそんな私に気遣ってか、ぽん、と私の頭を撫でた。
「自分が見ている世界と、他人が見ている世界は違う。七瀬さんは自分に自信がないみたいだけど、優しくて、思いやりがあって、健気で。俺は充分、人を惹きつける力があると思ってるよ」
「先輩……」
ここまでまっすぐに、人から褒められたことなど今までなかった。
ずっと自分に自信がなかったから、自分のことが嫌いでたまらなかった。
でも、そんなふうに思ってもらえていたことが素直に嬉しくて。
これもきっと成外内の神様のおかげなんだなって、心から感謝の気持ちが溢れた。
「やめてくださいよ……。先輩にそんなこと言われたら調子に乗っちゃうじゃないですか」
「いいよ乗っても。もっと自信持ちなよ。あいつのためにも、俺のためにもさ」
「……? 先輩のためにも?」
何気なく付け足された一言に目を瞬く。
しかし先輩は、静かに微笑んだだけでそれ以上は語らず「それよりも」と、会話の流れを戻した。
「『きっかけ』……か。俺の口から話していいものか迷うけど、今はもう俺しか話せる人間がいないし、俺が知ってる範囲でその話をしようと思うんだけど……その前に、一応あいつに報告してからでもいいかな?」
先輩が本堂の方を指さしつつ、こちらの返事を窺う。
やはり、今日の法要はその弟さんのためのものだったようだ。
「もちろんです。まさか焼香台に上がるだなんて思ってもいなかったのでこんな私服で申し訳ないんですけど、できれば私もご焼香させてもらえれば……」
申し出を快く引き受けると先輩は安堵したように表情を緩めて頷き、じゃあと腰を上げた。
それに倣って腰を上げた私は、先輩と共に中庭に戻って玄関をくぐり、屋内に上がる。長い廊下をまっすぐ進むと、途中で先輩の親族らしい喪服の方とすれ違った。会釈を交わし、たどり着いた襖の前で軽く呼吸を整える。この奥が本堂だ。
襖に手をかけた先輩はしばし俯いて想いを巡らせていたようだけれど、やがて顔を上げ、こちらを振り返ると気丈に振る舞うように言った。
「今日はあいつの四十九日なんだ。極楽浄土に行く前にどうしても七瀬さんに会わせてあげたかったから。ついてきてくれて、本当にありがとう」
そんな顔をして、そんなことを言わないでほしい。
ぷるぷると首を振り、精一杯励ますようそっと微笑んで見せる。
そんな私の心意気を汲み取るように、先輩は襖を開けた。
ふわりと漂うお香と檜の匂い。
たくさんの花に囲まれた祭壇に、所狭しと並べられた和菓子に果物に、故人が好きだったのだろうスポーツ飲料にサッカーボールに侍が描かれたゲームソフトや今人気の歴史漫画。
私とさほど変わらない年端の青年が遺骨となってそこに安らかに眠っているのだと思うとひどく心が痛んだが、現実と向き合うよう祭壇の最上段に掲げられた遺影にしっかり目を向ける。
(――……え?)
写真の中の青年と目が合った瞬間、瞠目し、言葉を失う。
目を疑うように隣にいる設楽先輩を見上げたが、先輩は儚げに微笑んでいるだけ。
早る心音を落ち着かせるように今一度遺影を凝視したが、やはり見間違いようもなく、もはや頭が真っ白になるだけだった。
「名前は影亮。俺の双子の弟なんだ」
設楽先輩の言葉が頭の中にこだまする。
そこには……――設楽先輩と瓜二つの顔なのに、目は茶色、髪は金髪の、いつの日にか見た成外内の神様の素顔が、遺影の中で微笑んでいたのだ。