何もない、真っ白な空間。
この場所に来るのは何度目だろう。
私また風邪引くのかな。
こんな大事な時に、それは困る。
辺りを見渡しても、あの影はいない。
もしかして違う夢?
――灯。
どこからか優しい声が聞こえてきた。
「誰?」
私は後ろを振り向いた。
「灯」
そこには誰もいなかったはずなのに。
「お母さん……」
淡い光に包まれている母親が見えた。
夢だ……これは夢だから。
でも、今まで一度も夢で会ったことはなかった。
私は引き寄せられるように足を動かした。
その姿はよく覚えている。いつもそばで笑ってくれていた、太陽のような人。辛い時は励まして、悲しい時は寄り添って、楽しい時は一緒に笑ってくれる人。
「お母さん!」
「灯、大きくなったね」
これは夢だ。分かってる。
私は駆け寄った先で、その人の顔を見た。
「会いたかった」
言葉と共に涙が溢れる。
「灯、ずっと見てたよ。よく頑張ったね」
その笑顔に手を伸ばす。
「え……」
左肩辺りに触れた指が止まった。
少し透けているように見えたから、触れられると思わなかった。
「知らない場所で怖かっただろうけど、素敵な人たちと出会ったね。お母さん、嬉しくなっちゃった。灯もあんな風に笑えるんだね。お母さんそっくり」
嬉しそうに話す母親の手が私の頬を包んだ。その冷たい手が、現実ではないことを実感させる。
都合のいい夢だな。本当に会えても、お母さんは私にこんなことを言ってくれるのかな。こんな風に笑ってくれるのかな。流した涙を拭ってくれるのかな。
「灯。お母さんからお願いがあるんだけど、いい?」
「お願い?」
「今の灯にならできることだよ」
包んでいた手をそっと離して私と向き合った。
その笑顔は温かいけれど、寂しい。
「歌って、灯」
「歌?ここで?」
「ううん、この夢から覚めた時。図書館に行くの」
図書館……エネルギー源。
「どうして、そのことを……あ、夢だからか」
今の私の状況を知っているのは、私が見ている夢だから。
一人納得した私を見た母親は、わざとらしく悩んでいた。
「うーん。それじゃあ、起きたら窓の外を見て、雨が降ってたらお母さんのこと信じてくれる?」
私の言うことは真実だと、瞳の奥が訴える。
信じるって、目の前にいる人は幻想ではないということ?
もしそうなら私は今、死んだはずの母親と会話をしている。
……あの世界があるくらいだから、もうなんでもありなんだろうな。
私は考えることをやめて冷静になった。
「雨か晴れなら二分の一じゃん」
それくらいなら当たろうが外れようが変わらない気もする。
母親は昔と同じように、私のツッコミに楽しそうに笑っていた。
「そうだね、まぁどちらでもいいよ。とにかく明日歌ってほしいの」
クラネスさんに歌ってほしいと言われたのは明後日。目が覚めたら明日になるけれど。
「明日は一日雨。だけど朝方、一瞬だけ晴れる時間があるの。その時に歌って」
明日、つまり今日。
「どうして?」
「明日の午後に嵐が来る。そのせいで灯が元の世界に帰れなくなってしまう。でも彼の作ったエネルギーなら、そんな嵐も吹き飛ばしてしまうから」
天候が崩れることはあまりないと聞いた日にこれか。
私が歌うことでエネルギーが動き出し、嵐を吹き飛ばすといったシナリオ。そんな力があのエネルギー源にあるという話は聞いたことがない。
これが嘘だった場合、多くの人に迷惑をかけるのは目に見えている。
「信じ難いけど、一応頭には入れとくよ」
私は軽く言葉を返した。
この人は嘘をつけるようなタイプではないし、私を傷つけることは言わない。それは夢であっても同じだ。
大体全部顔に出るから最初から分かってたけどね。
最後にどうするかは私が決める。
「ありがとう。……やっぱり変わったね、灯」
「えっ?そうかな」
「うん、目が違う。それならもう迷子にならないね」
そうだね、今はちゃんとやりたいことが分かっているから。もう見失わない。
「私が変われたのはクラネスさんやみんながいたからだよ。私の力じゃない」
そう言い切った私に不敵な笑みを向けてきた。
「でもその彼に、変わっていく姿に惹かれたって言われたんでしょ?なら自信持たなきゃ」
「そんなことまで知ってるの!?」
思いもよらない発言に顔が熱くなった。
「ずっと見てたからね」
私のことを面白がっているのか、無邪気に笑っていた。
「みんなと出会って変われたのは本当で、周りの環境が灯をそうさせたのかもしれない。でも、変わろうと決めたのは灯自身でしょ?その覚悟を信じなさい」
私に言葉を遺すその顔は、紛れもなく一人の母親だった。それも子を守る母親ではなく、私の背中を押してくれる心強い母親。
「そうだね。お母さんに言われちゃったら、信じないと」
私が笑いかけると、母親を包んでいた淡い光が眩く光り始めた。
「前向いて走ってる灯、とってもかっこいいよ。これからもお父さんと見守ってるからね」
焦りも不安も悲しみさえも感じさせない、いつもの笑顔を見せてくれたお母さん。それに応えるように私も笑う。
「うん。ありがとう」
ずっと言いたかった感謝の五文字だけを伝えた。
白い空間に同化していく。
「大好きだよ、灯」
最後まで笑顔を絶やさなかったあの人は、さようならもまたねも言わずに消えていった。
私一人が残ったこの場所で、光の粒子が舞っている。
私は明晰夢から目覚める方法を知っている。
少しの時間だったけど、会えてよかった。
私も大好きだよ、お母さん。
夢の世界に別れを告げ、私は私に、母親から託された願いのバトンを渡した。